平家物語
巻第一 | 祇園精舎 / 殿上の闇討 / 鱸(すずき)/ かぶろ / 我身の栄花 / 鹿の谷 |
巻第三 | 足 摺 / 御 産 / 医師問答 |
巻第五 | 都 遷 / 月 見 / 都帰り |
巻第六 | 入道死去 / 祇園女御 |
巻第七 | 倶利伽羅落 / 主上の都落ち / 忠度の都落ち |
巻第九 | 宇治川の先陣 / 木曾の最期 / 敦盛の最期 |
巻第十一 | 那須与一 / 壇の浦合戦 / 先帝の身投げ / 能登殿の最期 / 重衡の斬られ |
巻第十二 | 判官の都落ち / 六 代 |
灌頂 | 大原御幸 / 六道の沙汰 / 女院死去 |
(一)
祇園精舎(ぎをんしやうじや)の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹(しやらさうじゆ)の花の色、盛者必衰(じやうしやひつすい)の理(ことわり)をあらはす。驕(おご)れる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。猛(たけ)き者もつひには滅びぬ、ひとへに風の前の塵(ちり)に同じ。
遠く異朝(いてう)をとぶらへば、秦(しん)の趙高(てうかう)、漢の王莽(わうまう)、梁(りやう)の周伊(しうい)、唐の禄山(ろくさん)、これらは皆旧主先皇の政(まつりごと)にもしたがはず、楽しみをきはめ、諌(いさ)めをも思ひ入れず、天下の乱れん事を悟らずして、民間の愁(うれ)ふるところを知らざつしかば、久しからずして、亡じにし者どもなり。近く本朝をうかがふに、承平の将門(まさかど)、天慶の純友(すみとも)、康和の義親(ぎしん)、平治の信頼(しんらい)、これらは驕れる事も猛き心も、皆とりどりにこそありしかども、間近くは、六波羅の入道(にゆうどう)前太政大臣平朝臣清盛公(さきのだいじょうだいじんたひらのあつそんきよもりこう)と申しし人の有様、伝へ承るこそ心も言(ことば)も及ばれね。
【現代語訳】
祇園精舎の(無常堂の)鐘の音は、諸行無常(万物は刻々と変化していくもの)の響きがある。(釈迦入滅の時に白色に変ったという)沙羅双樹の花の色は、盛んな者もいつか必ず衰えるという道理をあらわしている。驕り高ぶった人も、いつまでもそのままでいることはない。それは春の夜の夢のようなものだ。猛々しい者も最後には滅びてしまう。それは全く風の前の塵と同じだ。
遠く外国に例を求めれば、秦の趙高、漢の王莽、梁の周伊、唐の安禄山、これらの者は皆、元の主君や前代の皇帝の政道にも従わず、ぜいたくの限りを尽くし、人の諌めを受け入れようともせず、天下が乱れることを悟らず、民衆の憂いも顧みなかったので、長続きせず滅亡してしまった者たちである。また近くわが国の例を見ると、承平の平将門、天慶の藤原純友、康和の源義親、平治の藤原信頼、これらの人は権勢を誇る心も勇猛なことも、皆それぞれ甚だしいものだったが、やはりたちまち滅びた者たちである、ごく最近では、六波羅におられた入道前の太政大臣平の朝臣清盛公と申した人のありさまを伝え聞いてみると、想像することもできず、言葉でも十分言い表せないほどだ。
(注)祇園精舎・・・祇園は祇樹給孤独園の略。インド舎衛国の須達長者が釈迦のために建てた寺院(精舎)。
(注)趙高・・・秦の始皇帝の臣。帝の死後、二世皇帝を擁して権力をふるったが、三世皇帝の時代になって殺された。
(注)王莽・・・前漢の平帝を毒殺して自ら帝位につき、国号を新としたが、後漢の光武帝に滅ぼされた。
(注)周伊・・・梁の武帝の臣として国政を専断したが、のち乱を招き自殺した。
(注)禄山・・・唐の玄武皇帝の臣、安禄山。反乱を起こし、のち討たれた。
(二)
その先祖を尋ぬれば、桓武天皇の皇子、一品(いつぽん)式部卿(しきぶのきやう)葛原親王(かづらはらのしんわう)九代の後胤(こういん)、讃岐守(さぬきのかみ)正盛(まさもり)が孫(そん)、刑部卿(ぎやうぶきやう)忠盛朝臣(ただもりのあつそん)の嫡男なり。かの親王の御子(みこ)高見(たかみ)の王、無官無位にして失せ給ひぬ。その御子(おんこ)高望王(たかもちのわう)の時、初めて平の姓(しやう)を賜って、上総介(かずさのすけ)になり給ひしよりこのかた、たちまちに王氏(わうし)を出でて人臣に連なる。その子鎮守府将軍良望(よしもち)、後には国香(くにか)と改む。国香より正盛にいたるまで六代は、諸国の受領(じゆりやう)たりしかども、殿上(てんじやう)の仙籍(せんせき)をば未だ許されず。
【現代語訳】
