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平家物語

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鹿(しし)の谷

(一)
 その頃の叙位・除目(ぢもく)と申すは、院・内(うち)の御はからひにもあらず、摂政・関白の御成敗(ごせいばい)にも及ばず。ただ一向(いつかう)平家のままにてありしかば、徳大寺・花山院(くわんさんのゐん)もなり給はず。入道相国(にふだうしやうこく)の嫡男(ちやくなん)小松殿、大納言の右大将にておはしけるが、左に移りて、次男宗盛、中納言にておはせしが、数輩(すはい)の上臈(じやうらふ)を超越して、右に加はられけるこそ、申すはかりもなかりしか。

 中にも徳大寺殿は一の大納言にて、花族(くわぞく)・英雄、才学雄長、家嫡(けちやく)にてましましけるが、平家の次男宗盛の卿に加階(かかい)越えられ給ひけるこそ遺恨(ゐこん)なれ。「定めて御出家などやあらんずらん」と、人々内々は申し合へりしかども、しばらく世のならんやうをも見んとて、大納言を辞し申して籠居(ろうきよ)とぞ聞こえし。

 新大納言成親卿(なりちかきやう)宣ひけるは、「徳大寺・花山院に越えられたらんはいかがせん。平家の次男宗盛の卿に加階越えらるるこそ安からね。これも、よろづ思ふさまなるがいたすところなり。いかにもして、平家を滅ぼし、本望を遂げん」と宣ひけるこそ恐ろしけれ。父の卿は、わづか中納言までこそ至られしか。その末子(ばつし)にて、位(くらゐ)正二位、官大納言に上がり、大国あまた賜はつて、子息(しそく)所従(しよじゆう)朝恩(てうおん)に誇れり。何の不足にかかる心つかれけん。これひとへに天魔の所為(しよゐ)とぞ見えし。平治には、越後中将(ゑちごのちゆうじやう)とて、信頼卿(のぶよりのきやう)に同心の間、すでに誅(ちゆう)せらるべかりしを、小松殿やうやうに申して、首を継ぎ給へり。しかるに、その恩を忘れて、外人(ぐわいじん)もなき所に兵具(ひやうぐ)を整へ、軍兵(ぐんびやう)を語らひ置き、その営みのほかは他事なし。

【現代語訳】
 その当時の叙位や除目というものは、上皇や天皇のお考えでもなく、摂政や関白の御裁定によるまでもなかった。ただひたすら平家の思うがままであったから、欠員となった左大臣の後任として順当であるはずの徳大寺・花山院もおなりにならない。入道相国の嫡男・小松殿(重盛)が大納言の右大将から左大将に移り、次男・宗盛が中納言から、数人の上位者の貴族を飛び越えて右大将に加わったのは、何とも申しようのないほどだ。
 
 中でも徳大寺殿は筆頭の大納言で、華族家・英雄家という家柄にあり、学問に優れ、本家の嫡子であったにもかかわらず、宗盛に先を越されてしまったのは遺恨であった。「きっと御出家なさるだろう」と、人々は内緒で言い合っていたが、しばらく政界のなりゆきを見ようということで、大納言を辞退なさり、家に引きこもられたという。
 
 また、新大納言の成親卿が言われるには、「徳大寺や花山院に追い越されるのは仕方がない。しかし平家の次男に先を越されるのは心外だ。これもすべて平家の思うがままの結果だ。何としても平家を滅ぼし、恨みを晴らしてやろう」と、恐ろしいことを言われる。成親卿の父君は中納言まで昇進し、成親卿はその末子でありながら位は正二位、官職は大納言にまで昇進し、その上に大国を領地にいただき、子息や家臣も朝廷の恩恵に浴し、今を時めいていた。それなのに、何の不足があってこのような心になられたのだろう。これはひとえに天魔のしわざとしか思えない。平治の乱では成親卿は越後の中将として信頼卿に味方したため、とっくに死罪に処せられていたはずが、小松殿が清盛公にあれこれお願い申し上げて首がつながったのだ。それなのにその恩を忘れて、敵とする人がいないはずの平家に対して、武器をととのえ、兵を集め、他のことをしようとはしなかった。

(二)
 東山のふもと、鹿(しし)の谷といふ所は、後ろは三井寺(みゐでら)に続いて、ゆゆしき城郭(じやうかく)にてぞありける。それに俊寛(しゆんくわん)僧都(そうづ)の山荘あり。かれに常は寄り合ひ、平家滅ぼさんずる謀(はかりこと)をぞ運(めぐら)しける。ある時、法皇も御幸(ごかう)なる。故少納言入道 信西(しんぜい)が子息、静憲(じやうけん)法印も御供仕らる。その夜の酒宴に、この由を静憲法印に仰せ合はせられければ、「あなあさまし。人あまた承り候(さうら)ひぬ。ただいま漏れ聞こえて、天下の大事に及び候ひなんず」と、大きに騒ぎ申しければ、新大納言、気色(けしき)変はりて、さと立たれけるが、御前に候ひける瓶子(へいじ)を、狩衣(かりぎぬ)の袖にかけて引き倒されたりけるを、法皇、「あれはいかに」と仰せければ、大納言立ち返りて、「平氏倒はれ候ひぬ」とぞ申されける。法皇ゑつぼに入(い)らせおはして、「者ども参つて猿楽(さるがく)(つかまつ)れ」と仰せければ、平判官康頼(へいはうぐわんやすより)参りて、「ああ、あまりに平氏の多う候ふに、もて酔(ゑ)ひて候ふ」と申す。俊寛僧都、「さてそれをば如何(いかが)仕らんずる」と申されければ、西光(さいくわう)法師、「首を取るにしかず」とて、瓶子の首を取つてぞ入りにける。

 静憲法印、あまりのあさましさに、つやつや物も申されず。かへすがへすも恐ろしかりし事どもなり。与力の輩(ともがら)は誰々ぞ。近江中将入道蓮浄(あふみのちゆうじやうにふだうれんじやう)俗名(ぞくみやう)成正(なりまさ)・法勝寺執行(ほつしようじのしゆぎやう)俊寛僧都・山城守基兼(やましろのかみもとかね)・式部大輔雅綱(しきぶのたいふまさつな)・平判官康頼(へいはうぐわんやすより)・宗判官信房(そうはうぐわんのぶふさ)・新平判官資行(しんへいはうぐわんすけゆき)・摂津国の源氏多田蔵人行綱(げんじだだのくらんどゆきつな)を始めとして、北面の輩多く与力したりけり。

【現代語訳】
 東山のふもとの鹿の谷という所は、後ろは三井寺に続き、なみなみならぬ要害の地だった。そこに俊寛僧都の山荘があった。その山荘に成親らは絶えず寄り集まって、平家を滅ぼす計画を練っていた。ある時、後白河法皇の御幸もあった。その際、故少納言信西の子息・静憲法印がお供した。その夜の酒宴の席で、法皇がこの計画を静憲法印にご相談なさったが、法印は「何とあきれたお話しか。大勢がお聞きしています。すぐに漏れ聞こえて天下の一大事になってしまうでしょう」と大騒ぎした。新大納言は顔色を変えてさっと立たれたが、法皇の御前にあった瓶子を狩衣の袖にひっかけて引き倒したのを法皇が御覧になり、「これはどうしたことか」とおっしゃったので、新大納言は席へ戻り、「平氏(瓶子)が倒れてしまいました」と申し上げた。法皇は思わずお笑いになり、「皆の者、参って猿楽をせよ」とおっしゃったので、平判官康頼が出てきて、「ああ、あまりに平氏(瓶子)が多くて、うっかり酔ってしまいました」と申し上げた。そして俊寛僧都が、「さて、それをどのようにいたしましょう」と申したところ、西光法師が「首を取るにこしたことはない」と言って、瓶子の首を折り取って席に引っ込んだ。
 
 静憲法印はあまりのあきれたさまに少しも口が聞けなかった。まったく恐ろしいことであった。ところで、この計画に加わった人は誰々かというと、近江の中将入道蓮浄俗名成正、法勝寺執行俊寛僧都、山城守基兼、式部の大輔雅綱、平判官康頼、宗判官信房、新平判官資行、摂津国の源氏多田の蔵人行綱を初めとして、北面の武士たちが多く加担した。