その先祖を調べてみると、清盛公は桓武天皇の第五皇子・一品式部卿葛原親王の九代目の子孫にあたる讃岐守の正盛の孫であり、刑部卿忠盛の朝臣の嫡子である。あの葛原親王の御子の高見の王は、官職にもつかず位階もなく亡くなられた。その御子の高望の王の時に、はじめて平の姓をいただいて、上総介になられてから以後すぐに皇族を離れて臣下の列に加わった。その高望の王の子の鎮守府の将軍良望は、後に国香と名を改めた。その国香から正盛に至るまでの六代の間は諸国の受領だったが、まだ殿上人として宮中への昇殿を許されなかった。
(注)一品式部卿・・・「一品」は親王の最高位。四品まであった。式部省は礼式や文官の人事を司る役所で、「式部卿」はその長官。
(注)刑部卿・・・裁判や処刑を司る刑部省の長官。
【PR】
↑ ページの先頭へ
(一)
しかるを忠盛(ただもり)、未だ備前守(びぜんのかみ)たりし時、鳥羽院(とばのゐん)の御願(ごぐわん)、得長寿院(とくぢやうじゆゐん)を造進(ざうしん)して、三十三間の御堂(みだう)を建て、一千一体の御仏(みほとけ)を据(す)ゑ奉らる。供養は天承元年三月十三日なり。勧賞(けんじやう)には闕国(けつこく)を賜ふべき由(よし)仰せ下されける。折節(をりふし)但馬国(たじまのくに)のあきたりけるを賜(た)びにけり。上皇(しやうくわう)なほ御感(ぎよかん)のあまりに、内の昇殿を許さる。忠盛三十六にて初めて昇殿す。雲の上人(うへびと)これをそねみ憤(いきどほ)り、同じき年の十二月二十三日、五節(ごせつ)豊明(とよのあかり)の節会(せちゑ)の夜、忠盛を闇討(やみうち)にせんとぞ、擬(ぎ)せられける。
忠盛、これを伝へ聞きて、「われ右筆(いうひつ)の身にあらず。武勇の家に生まれて、今不慮の恥にあはんこと、家のため身のため心憂かるべし。詮(せん)ずるところ、身を全(まつた)うして君に仕へ奉れといふ本文(ほんもん)あり」とて、かねて用意をいたす。参内の始めより、大きなる鞘巻(さやまき)を用意し、束帯(そくたい)の下にしどけなげに差し、火のほの暗き方(かた)に向かつて、やはらこの刀を抜き出だし、鬢(びん)に引き当てられけるが、氷などのやうにぞ見えける。諸人(しよにん)目をすましけり。
【現代語訳】
ところが、忠盛が備前(岡山県)の守だったときに、鳥羽院の御祈願寺、得長寿院を造進し、三十三間堂を建てて、一千一体の御仏像を安置申し上げた。寺院落成は天承元年三月十三日だった。そのほうびとして、鳥羽院が国司が欠員になっている国をお与えくださると仰せ下さった。ちょうどそのときに但馬国(兵庫県の一部)が空いていたのをお与え下さった。上皇(鳥羽院)は、忠盛の功績に御感心のあまり、内裏への昇殿をお許しになった。しかし、殿上人たちはこれをねたみ、同じ年の十二月二十三日、五節豊明の節会の夜に、忠盛を暗殺しようと話し合った。
忠盛はこれを人づてに聞き、「自分は文官の身ではない。武人の家に生まれて、今、思いもしない恥を受けては、家のためにも自分のためにも情けないことだ。『自分の身を無事に守って主君にお仕えする』ことこそが本分である」と思い、前もって対策を立てた。参内するはじめから大きな鞘巻を用意し、束帯の下に人から見えるようにだらしなく差して、灯のほの暗い方に向かって、静かにその刀を抜き出し、鬢に当てた。それが氷などのように冷たくいかにもよく切れそうに見えた。人々は驚いて目を凝らして見た。
(注)鳥羽院・・・鳥羽上皇。第74代の天皇で、在位16年の後、28年間にわたり院政をしいた。
(注)五節豊明の節会・・・毎年十一月の第二の丑寅卯辰の四日間に行われる「五節の舞」の宴。その最後の日が「豊明の節会」。
(注)鞘巻・・・長さ25~28cmくらいの、つばのない短刀。
(二)
そのうへ、忠盛が郎等(らうどう)、もとは一門たりし木工助(もくのすけ)平貞光(たひらのさだみつ)が孫、進三郎大夫(しんのさぶらうだいふ)季房(すゑふさ)が子、左兵衛尉(さひやうゑのじよう)家貞(いへさだ)といふ者ありけり。薄青(うすあを)の狩衣(かりぎぬ)の下に萌黄縅(もえぎをどし)の腹巻を着、弦袋(つるぶくろ)つけたる太刀(たち)脇ばさんで、殿上の小庭に畏(かしこま)つてぞ候ひける。貫首(くわんじゆ)以下(いげ)怪しみをなして、「うつほ柱より内、鈴の綱の辺(へん)に、布衣(ほうい)の者の候ふは何者ぞ。狼藉(らうぜき)なり。とうとう罷(まか)り出でよ」と六位を以て言はせければ、家貞申しけるは、「相伝の主(しゆ)、備前守の殿、今宵(こよひ)闇討にせられ給ふべき由、承り候ふ間、そのならんやうを見んとて、かくて候ふ。えこそ罷り出づまじけれ」とて、畏つて候ひければ、これらをよしなしとや思はれけん、その夜の闇討なかりけり。
忠盛(ただもり)御前(ごぜん)の召しに舞はれければ、人々拍子を変へて、「いせへいじはすがめなりけり」とぞはやされける。この人々は、かけまくもかたじけなく、柏原(かしはばらの)天皇の御末(おんすゑ)とは申しながら、中ごろは都の住まひもうとうとしく、地下(ぢげ)にのみふるまひなつて、伊勢の国に住国(ぢゆうこく)深かりしかば、その器物(うつはもの)に事寄せて、「伊勢平氏」とぞ申しける。そのうへ、忠盛の目のすがまれたりければ、かやうには囃(はや)されけり。いかにすべきやうなくして、御遊(ぎよいう)も未だ終はらざるに、ひそかに罷(まか)り出でらるるとて、横だへ差されたりける刀をば、紫宸殿(ししんでん)の御後(ごご)にして、かたへの殿上人の見られける所に、主殿司(とものづかさ)を召して、預け置きてぞ出でられける。家貞待ち受け奉つて、「さて、いかが候ひつる」と申しければ、かくとも言はまほしう思はれけれども、言ひつるものならば、やがて殿上までも切り上らんずる者にてある間、「別(べち)のことなし」とぞ答へられける。
【現代語訳】
その上、忠盛の家来に、もとは同じ平家一門で木工助の職にある平貞光の孫・進三郎大夫季房の子で、左兵衛尉家貞という者がいた。その男が、薄青の狩衣の下に萌黄縅の腹巻を着て、弦袋をつけた太刀を小脇にはさんで、殿上の小庭にうやうやしく控えていた。蔵人頭をはじめ、人々はみな怪しく思い、「うつほ柱の内の鈴の綱あたりに布衣を着た者が控えているのは何者か。無礼千万である。早々に出て行け」と、六位の蔵人に命じて言わせたが、家貞は、「先祖代々お仕えしている主君・備前守殿が、今宵、闇討ちにお遭いになるのではとお聞きし、その成り行きを見届けるために、こうして控えているのです。何としてもここを出て行くことはできません」と言って、そのままうやうやしく控えていた。殿上人たちはこのようすに具合が悪いと思ったのか、その夜の闇討ちは行われなかった。
忠盛が鳥羽院の御前に召されて舞いを舞ったところ、人々は奏楽の拍子を変えて、「いせへいじはすがめだよ」とはやし立てた。平氏の人々は、口に出すのも畏れ多いが、桓武天皇の御子孫でありながら、その後は都の暮らしも縁遠くなり、地下人としてのみ行動するようになって、伊勢の国での暮らしが縁深くなっていた。そのため、伊勢の国の特産物である焼き物にかこつけて、「伊勢平氏」と言ったのだ。その上、忠盛は目がすがめ(やぶにらみ)だったので、そのようにはやし立てたのだった。忠盛はどうしようもなく、御宴の遊びもまだ終わらないうちにこっそりと退出しようと、紫宸殿の北側の、殿上人が近くに見ている所で主殿司を呼び、腰に横にして差していた刀を預けて退出した。家貞は忠盛を待ち受け、「ところで、ごようすはいかがでございましたか」と申したので、忠盛はかくかくしかじかと言いたかったが、本当のことを言えば、家貞はただちに殿上の間に切り込みかねない者だったので、「格別のこともない」と答えた。
(注)木工助・・・宮殿の造営や修理にたずさわる木工寮の次官。
(注)萌黄縅の腹巻・・・もえぎ色の糸で縅(おどし)をした鎧(よろい)。「縅」は鎧に鉄片を糸や皮で綴ること。
(注)うつほ柱・・・清涼殿の南すみにある雨どい。「うつほ」は中が空である意味で、うつほ柱は中に穴が通っている。
(注)柏原天皇・・・桓武天皇の別称。
(注)紫宸殿・・・大内裏の正殿の名前。
(注)主殿司・・・主殿寮で雑用にたずさわる身分の低い女官。
(三)
五節には、「白薄様(しろうすやう)、ごぜんじの紙、巻き上げの筆、鞆絵(ともゑ)かいたる筆の軸」なんど、さまざま面白きことをのみこそ歌ひ舞はるるに、中ごろ、大宰権師(だざいのごんのそつ)季仲卿(すゑなかのきやう)といふ人ありけり。あまりに色の黒かりければ、見る人「黒師(こくそつ)」とぞ申しける。その人いまだ蔵人頭(くらんどのとう)なりし時、五節に舞はれければ、それも拍子を変へて、「あな黒々、黒き頭(とう)かな。いかなる人の漆(うるし)塗りけん」とぞはやされける。また、花山院(くわざんのゐんの)前太政大臣(さきのだいじやうだいじん)忠雅(ただまさ)公、いまだ十歳と申しし時、父中納言忠宗卿(ただむねのきやう)におくれ奉つて、みなしごにておはしけるを、故(こ)中御門(なかみかどの)藤(とう)中納言家成卿(いへなりのきやう)、いまだ播磨守(はりまのかみ)たりし時、婿をとりて、はなやかにもてなされければ、それも五節に、「播磨米(はりまよね)はとくさか、むくの葉か、人の綺羅(きら)を磨くは」とぞはやされける。「上古(しやうこ)には、かやうにありしかども、事出で来ず。末代いかがあらんずらん。おぼつかなし」とぞ人申しける。
【現代語訳】