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足 摺~巻第三

(一)
 御使ひは、丹左衛門尉基康(たんざゑもんのじようもとやす)といふ者なり。船より上がり、「これに都より流され給ひし丹波少将(たんばのせうしやう)殿、法勝寺執行御房(ほつしようじしゆぎやうごぼう)、平判官(へいはうぐわん)入道殿やおはする」と声々にぞ尋ねける。二人(ににん)の人々は、例の熊野詣でしてなかりけり。俊寛僧都(しゆんくわんそうづ)一人(いちにん)残つたりけるが、これを聞き、「あまりに思へば夢やらん。また天魔(てんま)波旬(はじゆん)のわが心をたぶらかさんとて言ふやらん。現(うつつ)とも覚えぬものかな」とて、あわてふためき、走るともなく、倒るるともなく、急ぎ御使ひの前に走り向かひ、「何事ぞ。これこそ京より流されたる俊寛よ」と、名のり給へば、雑色(ざふしき)が首に掛けさせたる文袋(ぶぶくろ)より、入道相国の赦文(ゆるしぶみ)取り出(い)だいて奉る。開いて見れば、「重科(ぢゆうくわ)は遠流(をんる)に免ず。早く帰洛(きらく)の思ひをなすべし。中宮 御産(ごさん)の御(おん)祈りによつて、非常の赦(しや)行はる。しかる間、鬼界(きかい)が島の流人(るにん)少将成経(なりつね)・康頼法師(やすよりぼふし)赦免」とばかり書かれて、俊寛といふ文字はなし。礼紙(らいし)にぞあるらんとて、礼紙を見るにも見えず。奥より端へ読み、端より奥へ読みけれども、二人とばかり書かれて、三人とは書かれず。

 さる程に、少将や判官入道も出で来たり。少将の取つて読むにも、康頼入道が読みけるにも、二人とばかり書かれて、三人とは書かれざりけり。夢にこそかかる事はあれ、夢かと思ひなさんとすれば現(うつつ)なり。現かと思へばまた夢のごとし。その上、二人の人々のもとへは、都より言(こと)づけ文(ふみ)ども幾らもありけれども、俊寛僧都のもとへは、言(こと)問ふ文一つもなし。「そもそも我ら三人は罪も同じ罪、配所も一つ所なり。いかなれば赦免の時、二人は召し返されて、一人ここに残るべき。平家の思ひ忘れかや、執筆(しゆひつ)の誤りか。こはいかにしつる事どもぞや」と、天に仰ぎ、地に伏して、泣き悲しめどもかひぞなき。

【現代語訳】
 赦免状を持った使者は、丹左衛門尉基康という者だった。基康らは船から島に上がり、「ここに、都から流されなさった丹波少尉殿と法勝寺執行御房、平判官入道殿はいらっしゃるか」と、皆がそれぞれ声を上げて尋ねた。成経と康頼の二人は、いつものように熊野詣でに出かけていていなかった。俊寛僧都一人だけが残っていたが、これを聞き、「あまりに帰京を願っていたので夢を見ているのだろうか。それとも天魔波旬が私の心をたぶらかそうとして言っているのだろうか。現実とは思われない」と言って、あわてふためき、走るともなく、倒れるともなく、急いで使者の前に走り出て、「何事でしょうか。私こそが京から流された俊寛です」と名乗ると、基康は雑色の首に掛けさせていた文袋から、入道相国による赦免状を取り出して差し上げた。俊寛がそれを開いて見ると、「重い罪は遠流の刑に服したことで赦す。早く帰京の心づもりをしなさい。中宮のお産の祈願のために、特別の赦免を行う。そういうわけで、鬼界が島の流人、少将成経、康頼法師は赦免する」とだけ書かれていて、俊寛という文字はなかった。俊寛は、礼紙にきっとあるのだと思って礼紙を見たが、やはりない。そんなはずはないと、赦免状の終わりから初めへ、初めから終わりへと読み直したが、二人とだけ書かれていて、三人とは書かれていなかった。


 そうしているうちに、少将や判官入道もやって来た。少将がそれを手に取って読んでも、康頼入道が読んでも、二人としか書かれておらず、三人とは書かれていない。夢ならこのようなこともあろうが、しいて夢かと思おうとしても現実である。現実と思っても、夢のようである。その上、二人のもとには都からの言付け文などが何通もあったけれども、俊寛僧都のもとには一つもなかった。「そもそも私たち三人は罪も同じ罪であり、流された場所も同じ場所である。どういうわけで、赦免において二人は呼び返され、私一人がここに残らなければならないのか。平家が忘れてしまったのか、書記役が書き誤ったのだろうか。これはいったいどうしたことだろう」と、俊寛は天を仰ぎ、地に伏して泣き悲しんだが、どうにもならない。
 
(注)丹波少尉殿・・・鹿の谷の陰謀の首謀者。丹波守兼右近衛少将・藤原成経。
(注)法勝寺執行御房・・・俊寛僧都。
(注)平判官入道・・・平判官康頼。鬼界が島へ流される途中に出家した。
(注)雑色・・・雑役を担う無位無官の者。
(注)礼紙・・・書状に巻いてある白紙。

(二)
 少将のたもとにすがつて、「俊寛がかくなるといふも、御辺(ごへん)の父、故大納言の由(よし)なき謀叛(むほん)ゆゑなり。さればされば、よその事とおぼすべからず。赦(ゆる)されなければ、都までこそ叶はずといふとも、せめてはこの船に乗せて、九国(くこく)の地へ着けたまへ。おのおののこれにおはしつる程こそ、春は燕(つばくらめ)、秋は田の面(も)の雁(かり)のおとづるるやうに、おのづから故郷のことをも伝へ聞きつれ。今より後は、何としてかは聞くべき」とて、もだえこがれ給ひけり。少将、「まことにさこそはおぼし召され候(さうら)ふらめ。われらが召し返さるる嬉しさは、さることなれども、御有様を見奉るに、行くべき空も覚えず。うち乗せ奉つても上りたう候ふが、都の御使ひも叶ふまじき由(よし)申す上、赦されもないに、三人ながら島を出でたりなど聞こえば、なかなか悪(あ)しう候ひなん。成経まづ罷(まか)り上つて、人々にも申し合はせ、入道相国の気色(きしよく)をも伺うて、迎へに人を奉らん。その間は、この日ごろおはしつるやうに思ひなして待ち給へ。何としても命は大切のことなれば、このたびこそ漏れさせ給ふとも、つひにはなどか赦免なうて候ふべき」と慰め給へども、人目も知らず泣きもだえけり。

【現代語訳】
 俊寛は少将のたもとにすがって、「俊寛がこうなったのも、もとはといえば、あなたの父、故大納言殿のつまらない謀叛のためです。だからだから、私のことを他人事とお思いになってはならない。赦免されないので都まで帰れないとしても、せめてこの船に乗せて九州の地へ着けてください。あなたがたがここにおられた間は、春にはつばめ、秋には田の面に雁が訪れるように、自然に故郷のことも伝え聞くことができました。しかし、今より後、どうやって聞くことができましょうか」と言って、身もだえして懇願した。少将は、「まことにそうお思いになるでしょう。私たちが呼び戻されるうれしさはもちろんですが、あなたのありさまをお見捨てして行くのは、帰る気持ちにもなれません。この船にお乗せしてでも上りたく思いますが、都の御使者もそれはかなえられない上、赦免もないのに三人いっしょに島を出たなどと伝わると、かえってよくないでしょう。この成経が先に帰り、人々にもよく相談して、入道相国のご機嫌もうかがって、迎えに人を差し向けましょう。その間は、しいてこれまでのような思いのままお待ちください。今回漏れても、最後に赦免がないなんてことがありましょうか」と慰めたが、俊寛は人目もかまわず泣きもだえるのだった。 

(三)
 すでに船出だすべしとてひしめき合へば、僧都乗つては降りつ、降りては乗つつ、あらまし事をぞし給ひける。少将の形見には夜の衾(ふすま)、康頼入道が形見には一部の法華経をぞとどめける。ともづな解いて押し出せば、僧都綱に取り着き、腰になり、脇になり、丈(たけ)の立つまでは引かれて出、丈も及ばずなりければ、船に取り着き、「さていかにおのおの、俊寛をばつひに捨て果て給ふか。これほどとこそ思はざりつれ。日ごろの情けも今は何ならず。ただ理を曲げて乗せ給へ。せめては九国の地まで」とくどかれけれども、都の御使ひ、「いかにも叶ひ候ふまじ」とて、取り着き給へる手を引きのけて、船をばつひに漕ぎ出だす。