五節には、「白薄様、ごぜんじの紙、巻き上げの筆、鞆絵かいたる筆の軸」などと、さまざまの面白いことばかりを歌い舞うが、ちょっと昔に、大宰権師季仲卿という人がいた。この人はあまりに顔の色が黒かったので、見た人は「黒師」とあだ名をつけた。その彼がまだ蔵人頭だったとき、五節で舞ったところ、殿上人たちが同じように拍子を変えて「ああ黒い黒い、黒い蔵人頭だな。どんな人が漆を塗ったのか」と歌ってはやし立てた。また、花山院の前の太政大臣忠雅公がまだ十歳のころ、父の中納言忠宗卿に先立たれ孤児となられたのを、故中御門藤中納言家成卿がまだ播磨守のときに、この忠雅卿を娘の婿に迎えて、はでな生活をおさせになっていた。そして、お方へも五節には、「播磨の米は木賊(とくさ)か椋(むく)の葉か、人を磨いて華やかにさせているよ」とはやし立てた。「昔はこのように和やかだったが、何も起こりはしなかった。しかし、今のような末世ではどうなることか。何かが起こりそうで心配だ」と、人々はうわさし合った。
(注)大宰権師・・・大宰師(長官)に代わって大宰府の政務をつかさどる者。「権」は仮の任官の意味。
(注)花山院・・・「花山院」は藤原家忠の邸宅の名で、子孫はこれを家号とした。
(注)木賊、椋の葉・・・共に物を磨くときに用いる。
(四)
案の如く、五節果てにしかば、殿上人一同に申されけるは、「それ雄剣(ゆうけん)を帯して公宴(くえん)に列し、兵仗(ひやうぢやう)を賜はりて宮中に出入(しゆつにふ)するは、皆(みな)格式(きやくしき)の礼を守る、綸命(りんめい)由(よし)ある先規(せんぎ)なり。しかるを、忠盛朝臣、あるいは相伝の郎従(らうじゆう)と号して、布衣(ほうい)のつはものを殿上の小庭に召し置き、あるいは腰の刀を横だへに差いて、節会(せちゑ)の座に連なる。両条(りやうでう)、希代(きたい)未だ聞かざる狼藉(らうぜき)なり。事すでに重畳(ちようでふ)せり。罪科もつとも逃れがたし。早く御札(みふだ)を削つて、闕官(けつくわん)停任(ちやうにん)せらるべき」由、おのおの訴へ申されければ、上皇(しやうくわう)大いに驚きおぼし召し、忠盛を召して、御尋ねあり。
陳じ申しけるは、「まづ、郎従小庭に伺候(しこう)の由、全く覚悟(かくご)仕(つかまつ)らず。ただし、近日人々 相(あひ)たくまるる子細(しさい)あるかの間、年ごろの家人(けにん)、事を伝へ聞くかによつて、その恥を助けんがために、忠盛に知られずしてひそかに参候(さんこう)の条、力及ばざる次第なり。もし、なほその咎(とが)あるべくは、かの身を召し進ずべきか。次に刀のこと、主殿司(とのもづかさ)に預け置きをはんぬ。これを召し出され、刀の実否(じつぷ)によつて、咎(とが)の左右(さう)行はるべきか」と申されたりければ、「この儀もつともしかるべし」とて、急ぎかの刀を召し出だして叡覧(えいらん)あれば、上は鞘巻(さやまき)の黒く塗りたりけるが、中は木刀(きがたな)に銀箔(ぎんぱく)をぞ押したりける。「当座の恥辱を逃れんがために、刀を帯する由あらはすといへども、後日(ごにち)の訴訟を存知して、木刀を帯しける用意のほどこそ神妙(しんべう)なれ。弓箭(きゆうせん)に携はらん者の謀(はかりこと)は、最もかうこそあらまほしけれ。かねてはまた、郎従小庭に伺候の条、かつうは武士の郎等(らうどう)の習ひなり。忠盛が咎にあらず」とて、かへつて叡感(えいかん)に預(あづか)つし上は、あへて、罪科の沙汰(さた)もなかりけり。
【現代語訳】
案の定、五節が終わると、殿上人たちがそろって上皇に申し上げたのは、「そもそも、大剣を腰に差して公式の宴会に列席するとか、随身を許されて宮中に出入りするなどは、いずれも格式に定められた礼法を守るべきであって、それらは勅命、また由緒ある昔からの規定である。それなのに、忠盛朝臣は、一つには先祖代々の家来だと称して、無位無官の武士を殿上の間近くの小庭に呼び入れ、また一つには腰の刀を横たえ差し、節会の座に並んだりした。いずれも世にも稀な、これまで聞いたことのないふとどきである。これが二つも重なっているのだ。その罪はどうしても逃れることはできない。早く殿上の御札から彼の名前を削り、官職を取り上げ、役人を免ずるのが当然」ということだった。上皇は大いに驚き、忠盛を呼び寄せられて、ご質問なさった。
忠盛が弁明して申し上げたことは、「まず、家来が小庭に控えていたことは、私は全く知らなかったことでございます。ただ、近ごろ人々がいっしょになって私に何か企みをもち、何かわけがあるようで、昔からの家来がそれを耳にし、私の恥を助けるため、この忠盛に知られないようにこっそり参上していたもので、何ともしようがございませんでした。もし、それでもなお私の家来を処罰すべきならば、その者の身柄をお引渡しいたしましょう。次に刀のことは、このようなこともあろうかと思い、主殿司に預けておきました。その刀をここにお取り寄せになって、実物であるかどうかで、処罰をお決めください」ということだった。上皇は、それはもっともであると、刀を取り寄せてご覧になると、表面は鞘巻で黒く塗ってあり、中身は木刀に銀箔をほどこしたものだった。そこで、上皇は、「目の前にせまった恥を逃れるため、刀を差しているように見せながら、後日訴えられるのを考慮して、木刀を差してきたという用意の周到さは立派である。弓矢に携わる者の心構えは、ほんとうにこうあってほしいものだ。それにまた、家来が小庭に控えていたことも、ある意味では、武士の習わしで当然のことだ。忠盛に罪はない」とおっしゃり、かえってお褒めをいただいたからには、少しの処罰のご命令もなかったのである。