 僧都せんかたなさに、渚(なぎさ)に上がり倒れ伏し、幼き者の乳母(めのと)や母などを慕ふやうに、足摺(あしずり)をして、「これ乗せて行け、具して行け」とをめき叫べども、漕ぎ行く船の習ひにて、跡は白波ばかりなり。いまだ遠からぬ船なれども、涙に暮れて見えざりければ、僧都、高き所に走り上がり、沖のかたをぞ招きける。かの松浦小夜姫(まつらさよひめ)が唐船(もろこしぶね)を慕ひつつ領布(ひれ)振りけんも、これには過ぎじとぞ見えし。さる程に、船も漕ぎ隠れ、日も暮るれども、あやしの臥処(ふしど)へも帰らず、波に足うち洗はせて、露にしをれて、その夜はそこにぞ明かされける。さりとも、少将は情け深き人なれば、よきやうに申す事もあらんずらんと頼みをかけ、その瀬に身を投げざりける心の程こそはかなけれ。昔、早離(さうり)・速離(そくり)が、海岳山(かいがくせん)へ放たれけん悲しみも、今こそ思ひ知られけれ。

【現代語訳】
 いよいよ船を出そうとして、人々が集まり騒いでいると、僧都は船に乗っては降り、降りては乗りして、いかにも連れて行ってほしいというふるまいだった。少将の形見には夜具を、康頼入道の形見には一そろえの法華経を残した。ともづなを解いて船を押し出すと、僧都は綱にしがみついて、海の水が腰までつかり、やがて脇までつかり、背が立つところまで引かれていったが、背が立たなくなると、今度は船にしがみつき、「それでもあなた方、俊寛をとうとう捨ててしまわれるのか。これほど薄情とは思わなかった。これまでの友情も今は何にもならない。ただ道理を曲げてでも乗せてください。せめて九州の地まででも」と繰り返し訴えたが、都の使者は、「どうあってもかないますまい」と言って、しがみついている俊寛の手を引き離し、ついに船を漕ぎ出してしまった。


 僧都はどうしようもなく、波打ち際に倒れ伏し、幼子が乳母や母を慕って泣くように足をばたばたさせて、「おい乗せて行ってくれ、連れて行ってくれ」と、わめき叫んだが、漕ぎ行く船の常で、あとには白波が残っているだけである。まだ遠くには行っていない船だったが、涙にくれて見えなかったので、僧都は高い場所に上がり、沖のほうに向かって手招きした。あの松浦小夜姫が、夫の乗る唐船を慕って領布を振ったという悲しみも、この俊寛の悲しみには及ばないように思えた。やがて船も見えなくなり、日も暮れてしまったが、俊寛は粗末な寝所へも帰らず、波に足を洗わせ、夜露に濡れたまま、その夜はそこで明かしてしまった。それでも、少将は情け深い人だから、よいようにとりなしてくれることもあろうと当てにして、その時に海に身投げしなかった心の内は頼りない感じであった。昔、早離・速離の兄弟が海岳山に捨てられたという悲しみも、俊寛は今まさに思い知ったのだった。
 
(注)松浦小夜姫・・・『万葉集』にある伝説。大伴狭手彦が任那に遣わされたとき、妻の小夜姫が松浦山に登って領布を振って別れを惜しんだ。
(注)早離・速離・・・仏教説話にある話。

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御産

 法皇仰せなりけるは、「いかなる御物気(もののけ)なりとも、この老法師(おいぼふし)がかくて候はらんには、いかでか近づき奉るべき。就中(なかんづく)に今あらはるる処(ところ)の怨霊(をんりやう)共は、皆わが朝恩(てうおん)によつて、人となりたる者ぞかし。たとひ報謝(ほうしや)の心をこそ存ぜずとも、豈障碍(あにしやうげ)をなすべきや。速やかに罷(まか)り退き候へ」とて、「女人(によにん)生産(しやうさん)し難からん時に臨んで、邪魔遮障(じやましやしやう)し、苦(く)忍び難からんにも、心を致して大非呪(だいひしゆ)を称誦(しようじゆ)せば、鬼人(きじん)退散して、安楽に生ぜん」と、遊ばいて、皆水晶(みなずいしやう)の御数珠(おんじゆづ)、おし揉ませ給へば、御産平安(ごさんへいあん)のみならず、皇子にてこそましましけれ。

 頭中将重衡(とうのちゆうじやうしげひら)、その時はいまだ中宮の亮(すけ)にておはしけるが、御簾(ぎよれん)の内よりつつと出でて、「御産平安、皇子(みこ)御誕生候ぞや」と、高らかに申されければ、法皇を始め参らせて、関白殿以下の大臣、公卿殿上人、おのおのの助修(じよしゆ)、数輩(すはい)の御験者(おんげんじや)、陰陽頭(おんやうのかみ)、典薬頭(てんやくのかみ)、すべて堂上堂下(たうしやうたうか)一同にあつと悦(よろこ)び合へる声、門外までどよみて、しばしは静まりやらざりけり。入道相国あまりの嬉しさに、声をあげてぞ泣かれける。悦泣(よろこびなき)とはこれをいふべきにや。

【現代語訳】
 法皇が仰せになることは、「どんな御物の怪であっても、この老法師がこのようにお側にございますからには、どうして中宮に近づき申すことができようか。中でも今現れている所の怨霊どもは、みなわが皇室の恩によって、一人前になった者どもだ。たとえ恩に報いる気持を持たないとしても、どうして妨げをなしてよいことがあろうか。すみやかに退きなさい」といって、「女人が出産しがたい時に臨んで、悪鬼が邪魔して、苦しみが耐え難いとしても、誠を尽くして大悲呪の陀羅尼を唱えれば、鬼神は退散して、安楽に生まれるだろう」と、千手経をお読みになって、みな水晶づくりの御数珠をおしもまれると、御安産であったのみならず、お生まれになったのは皇子(後の安徳天皇)でいらっしゃった。

 頭中将重衡(清盛の五男)、その時はいまだ中宮の亮(次官)でいらしたが、御簾の内からつっと出て、「御安産、皇子ご誕生でございますぞ」と、高らかに申されたので、法皇を始め、関白殿以下の大臣、公卿、殿上人、それぞれの助手の僧、大勢の御験者、陰陽寮の長官、典薬寮の長官、その他すべての人々が一同に声をそろえて、ああと喜びあう。その声が門の外まで響きわたって、しばらく鎮まらなかった。入道相国はあまりのうれしさに、声をあげて泣かれた。喜び泣きとはこのことを言うのであろうか。

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医師問答

(一)
 小松の大臣(おとど)は、かやうの事どもに、よろづ心細くや思はれけん、そのころ熊野参詣の事ありけり。本宮証誠殿(ほんぐうしようじやでん)の御前にて、夜もすがら敬白(けいびやく)せられけるは、

「親父(しんぶ)入道相国の体(てい)を見るに、悪逆無道(あくぎやくぶだう)にして、ややもすれば君を悩まし奉る。そのふるまひを見るに、一期(いちご)の栄花なほ危し。重盛長子として、しきりに諫(いさ)めを致すといへども、身(み)不肖(ふせう)の間、彼(かれ)以て服膺(ふくよう)せず。枝葉(しえふ)連続して、親(しん)を顕(あらは)し、名を揚げん事難し。この時に当つて、重盛いやしくも思へり。なまじひに列して、世に浮沈せん事、敢へて良臣孝子(りやうしんかうし)の法にあらず。しかじ、名を逃れ身を退いて、今生(こんじょう)の名望(めいばう)を投げ棄てて、来世の菩提(ぼだい)を求めんに。但し凡夫薄地(ぼんぷはくぢ)、是非に惑へるが故に、猶心ざしを恣(ほしいまま)にせず。南無権現金剛童子(なむごんげんこんがうどうじ)、願はくは子孫繁栄絶えずして、仕へて朝廷に交はるべくは、入道の悪心を和らげて、天下の安全を得しめ給へ。栄耀また一期(いちご)を限つて、後昆(こうこん)恥に及ぶべくは、重盛が運命を縮(つづ)めて、来世の苦輪(くりん)を助け給へ。両箇(りやうか)の求願(ぐぐわん)、ひとへに冥助(みやうじよ)を仰ぐ」

と、肝胆(かんたん)をくだひて祈念せられけるに、灯篭の火のやうなる物の、大臣(おとど)の御身より出でて、はつと消ゆるが如くして失せにけり。人あまた見奉りけれども、恐れてこれを申さず。(中略)

【現代語訳】
 小松の大臣(平重盛)は、このようなことをお聞きになり、万事に心細く思われたのだろうか、そのころ熊野参詣に行かれた。本宮証誠殿の御前で、一晩中、敬い申し上げたことは、

「わが父、入道相国のようすを見るに、悪逆無道で、ともすれば君を悩まし申し上げております。重盛は長子として、しきりに諌めておりますが、我が身が不肖であるため、父は承服しません。そのふるまいを見るに、一代の栄華すら危ないことです。子孫が続いて、親を顕彰し、名を揚げることは困難です。この時に当たって、重盛はいやしくも思います。なまじ大臣の位に列して、俗世の間に浮き沈みすることは、決してよき家臣、よき子の道ではない。名声を逃れ、身を退いて、現世の名望を投げ捨て、来世の菩提を求めるには及ばない、と。しかし、無知な凡夫のこと、是非の判断に迷うがゆえに、なお出家の志をできないでいます。南無権現金剛童子、願わくは子孫の繁栄がつづき、朝廷のお仕えに入れていただけるのなら、入道の悪心を和らげて、天下の安全が得られるようになさってください。栄華が一代限りのことで子孫に恥が及ぶようなら、重盛の命を縮めて、末世における苦しみをお助けください。これら二つの願いについて、ひとえに御神のお助けを仰ぎます」

と、心胆を砕いて祈念なさったところ、灯籠の火のようなものが、大臣の御身から出て、ぱっと消えるようにして失せてしまった。大勢の人が見ていたけれども、恐れてこれについて話さない。

(二)
 同(おなじき)七月廿八日、小松殿出家し給ひぬ。法名(ほふみやう)は浄蓮(じやうれん)とこそつき給へ。やがて八月一日(ひとひのひ)、臨終正念(りんじゆううしやうねん)に住(ぢゆう)して、遂に失せ給ひぬ。御年(おんとし)四十三。世は盛りと見えつるに、哀れなりし事共なり。入道相国の、さしも横紙を破られつるも、此人のなほしなだめられつればこそ、世もおだしかりつれ、この後天下(てんか)にいかなる事か出でこんずらむとて、京中の上下歎(なげ)き合へり。

【現代語訳】
 同年七月二十八日、小松殿は出家なさった。法名は浄蓮とつけられた。やがて八月一日、臨終正念のうちに、ついにお亡くなりになった。御年四十三。盛りの年頃と見えたのに、痛ましいことである。入道相国があれほど横紙破りであったのも、この人が直し宥められたからこそ、世も平穏であったのに、今後、天下にどのようなことが出てくるだろうと、京中の上下は嘆きあった。

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都 遷~巻第五

 治承四年六月三日の日、福原へ行幸(ぎやうこう)あるべしとて、京中ひしめきあへり。「この日ごろ、都遷(みやこうつ)りあるべしと聞こえしかども、たちまちに今明(きんみやう)の程とは思はざりつるに、こはいかに」とて、上下(じやうげ)騒ぎあへり。あまつさへ三日と定められたりしが、いま一日引き上げて二日になりにけり。

 二日の卯刻(うのこく)に、すでに行幸の御輿(みこし)を寄せたりければ、主上(しゆしやう)は今年三歳、いまだ幼(いとけな)うましましければ、何心もなう召されけり。主上幼う渡らせ給ふ時の御同與(ごどうよ)には、母后(ぼこう)こそ参らせ給ふに、これはその儀なし。御乳母(おんめのと)、平大納言時忠卿(へいだいなごんときただきやう)の北の方、帥(そつ)の典侍殿(すけどの)ぞ、一つ御輿(おんこし)には参られける。中宮(ちゆうぐう)、一院(いちゐん)、上皇、御幸(ごかう)なる。摂政殿を始め奉つて、太上大臣以下の公卿殿上人(くぎやうてんじやうびと)、我も我もと供奉(ぐぶ)せらる。三日、福原へいらせ給ふ。

【現代語訳】
 治承四年六月三日、福原へ行幸があるだろうということで、京中が騒動となった。「近々、遷都があるだろうと噂されていたが、たちまちに、今日、明日のこととは思わなかったのに、これはどうしたことか」といって、身分の上下なく騒ぎあった。その上、三日と決められていたのだが、もう一日繰り上げて二日になった。

二日の卯の刻(午前六時)までに、行幸の御輿を寄せたので、安徳天皇は今年三歳、いまだ幼くいらっしゃるので、何も考えずにお乗りになった。天皇が幼くいらっしゃる時に同じ御輿にお乗りになるのは、母后が参られるものだが、今回はそうではない。御乳母の、平大納言時忠卿の北の方、帥の典侍殿が、同じ御輿にお乗りになった。中宮(建礼門院)、一院(後白河法皇)、上皇(高倉上皇)も御幸なさる。摂政殿(藤原基通)をはじめ、太政大臣以下の公卿、殿上人は、我も我もとお供なさる。三日、福原にお入りになる。

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月 見

(一)
 六月九日の日、新都の事始め、八月十日上棟(じやうとう)、十一月十三日遷幸(せんかう)と定めらる。古き都は荒れゆけば、今の都は繁昌(はんじやう)す。あさましかりける夏も過ぎ、秋にもすでになりにけり。やうやう秋も半ばになりゆけば、福原の新都にまします人々、名所の月を見んとて、あるいは源氏の大将の昔の跡をしのびつつ、須磨(すま)より明石の浦伝ひ、淡路の瀬戸を押し渡り、絵島が磯の月を見る。あるいは白良(しらら)・吹上(ふきあげ)・和歌の浦・住吉・難波(なには)・高砂(たかさご)・尾上(をのへ)の月の曙(あけぼの)をながめて帰る人もあり。旧都に残る人々は、伏見・広沢の月を見る。

 その中にも徳大寺左大将実定卿(とくだいじのさだいしやうじつていのきやう)は、古き都の月を恋ひて、八月十日余りに、福原よりぞ上り給ふ。何事も皆変はり果てて、まれに残る家は、門前草深くして、庭上(ていしやう)露しげし。蓬(よもぎ)が杣(そま)、浅茅(あさぢ)が原、鳥の臥所(ふしど)と荒れ果てて、虫の声々恨みつつ、黄菊(くわうきく)・紫蘭(しらん)の野辺(のべ)とぞなりにける。

 故郷の名残とては、近衛河原(このゑかはら)の大宮ばかりぞましましける。大将その御所に参つて、まづ随身(ずいじん)に惣門(そうもん)を叩かせらるるに、内より女の声して、「誰(た)そや、蓬生(よもぎふ)の露うち払ふ人もなき所に」と咎(とが)むれば、「福原より大将殿の御参り候ふ」と申す。「惣門は錠(ぢやう)のさされて候ふぞ。東面(ひんがしおもて)の小門(こもん)より入(い)らせ給へ」と申しければ、大将、「さらば」とて東の門より参られけり。

 大宮は御つれづれに、昔をや思し召し出でさせ給ひけん、南面(みなみおもて)の御格子(みかうし)上げさせて、御琵琶(おんびは)遊ばされけるところに、大将参られたりければ、「いかに夢かや現(うつつ)か、これへこれへ」とぞ仰せける。源氏の宇治の巻には、優婆塞宮(うばそくのみや)の御娘、秋の名残を惜しみ、琵琶を調べて、夜もすがら心を澄まし給ひしに、有明の月の出でけるを、なほ堪へずやおぼしけん、撥(ばち)にて招きた給けんも、今こそ思ひ知られけれ。

【現代語訳】
 六月九日には新都の起工式、八月十日には内裏の上棟式、十一月十三日には福原の仮御所から新しい内裏へ帝がお遷りになると決められた。古い都は荒れ果てていき、新都は繁栄していく。あきれるような事件が多かった夏も過ぎ、もう秋になってしまった。いよいよ秋も半ばになり、福原の新都の人々は、名所の月を見ようとして、ある人は『源氏物語』の光源氏の大将がわび住まいをされた旧跡をを慕い、須磨から明石の海岸を船で渡り、絵島が磯の月を見る。またある人は、紀伊の国の白良・吹上・・和歌の浦、摂津の国の住吉・難波、播磨の国の高砂・尾上あたりの明け方の月を眺めて帰ってくる。旧都に残った人々は、伏見や広沢の月を見るのだった。