【PR】
↑ ページの先頭へ
(一)
その子どもは、諸衛(しよゑ)の佐(すけ)になる。昇殿せしに、殿上の交はりを人嫌ふに及ばず。そのころ忠盛、備前国より都へ上りたりけるに、鳥羽院、「明石浦はいかに」と御尋ねありければ、
有明の月も明石の浦風に浪ばかりこそよると見えしか
と申したりければ、御感(ぎよかん)ありけり。この歌は、金葉集(きんえふしふ)にぞ入れられける。忠盛また、仙洞(せんとう)に最愛の女房を持つて通はれけるが、ある時、その女房の局(つぼね)に、つまに月出だしたる扇を忘れて出でられたりければ、かたへの女房たち、「これはいづくよりの月影ぞや。出で所おぼつかなし」と笑ひあはれければ、かの女房、
雲井よりただもり来たる月なればおぼろけにては言はじとぞ思ふ
と詠みたりければ、いとど浅からずぞ思はれける。薩摩守(さつまのかみ)忠度(ただのり)の母これなり。似るを友とかやの風情(ふぜい)に、忠盛も好いたりければ、かの女房も優(いう)なりけり。
【現代語訳】
その子どもたちは、いろいろな衛府の次官になった。忠盛は昇殿を許されたので、人々は殿上での交際をいやがるわけにはいかなかった。そのころ、忠盛は任国の備前国から都へ上り、鳥羽院から、「明石の浦はどのようだったか」とお尋ねがあったので、
有明の月の光が明るい明石の浦は、潮風に吹かれて波ばかりが打ち寄せ、そこだけ夜に見えたことです。
と詠んで申し上げたところ、たいそうお褒めをいただいた。この歌は金葉集に入れられた。忠盛はまた上皇の御所にお仕えする最愛の女房がいて、夜ごと通っていたが、ある時、その女房の部屋に、端に月を描いた扇を置き忘れて帰ってしまった。それを見つけた仲間の女房たちが、「これはどこから来た月光でしょうか。出所があやしいわ」と笑いあったので、この女房は、
雲の間からただ漏り(=忠盛)来た月の光なので、おぼろげですから言いますまい。
と詠んだので、これを聞いた忠盛は、ますます深くこの女房を愛した。後に薩摩守忠度の母となるのがこの女房だ。似た者夫婦の趣で、忠盛も和歌をたしなんでいたので、この女房もまことに風雅に満ちていた。
(二)
かくて忠盛、刑部卿(ぎやうぶきやう)になつて、仁平(にんぺい)三年正月十五日、歳五十八にて失(う)せにき。清盛、嫡男たるによつて、その跡を継ぐ。
保元元年七月に、宇治の左府(さふ)世を乱り給ひし時、安芸守(あきのかみ)とて御方(みかた)にて勲功ありしかば、播磨守に移つて、同じき三年大宰大弐(だざいのだいに)になる。次に平治元年十二月、信頼卿(のぶよりのきやう)が謀叛(むほん)の時、御方にて賊徒(ぞくと)を討ち平らげ、勲功一つにあらず、恩賞これ重かるべしとて、次の年、正三位(じやうざんみ)に叙せられ、うち続き宰相(さいしやう)、衛府督(ゑふのかみ)、検非違使別当(けんびゐしのべつたう)、中納言、大納言に経(へ)上がつて、あまつさへ丞相(しようじやう)の位に至る。左右(さう)を経ずして、内大臣より太政大臣従一位に上がる。大将(だいしやう)にあらねども、兵杖(ひやうぢやう)を賜はつて随身(ずゐじん)を召し具す。牛車(ぎつしや)輦車(れんじや)の宣旨(せんじ)を蒙(かうぶ)つて、乗りながら宮中を出入す。ひとへに執政の臣の如し。「太政大臣は一人(いちじん)に師範として、四海に儀刑(ぎけい)せり。国を治め道を論じ、陰陽をやはらげ治む。その人にあらずはすなはちかけよ」と言へり。されば則闕(そくけつ)の官とも名付けたり。その人ならでは汚(けが)すべき官ならねども、一天四海を掌(たなごころ)の内に握られし上は、子細(しさい)に及ばず。
【現代語訳】
こうして、忠盛は刑部卿になって、仁平三年正月十五日、五十八歳で亡くなった。清盛が嫡男であったので、その跡を継いだ。
保元元年七月に、宇治の左大臣(藤原頼長)が乱を起こして世を騒がせた時、清盛は安芸(広島県)守として後白河天皇に味方して功績をあげたので、播磨守に転任し、同じ年の三年に大宰大弐になった。次に平治元年十二月、藤原信頼卿が謀叛を起こした時(平治の乱)、天皇に味方し朝敵を平定し、勲功は一度だけでない、恩賞は重くすべきということで、翌年、正三位に叙せられ、続いて宰相、衛府督、検非違使別当、中納言、大納言とかけ上がり、さらに大臣の位にまで進んだ。左右の大臣を歴任せずに、内大臣から太政大臣・従一位に昇進した。大将ではないのに兵杖宣下をいただき、外出の際には随身を召し連れる。牛車・輦車の宣旨もいただいて、車に乗ったまま宮中に出入りする。これはまったく摂政・関白のようである。そもそも「太政大臣は天子の模範であり、天下の手本である。国を治め人の道を説き、陰陽を調和して治めるほどのもの。それにかなう人がなければ欠員にせよ」と定められている。そのため「則闕の官」とも名づけられている。それにふさわしい人でなければ汚してはならない官職ではあるが、清盛が全国を掌中にしたからには、とやかく言うこともできない。
(三)
平家かやうに繁昌(はんじやう)せられけるも、熊野権現の御利生(ごりしやう)とぞ聞こえし。その故は、いにしへ清盛公いまだ安芸守たりし時、伊勢の海より船にて熊野へ参られけるに、大きなる鱸(すずき)の、船に跳(をど)り入(い)りたりけるを、先達(せんだち)申しけるは、「これは権現の御利生なり。急ぎ参るべし」と申しければ、清盛のたまひけるは、「昔、周の武王の舟にこそ白魚(はくぎよ)は踊り入りたりけるなれ。これ吉事なり」とて、さばかり十戒(じつかい)を保ち、精進潔斎(しやうじんけつさい)の道なれども、自ら調味(てうび)して、家の子・侍(さぶらひ)どもに食はせられけり。その故にや、吉事のみうち続いて、太政大臣まで極めたまへり。子孫の官途(くわんど)も、竜の雲に昇るよりはなほ速やかなり。九代の先蹤(せんじよう)を越え給ふこそめでたけれ。
【現代語訳】
平家がこのように繁栄なさったのも、熊野(和歌山県)の三所権現のご利益だと言われた。その理由は、昔、清盛公がまだ安芸守だった時、伊勢の海から船で熊野にお参りになり、その途中で大きな鱸が船に飛び込んできて、案内人が「これは権現のご利益です。すぐに召し上がるのがよろしいでしょう」と言い、清盛が「昔、周の武王の船に白魚が飛び込んできたという。これは縁起のよいことだ」と言い、厳しく十戒を守り、精進潔斎の道中ではあったが、清盛が料理して、家の子や家来たちにも食べさせた。そのためか、めでたいことばかり続いて、太政大臣にまで上り詰めた。子孫の官位昇進も、竜が雲に昇るより速かった。先祖から九代にわたる先例を越えたのは、めでたいことであった。
↑ ページの先頭へ
かくて清盛公、仁安(にんあん)三年十一月十一日、年五十一にて病に冒され、存命のためにたちまちに出家入道す。法名は浄海(じやうかい)とこそ名のられけれ。そのしるしにや、宿病たちどころに癒(い)えて、天命を全(まつた)うす。人の従ひつくこと、吹く風の草木をなびかすが如し。世のあまねく仰(あふ)げる事、降る雨の国土をうるほすに同じ。六波羅殿の御一家の君達(きんだち)と言ひてんしかば、花族(くわぞく)も英雄も、面(おもて)を向かへ、肩を並ぶる人なし。されば入道相国の小舅(こじうと)、平(へい)大納言時忠卿の宣ひけるは、「この一門にあらざらん人は皆(みな)人非人(にんぴにん)なるべし」とぞ宣ひける。かかりしかば、いかなる人も、相(あひ)構へてそのゆかりに結ぼれんとぞしける。衣紋(えもん)のかきやう、烏帽子のためやうより始めて、何事も六波羅やうと言ひてんげれば、一天四海の人、皆これを学ぶ。
また、いかなる賢王賢主(けんわうけんじゆ)の御政(おんまつりごと)も、摂政関白の御成敗も、世にあまされたる徒者(いたづらもの)なんどの、人の聞かぬ所にて、何となう誹(そし)り傾(かたぶ)け申す事は常の習ひなれども、この禅門(ぜんもん)世盛(よざか)りの程は、いささかゆるがせにも申す者なし。その故は、入道相国の謀(はかりこと)に、十四五六の童部(わらんべ)を三百人そろへて、髪を禿(かぶろ)に切りまはし、赤き直垂(ひたたれ)着せて召し使はれけるが、京中に満ち満ちて往反(わうばん)しけり。おのづから、平家のこと悪しざまに申す者あれば、一人(いちにん)聞き出ださぬ程こそありけれ、余党(よたう)に触れ回してその家に乱入し、資材雑具を追捕(ついぶ)し、その奴(やつ)をからめ取つて、六波羅へ率(ゐ)て参る。されば目に見、心に知るといへども、詞(ことば)に顕(あらは)して申す者なし。六波羅の禿(かぶろ)と言ひてんしかば、道を過ぐる馬車(むまくるま)も、皆よぎてぞ通りける。禁門を出入りすといへども、姓名(しやうみやう)を尋ねらるるに及ばず。京師(けいし)の長吏(ちやうり)、これがために目を側(そば)むと見えたり。
【現代語訳】