 そんな人々の中でも、徳大寺左大将実定卿は、古い都の月を恋しく思い、八月十日過ぎに、福原から上京なさった。京は何もかも変わり果てて、まれに残っている家は門前に草が深く茂り、露がしとどに降りている。蓬の杣山か浅茅が原か、鳥のねぐらかと思うほどに荒れ果て、虫の声があちこちに悲しげで、黄菊や紫蘭の野原と化していた。


 昔の故郷の名残として訪ねるべきは、近衛河原の大宮だけだった。大将はその御所に参上して、まず随身に正門をたたかせなさった。すると、中から女の声で、「どなたですか。蓬の露をうち払う人もいないこんな家に訪ねてこられるのは」と聞きとがめたので、「福原から大将殿が参上なさったのです」と随身が申し上げた。女の声が「正門は鍵がかかっております。どうぞ東側の小門からお入りください」と言ったので、大将は、「それならば」とおっしゃって、東の門からお入りになった。

 大宮は、退屈さに昔を思い出しておられたのか、南面の格子を上げさせて琵琶を弾いていらっしゃったが、大将が参上なさったので、「これはまあ夢でしょうか現実でしょうか、こちらへこちらへ」とおっしゃった。『源氏物語』の宇治の巻には、優婆塞宮の御娘が秋の名残を惜しんで琵琶を弾き、夜通し心を澄ましていらっしゃると、有明の月に感動を抑えがたく、琵琶の撥で月をお招きになったとあり、大将は、この大宮のふるまいを見て、その情景が今こそしみじみと感じられたのである。
 
(注)近衛河原の大宮・・・藤原多子。実定の妹。近衛・二条両天皇の皇后となった。

(二)
 待宵(まつよひ)の小侍従(こじじゆう)といふ女房も、この御所にぞ候ひける。この女房を待宵と申しけることは、ある時御所にて、「待つ宵、帰る朝(あした)、いづれかあはれは優(まさ)れる」と御尋ねありければ、

  待つ宵の更けゆく鐘の声聞けば帰る朝(あした)の鳥はものかは

と詠みたりけるによつてこそ、待宵とは召されけれ。大将、かの女房呼び出だし、昔今(むかしいま)の物語して、小夜(さよ)もやうやう更け行けば、古き都の荒れ行くを今様(いまやう)にこそ歌はれけれ。

  古き都を来てみれば 浅茅が原とぞ荒れにける
  月の光はくまなくて 秋風のみぞ身にはしむ


と三べん歌ひ澄まされければ、大宮を始め参らせて、御所(ごしよ)中の女房たち、皆袖をぞ濡らされける。

 さる程に夜も明けければ、大将いとま申して、福原へこそ帰られけれ。御供に候ふ蔵人(くらうど)を召して、「侍従があまり名残惜しげに思ひたるに、汝(なんぢ)帰つて、何とも言ひて来よ」と仰せければ、蔵人走り帰つて、「かしこまり申せと候ふ」とて、

  物かはと君が言ひけん鳥の音(ね)の今朝しもなどか悲しかるらん

 女房涙をおさへて、

  待たばこそ更けゆく鐘もものならめ飽かぬ別れの鳥の音ぞ憂き

 蔵人帰り参つて、この由を申したりけりば、「さればこそ汝を遣はしつれ」とて、大将大きに感ぜられけり。それよりしてこそ、物かはの蔵人とは言はれけれ。

【現代語訳】
 待宵の小侍従という女房も、この御所にお仕えしていた。この女房を「待宵」というわけは、ある時御所で、「愛する人を待ち焦がれる宵と、愛する人が帰るのを見送る朝と、どちらがしみじみとするか」とお尋ねがあったとき、

 
恋しい人を待ち続ける宵が更けていき、時が過ぎ行く鐘の音を聞くのはやるせないものの、それに比べると、恋しい人が帰らなければならない朝を告げる鳥の声などものの数ではありません。

とみごとに詠んだために、「待宵」と名づけられたのだった。大将はその女房を呼び出して、共に昔や今の話をしていたが、夜もしだいに更けていき、古い都が荒れていくようすを今様にしてお歌いになった。

 
古い都に来てみると、今はもう浅茅が原となって荒れてしまった、月の光は明るく冴え渡り、秋風だけが身に染み渡る。

と三回繰り返してみごとにお歌いになったので、大宮をはじめ御所の女房たちは、皆涙で袖をお濡らしになった。


 そうしているうちに夜が明け、大将はおいとまを申して福原へお帰りになった。その後、お供に伺候していた蔵人をお呼びになり、「分かれる時、小侍従があまりに名残惜しそうにしていたから、お前は京に引き返して、何なりと一言言って来い」とおっしゃった。蔵人は走って引き返し、「ご挨拶を申し上げて来い、とのお言葉がありました」と言って、

 
ものの数ではないとおっしゃった鳥の声が、今朝にかぎってどうしてこんなに悲しいのか。

と詠んで歌を贈った。女房は涙を抑えて、

 
訪れるはずの恋しい人を待つときの、更けゆく夜の鐘の音はやるせなく辛いものです。でも、大将殿が思いがけなくおいでになられ、名残尽きない別れをせきたてるかのような鳥の声こそが、ほんとうに辛いのです。

と返した。蔵人は福原に帰って、この次第を申し上げると、大将は、「そういう機転が利くからお前を遣わしたのだ」と言って、大いに感心された。それ以来、この蔵人を「ものかはの蔵人」と呼ぶようになった。

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都帰り

 今度(こんど)の都遷(みやこうつ)りをば、君も臣も御歎(おんなげ)きあり。山、奈良を始めて、諸寺諸社に至るまで、しかるべからざるよし一同に訴へ申す間、さしも横紙(よこがみ)を破らるる太政入道(だいじやうのにふだう)も、「さらば都帰りあるべし」とて、京中ひしめきあへり。
 
 同十二月二日、にはかに都帰りありけり。新都は、北は山に沿ひて高く、南は海近くして下れり。浪の音常はかまびすしく、潮風激しき所なり。されば新院、いつとなく御悩(ごなう)のみしげかりければ、いそぎ福原を出でさせ給ふ。摂政殿を始め奉つて、太政大臣以下の公卿、殿上人、我も我もと供奉(ぐぶ)せらる。入道相国(にふだうしやうこく)を始めとして、平家一門の公卿、殿上人、我先にとぞ上られける。誰(たれ)か心うかりつる新都に片時も残るべき。

【現代語訳】
 今度の遷都を、君も臣も嘆いておられた。延暦寺や興福寺をはじめとして、末端の寺社に至るまで、遷都などすべきでなかったと共同で訴え申したので、あれほど強引な太上入道(平清盛)も、「それなら京都に戻ろう」と言い出して、京中は大騒ぎになった。

 同年十ニ月二日、にわかに遷都が行われた。新都は、北は山に沿って高く、南は海に近く下っていて、波の音が常にうるさく、潮風が激しい所である。そのため、新院(高倉上皇)は、いつからとなくご病気がちであられたので、急いで福原をお出でになった。摂政殿(藤原基通)をはじめ、太政大臣以下の公卿、殿上人は、我も我もとお供なさった。入道相国をはじめとした平家一門の公卿、殿上人も、我先に上られた。誰がうんざりするような新都に、片時も残りたいものか。

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入道死去~巻第六

(一)
 そののち四国のつはものども、皆、河野四郎に従ひつく。熊野別当歎増(くまのべつたうたんぞう)も、平家重恩の身なりしが、それも背いて、源氏に同心の由(よし)聞こえけり。およそ東国・北国(ほつこく)ことごとく背きぬ。南海・西海かくのごとし。夷狄(いてき)の蜂起(ほうき)耳を驚かし、逆乱(げきらん)の先表(せんべう)しきりに奏(そう)す。四夷(しい)たちまちに起これり。世はただ今失せなんずとて、必ず平家の一門ならねども、心ある人々の嘆き悲しまぬはなかりけり。

 同じき二十三日、公卿(くぎやう)僉議(せんぎ)あり。前(さきの)右大将宗盛卿申されけるは、「坂東(ばんどう)へ討手(うつて)は向かうたりといへども、させるし出だしたる事も候はず。今度、宗盛、大将軍を承つて向かふべき由、申されければ、諸卿色代して、「ゆゆしう候ひなん」と申されけり。公卿・殿上人も、武官に備はり、弓箭(きゆうせん)に携はらん人々は、宗盛卿を大将軍にて、東国・北国の凶徒(きようと)ら追討すべき由、仰せ下さる。

 同じき二十七日、前右大将宗盛卿、源氏追討のために、東国へすでに門出(かどいで)と聞こえしが、入道相国、違例の御心地とてとどまり給ひぬ。明くる二十八日より、重病を受け給へりとて、京中・六波羅、「すは、しつる事を」とぞささやきける。入道相国、病つき給ひし日よりして、水をだに喉へも入れ給はず。身の内の熱きこと火をたくが如し。臥し給へる所、四五間(けん)が内へ入る者は、熱さ堪へ難し。ただ宣ふ事とては、「あたあた」とばかりなり。少しもただ事とは見えざりけり。比叡山より千手井(せんじゆゐ)の水を汲み下し、石の船にたたへて、それに降りて冷え給へば、水おびただしく沸き上がつて、程なく湯にぞなりにける。もしや助かり給ふと、筧(かけひ)の水をまかせたれば、石や鉄(くろがね)などの焼けたるやうに、水ほとばしつて寄りつかず。おのづから当たる水は、焔(ほむら)となつて燃えければ、黒煙(くろけぶり)殿中に満ち満ちて、炎(ほのほ)渦巻いて上がりけり。これや、昔、法蔵僧都(はふざうそうづ)と言つし人、閻王(えんわう)の請(しやう)に赴いて、母の生所(しやうじよ)を尋ねしに、閻王あはれみ給ひて、獄卒(ごくそつ)を相添へて焦熱地獄へ遣はさる。鉄の門の内へさし入れば、流星(りうしやう)などの如くに、炎空へ立ち上がり、多百(たひやく)由旬(ゆじゆん)に及びけんも、今こそ思ひ知られけれ。

【現代語訳】
 その後、四国の武士たちは皆、河野四郎に従いついた。熊野別当歎増も、平家に深い恩義のある身であったが、これも平家に背いて源氏に味方することが伝えられた。およそ東国・北国のほとんどが平家に背き、南国・西国もこのような状況である。地方の賊徒の蜂起の知らせに驚き、動乱の前兆となるような争乱が次々に朝廷に報告された。四方の賊徒たちが突如として起こったのだ。世の中がたちまち滅びるだろうと、必ずしも平家一門だけでなく、心ある人々で嘆き悲しまない者はなかった。

 同じ月(治承五年二月)二十三日、公卿の評議が行われた。前右大将宗盛卿が法皇に、「関東へ頼朝追討の軍が向かいましたが、さしたる成果はあげていません。今度は宗盛が大将軍として向かうつもりです」との旨を申し上げたので、公卿たちはお追従で、「きっとすばらしい成果をおあげでしょう」と言った。法皇からは、「公卿・殿上人も武官の職にあり弓矢のことに携わっている者たちは、宗盛卿を大将軍として、東国・北国の謀反人どもを追討すべし」とのお言葉が下った。

 同じ月の二十七日、前右大将宗盛卿が、源氏追討のため、東国へいよいよ出発するということだったが、入道相国がご病気の様子だということで、出発は中止なさった。翌二十八日から病が重くなり、京じゅうでも六波羅でも、「それ見たことか」とささやいていた。入道相国は発病の日以降、水さえのどを通されない。体の熱は火を焚くようであった。横になっていらっしゃる部屋の四、五間以内に近づく者は、熱さに堪えられない。入道相国がおっしゃるのは、ただ「熱い、熱い」とばかりである。全く尋常なこととは見えなかった。比叡山から千手井の水を汲み下ろし、石造りの水槽に満たして、それに入って冷やされると、水がひどく湧き上がり、まもなく湯になってしまった。もしやお助かりになるかと、筧の水を身体に注ぎかけたところ、石や鉄などが焼けたように水が飛び散って身体に寄りつかない。たまたま身体に当たった水は炎となって燃え、黒煙が御殿じゅうに満ちて炎が渦巻いて上がった。これは、昔、法蔵僧都という人が閻魔王に招かれて行き、泣き母が生まれ変わった所を尋ねたところ、閻魔王が憐れんで獄卒をつけて焦熱地獄へお遣わしになった。その鉄の門の中へ入ると、流星のように炎が空へ立ち上がり、その高さが数千里に及んだという話があるが、この入道相国のありさまには及ばないだろうと、つくづく思われた。
 
(注)千手井・・・比叡山にある井戸。
(注)法蔵僧都・・・第四十六代の東大寺別当。

(二)
 入道相国の北の方二位殿の、夢に見給ひける事こそ恐ろしけれ。猛火のおびたたしく燃えたる車を、門(かど)の内へやり入れたり。前後に立ちたる者は、あるいは馬の面(おもて)のやうなる者もあり。あるいは牛の面のやうなる者もあり。車の前には、「無」といふ文字ばかり見えたる鉄の札をぞ立てたりける。二位殿夢の心に、「あれはいづくよりぞ」と御尋ねあれば、「閻魔(えんま)の庁とり、平家太政(だいじやう)入道殿の御迎ひに参つて候ふ」と申す。「さてその札は何といふ札ぞ」と問はせ給へば、「南閻浮提金銅(なんえんぶだいこんどう)十六丈の盧遮那物(るしやなぶつ)、焼き滅ぼし給へる罪によつて、無間(むけん)の底に堕(だ)し給ふべき由、閻魔の庁に御定め候ふが、無間の無を書かれて、間の字をば未だ書かれぬなり」とぞ申しける。

 二位殿うちおどろき、汗水になり、これを人々に語り給へば、聞く人皆身の毛よだちけり。霊仏・霊社に金銀(こんごん)七宝(しつぽう)を投げ、馬・鞍・鎧(よろひ)・甲(かぶと)・弓・矢・太刀・刀に至るまで、取り出で運び出し祈られけれども、そのしるしもなかりけり。男女の君達(きんだち)、跡枕(あとまくら)にさし集(つど)ひて、いかにせんと嘆き悲しみ給へども、かなふべしとも見えざりけり。

 同じき閏(うるふ)二月二日、二位殿、熱う堪へ難けれども、御枕(おんまくら)の上に寄つて、泣く泣く宣ひけるは、「御ありさま見奉るに、日に添へて頼み少なうこそ見えさせ給へ。この世におぼし召し置くことあらば、少し物の覚えさせ給ふ時、仰せ置け」とぞ宣ひける。入道相国、さしも日ごろはゆゆしげにおはせしかども、まことに苦しげにて、息の下に宣ひけるは、「われ、保元・平治よりこのかた、度々(どど)の朝敵を平らげ、勧賞(けんじやう)身に余り、かたじけなくも帝祖・太政大臣に至り、栄華子孫に及ぶ。今生(こんじやう)の望み一事も残るところなし。ただし思ひ置く事とては、伊豆の流人、前兵衛佐頼朝(さきのひやうゑのすけよりとも)が首を見ざりつるこそ安からね。われいかにもなりなん後は、堂塔をも建て、孝養をもすべからず。やがて討手を遣はし、頼朝が首をはねて、わが墓の前に掛くべし。それぞ孝養にてあらんずる」と宣ひけるこそ罪深けれ。

【現代語訳】
 入道相国の奥方、二位殿(時子)が夢にご覧になったのは、実におそろしいものだった。猛火が激しく燃え上がった車を、門の中に引き入れた者があった。車の前後に立っている者は、ある者は馬のような顔で、ある者は牛のような顔の者だった。車の前には「無」という文字だけが見える鉄の札が立ててあった。二位殿が夢の中で、「その車はどこから来たのですか」とお尋ねになると、「閻魔の庁から、平家の太政入道殿のお迎えに参りました」と言う。「ところで、その札は何という札ですか」とお尋ねになると、「南閻浮提の金銅十六丈の盧遮那物を焼き滅ぼした罪で無間地獄の底に落ちるとの判決が閻魔の庁でなされ、無間の「無」をお書きになられて、「間」の字をまだお書きになっていないのである」と言う。