こうして清盛公は、仁安三年十一月十一日、五十一歳のときに病気にかかり、命を長らえたいと、急に髪をおろして出家入道した。法名は浄海と名乗られた。そのおかげか、長年の病もたちどころに治って、結局天寿を全うした。人々がその威勢に従いつくさまは、吹く風が草木をなびかすようである。また、世の人々がすべて敬い慕うさまは、降る雨が国土をうるおすのと同様だ。だれであろうと、六波羅殿のご一家の若者とさえ言えば、華族だろうと花族だろうと、だれも面と向かって物を言い肩を並べようとする者はいない。入道相国の小姑にあたる平大納言時忠卿は、「この一門でない者はみな人ではない」と言っておられた。こんな具合だったから、どの人も、何とかしてこの一門の縁にあやかろうとした。着物の着方や烏帽子の曲げ具合をはじめ、何から何まで、これが六波羅ふうだといえば、天下の人々が皆こぞってこれをまねた。
また、いかに賢明な国王・国主や摂政関白の政治であっても、世間から落ちこぼれたつまらない者たちが、人の聞いていない物陰で、何かにつけて悪口を言ったり非難したりするのがふつうだが、この入道の全盛期には少しもおろそかに言う者はいなかった。その理由は、十四歳から十五、六歳の子どもを三百人もそろえて、髪をかぶろに切りそろえ、赤い直垂を着せて召し使っていて、その彼らが京都の町中にあふれるほど往来していたからだ。たまたま平家のことを悪く言う者があると、だれも聞きつけなければよいが、一人でも聞きつけようものなら、他の仲間と連絡しあってその家に乱入し、家財や道具などを没収し、その当人を捕まえて六波羅へ引っ立てた。だから、たとえ平家の悪事を目に留め、気がついたとしても、口に出して言う者はいなかった。六波羅のかぶろだと言えば、道を行く馬や牛車も避けて通った。宮城を出入りするときも、衛兵に姓名を問われることなく、そんな振る舞いに高官たちも目をそらした、と『長恨歌伝』にあるが、まさにその通りだった。
↑ ページの先頭へ
(一)
我が身の栄花(えいぐわ)を極むるのみならず、一門共に繁昌(はんじやう)して、嫡子重盛(しげもり)、内大臣の左大将、次男宗盛(むねもり)、中納言の右大将、三男知盛(とももり)、三位中将(さんみのちゆうじやう)、嫡孫(ちやくそん)維盛(これもり)、四位少将(しゐのせうしやう)、すべて一門の公卿(くぎやう)十六人、殿上人(てんじやうびと)三十余人、諸国の受領(じゆりやう)、衛府(ゑふ)、諸司、都合六十余人なり。世には又人なくぞ見えられける。
昔、奈良の帝(みかど)の御時(おんとき)、神亀(じんき)五年、朝家(てうか)に中衛(ちゆうゑ)の大将(だいしやう)を始め置かれ、大同(だいどう)四年に、中衛を近衛(こんゑ)に改められしより以来(このかた)、兄弟左右(さう)に相並ぶ事、わづかに三四か度なり。文徳(もんとく)天皇の御時は、左に良房(よしふさ)右大臣の左大将、右に良相(よしあふ)大納言の右大将、これは閑院(かんゐん)の左大臣冬嗣(ふゆつぎ)の御子なり。朱雀院(しゆじやくゐん)の御宇(ぎよう)には、左に実頼(さねより)小野宮殿(をののみやどの)、右に師輔(もろすけ)九条殿、貞信公(ていしんこう)の御子なり。後令泉院(ごれいぜんゐん)の御時は、左に教通(のりみち)大二条殿(おほにでうどの)、右に頼宗(よりむね)堀川殿、御堂(みだう)の関白の御子なり。二条院の御宇(ぎよう)には、左に基房(もとふさ)松殿(まつどの)、右に兼実(かねざね)月輪殿(つきのわどの)、法性寺殿(ほうしやうじどの)の御子なり。これ皆、摂禄(せふろく)の臣の御子息(ごしそく)、凡人(はんじん)にとりては、その例なし。殿上の交りをだに嫌はれし人の子孫にて、禁色(きんじき)・雑袍(ざつぽう)をゆり、綾羅錦繍(りようらきんしう)を身にまとひ、大臣の大将になりて、兄弟左右に相並ぶ事、末代とはいひながら、不思議なりし事どもなり。
【現代語訳】
清盛は、自身が栄華を極めるだけでなく、一門がともに繁栄して、嫡子重盛は内大臣で左大将、次男宗盛は中納言で右大将、三男知盛は三位中将、嫡孫維盛は四位少将となり、一門すべてで、公卿は十六人、殿上人は三十余人、諸国の受領や衛府、諸官庁の役人は合計六十余人である。政界には平家一門以外に人はいないというほどに見えた。
昔、聖武天皇の御代の神亀五年に、朝廷の中衛府に大将を初めて置かれ、大同四年に、中衛府を近衛府と改められてから今に至るまで、兄弟が左右の大将に並ぶことは、わずか三四度ほどである。文徳天皇の御代に、左近衛府大将を藤原良房が勤め、右大臣の左大将、右近衛府大将を藤原良相が勤め、大納言の右大将であった。この二人は共に閑院の左大臣藤原冬嗣の御子である。朱雀院の御代には、左に藤原実頼すなわち小野宮殿、右に藤原師輔すなわち九条殿、この二人も共に貞信公の御子である。御冷泉院の御代には、左に藤原教通すなわち大二条殿、右に藤原頼宗すなわち堀川殿で、この二人も御堂関白道長の御子である。二条院の御代では、左に藤原基房すなわち松殿、右に藤原兼実すなわち月輪殿で法性寺殿の御子である。これらは皆、藤原摂関家のご子息で他の人ではその例がない。殿上での交流をさえ嫌われた人の子孫で、禁じられた装束や、束帯以外の装束で宮廷に出入りすることを許され、華麗な衣服を身にまとい、大臣で大将を兼任して兄弟が左右の対象に並ぶことは、末世とはいいながら、思いもよらぬことであった。
(二)
その外(ほか)、御娘(おんむすめ)八人おはしき、皆とりどりに幸(さいは)ひ給へり。一人(いちにん)は、桜町の中納言成範卿(しげのりのきやう)の北の方にておはすべかりしが、八歳の時、御約束ばかりにて、平治の乱(みだれ)以後、ひきちがへられて、花山院(くわざんのゐん)の左大臣殿の御台盤所(みだいばんどころ)にならせ給ひて、君達(きんだち)あまたましましけり。そもそもこの成範卿を、桜町の中納言と申しけることは、すぐれて心すき給へる人にて、常は吉野山を恋ひつつ、町に桜を植ゑならべ、その内に屋(や)を建てて住み給ひしかば、来る年の春ごとに、見る人、桜町とぞ申しける。桜は咲いて、七か日に散るを、名残を惜しみ、天照大神(あまてるおほんかみ)に祈り申されければにや、三七日(さんしちにち)まで名残ありけり。君も賢王にてましませば、神も神徳を輝やかし、花も心ありければ、二十日の齢(よはひ)を保ちけり。
一人(いちにん)は后(きさき)に立たせ給ふ。二十二にて皇子(わうじ)御誕生ありて、皇太子に立ち、位につかせ給ひしかば、院号かうぶらせ給ひて、建礼門院(けんれいもんゐん)とぞ申しける。入道相国(にふだうしやうこく)の御娘なる上、天下の国母(こくも)にてましませば、とかう申すに及ばれず。一人は六条の摂政殿の北の政所(まんどころ)にならせ給ふ。高倉院、御在位の御時、御母代(おんははしろ)とて、准三后(じゆんさんごう)の宣旨(せんじ)をかうぶらせ給ひて、白河殿とて重き人にてぞましましける。一人は普賢寺殿(ふげんじどの)の北の政所にならせ給ふ。一人は冷泉大納言隆房卿(りゅうほうのきやう)の北の方、一人は七条修理大夫(しつでうのしゆうりのだいぶ)信隆卿(のぶたかのきやう)に相具(あひぐ)し給へり。また安芸国厳島(あきのくにいつくしま)の内侍(ないし)が腹に一人、これは後白河の法皇へ参らせ給ひて、女御(にようご)のやうにてぞましましける。その外、九条院の雑仕(ざふし)、常葉(ときは)が腹に一人、これは花山院殿に、上臈(じやうらふ)女房にて、廊(らう)の御方(おんかた)とぞ申しける。
【現代語訳】
そのほか御娘が八人おられ、皆それぞれに幸せを手にされた。一人は桜町の中納言成範卿の北の方になられるはずだったが、八歳の時に結婚の約束をなさっただけで、平治の乱で成範卿が配流されると引き離され、花山院の左大臣殿の御台盤所におなりになって、若君たちがたくさんおられた。そもそもこの成範卿を桜町の中納言と申し上げたのは、とりわけ風流心がおありの人で、いつも吉野山を恋い、一町四方に桜を植え並べ、その中に邸を造ってお住みになったので、毎年春ごとに桜を見る人たちが桜町と申しあげたのだった。桜は咲いて七日で散るのを、名残を惜しんで天照大神にお祈り申し上げられたので、二十一日まで名残を留めていた。君も賢王であられたため、神も神徳を発揮され、花にも心があったので、二十日の命を保ったのだ。
一人は高倉天皇の后になられた。皇子が誕生され、皇太子に立ち位におつきになると、院号をお受けになり、建礼門院と申された。入道相国の御娘であるうえ、天下の国母となられたので、その繁栄はとかくに申すまでもないことであった。一人は六条の摂政殿の北の政所におなりになった。高倉院が御在位の時、ご養母として准三后の宣旨をお受けになり、白河殿といって重んじられた人であった。一人は普賢寺殿の北の政所におなりになった。一人は冷泉大納言隆房卿の北の方、一人は七条修理大夫信隆卿と連れ会いになられた。また、安芸国厳島に奉仕する巫女の腹の中におられた一人は、後白河法皇のもとに参られて、女御のように振舞っておられた。そのほか、九条院の下級女官、常盤の腹に一人おられ、この方は花山院殿に上臈女房としてお仕えになり、廊の御方と申した。
(注)現代語訳は、現代文としての不自然さをなくすため、必ずしも直訳ではない箇所があります。
古典に親しむ
万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。 |
【PR】
(平清盛)
巻第2
巻第3
巻第4
巻第5
巻第6
巻第8
巻第9
巻第10
巻第11
巻第12
灌頂の巻
【PR】