 二位殿は夢から醒め、汗びっしょりとなり、これを人々にお話になると、聞く人はみな身の毛がよだった。そして、霊験あらたかな仏寺や神社に金・銀・七宝を寄進し、馬・鞍・鎧・甲・弓・矢・太刀・刀に至るまで取り出し、寺社に運び込んでお祈りしたが、その効験もなかった。男女のお子たちが病床を取り巻いて集まり、どうしたらよいかと嘆き悲しんだが、病気平癒がかなえられるとも見えなかった。

 同じ年の閏二月二日、二位殿は熱さに堪えがたかったが、御枕元に寄って泣く泣く、「ご容態をお見受けすると、日増しにご回復の望みは少なくなっているようにお見えです。この世にお思い残されることがございましたら、少しでもお気の確かな時におっしゃっておいてください」と言われた。入道相国は、日ごろはあれほど気強くていらっしゃったが、いかにも苦しげに絶えそうな息の下から、「自分は、保元・平治の乱よりこのかた、幾度も朝敵を平らげ、恩賞は身に余るほど頂き、畏れ多くも天子の外戚として太政大臣にまでなり、栄華は子孫にまで及んでいる。現世での望みは一つも思い残すことはない。ただ思い残すことといっては、伊豆の国の流人、前兵衛佐頼朝の首を見なかったことで、このために安心して死んでもいけない。だから、自分が死んだ後も堂や塔は建てるな、仏事や供養もしてはならない。すぐに討手を派遣して、頼朝の首をはねて私の墓の前に掛けるべし。それこそが供養だ」とおっしゃたのは、まことに罪深いことだった。

(三)
 同じき四日、病に責められ、せめてのことに板に水を沃(い)て、それに伏しまろび給へども、助かる心地もし給はず。悶絶びやく地して、遂にあつち死にぞし給ひける。馬・車の馳せ違(たが)ふ音、天も響き大地もゆるぐほどなり。一天の君、万乗(ばんじよう)の主(あるじ)のいかなる御事ましますとも、これには過ぎじとぞ見えし。今年は六十四にぞなり給ふ。老死(おいじに)といふべきにはあらねども、宿運たちまちに尽き給へば、大法秘法の効験(かうげん)もなく、神明三宝の威光も消え、諸天も擁護(おうご)し給はず。いはんや凡慮(ぼんりよ)においてをや。

 命に代はり、身に代はらんと忠を存ぜし軍旅は、堂上堂下(たうしやうたうか)に並み居たれども、これは目にも見えず、力にもかかはらぬ無常の殺鬼(せつき)をば、暫時(ざんじ)も戦ひ返さず。また帰り来ぬ死出の山、三途瀬川(みつせがは)、黄泉(くわうせん)、中有(ちゆうう)の旅の空に、ただ一所こそ赴き給ひけめ。日ごろ作り置かれし罪業(ざいごふ)ばかりや、獄卒(ごくそつ)となつて迎へに来たりけん。あはれなりし事どもなり。

 さてもあるべきならねば、同じき七日の日、愛宕(おたぎ)にて煙になし奉り、骨(こつ)をば、円実法眼(ゑんじつほふげん)首に掛け、摂津の国へ下り、経(きやう)の島にぞ納めける。さしも日本一州に名をあげ、威をふるつし人なれども、身は一時(ひととき)の煙となつて都の空に立ち上り、屍(しかばね)はしばしやすらひて、浜の真砂(まさご)に戯(たはぶ)れつつ、空(むな)しき土とぞなり給ふ。

【現代語訳】
 同じ月の四日、入道相国は病に苦しめられ、窮余の策として板に水を注いでそれに横たわったが、助かる心地がなさらない。身もだえして気絶し、また倒れて、とうとう悶死なさった。弔問客の馬や牛車の走りかう音が、天に響き大地を揺るがすほどになった。一天万乗の君主にいかなる事があっても、これ以上にはならないだろうと思われた。入道相国は今年は六十四歳だった。老衰というようなお年ではなかったが、寿命がたちまちに尽きてしまったので、大法秘法のききめもなく、神や仏の霊威も消え、諸天もお守りになれなかった。まして凡庸な人の思慮では何ともならなかった。


 入道相国の命の身代わりになろうと忠誠の心を持った数万の武士たちが御殿の上にも下にも並んでいたが、力ずくではどうしようもない死神を、たとえ少しでも戦って追い返すこともできなかった。二度と帰って来れない死出の山、三途の川、冥途の中陰の旅路へと、ただお一人で行かれたことだろう。日ごろの罪業だけが、地獄の使者として迎えに来たのだろうか。まことにしみじみと胸に迫るものだ。

 いつまでもそのままにはしておけないので、同じ月の七日に、愛宕で荼毘に付し、お骨を円実法眼が首に掛けて摂津の国へ下り、経の島に葬った。生前あれほどまでに日本全国に名をあげ、権勢をふるった人であったが、お身体は一時の煙となって都の空に立ち上り、遺骨はしばらくこの世にとどまったものの浜の真砂と混じり合い、ついにむなしく土となられたのである。

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祇園女御

 さしも御最愛と聞こえし祇園女御(ぎをんにようご)を、忠盛(ただもり)にこそ下されけれ。さて、かの女房、院の御子を孕(はら)み奉りしかば、「産めらん子、女子ならば朕(ちん)が子にせん。男子ならば忠盛が子にして、弓矢取る身に仕立てよ」と仰せけるに、すなはち男を産めり。この事、奏聞(そうもん)せんと窺(うかが)ひけれども、しかるべき便宜もなかりけるに、ある時、白河院、熊野へ御幸(ごかう)なりけるが、紀伊国(きのくに)糸鹿坂(いとがざか)といふ所に、御(おんこし)かき居(す)ゑさせ、しばらく御休息ありけり。藪(やぶ)に零余子(ぬかご)のいくらもありけるを、忠盛、袖にもり入れて御前(ごぜん)へ参り、

 いもが子ははふ程にこそなりにけれ

と申したりければ、院やがて御心得あつて、

 ただもり取りてやしなひにせよ

とぞ付けさせましましける。それよりしてこそ我が子とはもてなしけれ。この若君あまりに夜泣きをし給ひければ、院、聞こし召されて、一首の御詠(ごえい)を遊ばして下されけり。

 夜泣きすとただもり立てよ末の代に清く盛(さか)ふることもこそあれ

さてこそ、清盛とは名乗のられけれ。

【現代語訳】
 白河院は、あれほどご最愛と評判の祇園女御を、忠盛に与えられた。さて、その女房は、院の御子を妊娠していたので、「生まれてくる子が女子ならば朕の子にしよう。男子ならば忠盛の子にして武士に育てよ」と仰せになっていたが、間もなく男子を産んだ。この事を奏上しようと窺ったが、これといった機会もないでいると、ある時、白河院が熊野へ御幸され、紀伊国糸鹿坂という所に、御輿を据えさせて、しばらくご休息になった。藪にぬかごが多くあったのを、忠盛はもぎ取って袖に入れ、御前に参り、

 芋の子は、つるが這うほど成長しました(祇園女御が産んだ子は、這うほどに成長しました)。

と申したところ、院はすぐにご理解なさって、

 すぐにつみ取って養いの糧にせよ(忠盛が引き取って養子にせよ)。

とお付けになられた。それ以来、わが子として養育したのである。この若君は、あまりに夜泣きをなさるので、院がお聞きになって、一首の御詠をお詠みになって下された。

 夜泣きをするといっても、ただ守り育てよ。後の世には清く盛えることもあろう。

それで清盛と名乗られたのだ。

(注)忠盛・・・平忠盛。清盛の父。

(注)現代語訳は、現代文としての不自然さをなくすため、必ずしも直訳ではない箇所があります。

古典に親しむ

万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。

バナースペース

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平清盛の略年譜

1118年
平忠盛の長男として生まれる
(白河天皇の落胤説あり)
1120年
清盛の生母が死去
1132年
父・忠盛が武士として初めて昇殿を許される
1135年
父・忠盛が従四位下に叙される
1137年
清盛が肥後守に任ぜられる(20歳)
1138年
平時子と結婚
1146年
安芸守に任ぜられる
1153年
父が死去、平氏一門の棟梁となる(36歳)
1156年
保元の乱が勃発。後白河天皇側につき源義朝とともに源為義、平忠正らを討つ
播磨守に任ぜられる
1159年
平治の乱が勃発。源義朝と戦い勝利
1161年
中納言に任ぜられる
後白河上皇に嫁いだ妻の妹の滋子が、皇子(高倉天皇)を生む
1165年
大納言に任ぜられる
1167年
太政大臣に任ぜられるが、3か月で辞任
1168年
出家(51歳)
厳島神社を大規模に造営する
1169年
福原(神戸市)に別荘を建て、住まいとする
1171年
娘の徳子が入内
1173年
大輪田泊を改修
1177年
鹿ケ谷の陰謀が発覚、平家に対立する院近臣を一掃する
1179年
後白河法皇を幽閉、院政を停止する
1180年
福原に遷都するが、6か月で還都
源頼朝が伊豆で挙兵
1181年
熱病に倒れ死去(64歳)

平清盛の子女
 重盛
 基盛
 宗盛
 知盛
 重衡
 徳子(建礼門院)
 盛子
 完子

前半部のあらすじ

巻第1~第6の前半部では、平家一門の興隆と栄華と、それに反発する反平家勢力の策謀などが語られる。刑部卿(ぎょうぶきょう)平忠盛(たいらのただもり)の昇殿によって宮廷社会に地歩を築いた平家は、その子の清盛の代になって大きく飛躍し、武士で初めて太政大臣の栄位に上る。しかし、権勢を掌握した清盛は、しだいに世を世とも思わぬ悪行の限りを尽くすようになる。

そうした平家のふるまいは多くの人々の反発を招き、その反感がやがて平家打倒の陰謀として結集されていく。巻第1後半から巻第3にかけて展開する鹿ヶ谷(ししがたに)陰謀の物語、巻第4の1巻にわたって語られる源三位頼政(げんざんみよりまさ)の挙兵の物語がそれで、いずれも事前に発覚して惨めな失敗に終わるが、源頼政の奉じた以仁王(もちひとおう)の令旨(りょうじ)が諸国の源氏の決起を促し、源頼朝、木曽義仲の挙兵となり、その騒然とした情勢のなかで、清盛は熱病にかかり悶死を遂げる。

鹿ケ谷の陰謀

治承元年(1177年)5月末、鹿ケ谷の陰謀は、謀議に同席していた多田行綱が清盛に密告して発覚。行綱が密告した理由は、もし陰謀が発覚したら、最初に処罰されるのは摂津源氏の血を引く自分だと恐れた、あるいは鹿ケ谷の面々が頼りなく感じられたからともいわれる。これを聞いた清盛は激怒し、ただちに首謀者格の西光と藤原成親を呼び出し、西光を拷問にかけすべてを白状させて斬首、成親を流罪に処し、流刑地で殺害。また、平康頼、藤原成親、俊寛らは鬼界ケ島へ流罪とした。

陰謀の関係者をすばやく処断した清盛だが、同じく謀議に参加した後白河法皇は追求せず、西光の自白内容を提出し、「このような次第なので、こちらで処罰した」旨の報告にとどめた。清盛は、今後強大な政敵になるであろう西光と成親を排除できれば充分と考え、また後白河法皇にはまだ利用価値があると考え手を出さなかったものと見られている。

なお、平康頼、藤原成親とともに鬼界ケ島へ流罪となった俊寛は、恩赦によって康頼らが帰京したときも、一人許されずそのまま流刑地で生涯を閉じた。一説には、俊寛だけが許されなかったのではなく、恩赦が出された時点ですでに死去していたともいわれる。

安徳天皇

清盛の娘・徳子は、清盛と後白河法皇の政治的協調のため、高倉天皇に入内。治承2年(1178年)に、徳子が、第一皇子を出産し、誕生の翌年には東宮(皇太子)となる。治承三年の政変で後白河法皇を幽閉して院政を停止した清盛は、高倉天皇に譲位させ、わずか3歳の安徳天皇を即位させる。天皇の血縁者となった清盛は、幼帝に代わって、ますます権威を振りかざすようになる。

譲位した高倉上皇は、最初の御幸先に、清盛が保護する厳島を選んだ。上皇が最初の参拝に赴くのは京の八幡宮や上賀茂神社などが通例で、上皇が現在の広島県にある厳島まではるばる御幸するのは異例だった。これには清盛の意向があったとされ、その後、延暦寺など京に近い寺社が反清盛の決起を企てた一因になったともいわれる。

徳子は、安徳天皇の即位後は国母となるが、高倉上皇と清盛が相次いで没し、その後、木曾義仲の進攻により一門とともに都を追われ、壇ノ浦の戦いで安徳天皇と母の時子は入水、平氏は滅亡する。徳子は生き残り、京に送還されて出家、大原寂光院で安徳天皇と一門の菩提を弔って生きた。

なお、安徳天皇は歴代の天皇のなかで最も短命だった天皇であり、また戦乱で落命したことが記録されている唯一の天皇である。


(安徳天皇)

平重盛の死

仁安2年(1167年)に清盛は太政大臣に就任、同時に長男の重盛は権大納言に出世する。翌年に清盛が出家して福原の別荘に隠居してからは、重盛が棟梁として平氏一門を指揮するようになる。

しかし、治承元年(1177年)に鹿ケ谷の陰謀が発覚して藤原成親が流罪になると、重盛の心は清盛から離反しはじめた。重盛は成親の妹を妻に迎えており、清盛に成親の減刑を願い出たものの聞き入れられなかった。

重盛はさらに息子の宗実を左大臣・藤原経宗の養子としており、朝廷有力者とのつながりは深かった。このため、対立した清盛と朝廷(後白河法皇)の間にあって、深く苦悩するようになる。

治承3年(1179年)5月、京に激しいつむじ風が吹き荒れ、死者や建物の倒壊が多かった。あまりのすさまじさに占いをさせると、高禄の家臣に凶事が起こり、戦乱が相次ぐ兆しであるという。

生来病弱だった重盛はやがて重い病を得て、死を悟ると出家し、名医の診療も断って静かに息を引き取る。享年は42歳。清盛は重盛との溝を埋められないまま、後継者として期待をかけていた息子に先立たれてしまった。


(平重盛)

福原遷都

以仁王の乱を鎮めた清盛は、治承4年(1180年)5月末に福原への遷都を宣言し、6月2日には安徳天皇、高倉上皇、後白河法皇を福原に移動させた。京の人々は驚きながらも、清盛の決定に従わざるを得なかったが、あまりに急だったために、福原の受け入れ態勢は整っておらず、天皇たちは平氏一門の邸に仮住まいさせられるありさまだった。

福原は京より狭く、新都が完成したとしても京の3分の1程度の規模にしかならない土地だった。あまりに唐突で無謀と思われる遷都には、当然ながら大きな反発があり、鴨長明の『方丈記』にも記されているように大きな混乱もあった。宗盛も清盛に、都を戻すよう諫言したほどである。

そのような遷都を清盛が強行した理由は三つあるとされる。第一は、寺社勢力の圧力が強まり、京の防衛が困難になってきたこと。第二は、平氏の血縁者である安徳天皇が即位したのを機に、新しい政治基盤を作りたかったこと。第三は、京で干ばつが続き、疫病流行の兆しがあったこと。

また、福原にこだわった理由は、もともと清盛は福原に隠棲しており、その風光明媚さを気に入っていたことに加え、大輪田泊という、京と厳島神社の中間にある港の存在が大きかったこと、六甲山系を背にした地形で敵からの攻撃に備えやすかったことなどがいわれている。

しかしながら、寺社勢力や貴族たちの新都福原に対する不満があまりにも強くなったため、わずか半年後に、またも突然の決定で、都を京に戻した。

「平家物語」の登場人物

平忠盛
清盛の父。白河・鳥羽両院政のもとで軍事力の中心になって活躍し、西海の海賊の追捕や得長寿院建立の功により、平氏として初めて昇殿を許された。
 
鳥羽院
第74代天皇。堀河天皇の第一皇子。後白河天皇の父。在位16年の後、28年間にわたり院政を行い、この間、平家を登用した。
 
平清盛
平忠盛の長男。保元の乱・平治の乱に勝ち、中央に進出。武士で最初の太政大臣となり、平氏繁栄の基礎をつくる。実の父親は白河法皇ともいわれるが、確かなことは分かっていない。
 
平時子
清盛の妻。従二位に叙せられ、二位の尼とも呼ばれた。宗盛・知盛・重衡・建礼門院徳子らの母。壇ノ浦で安徳天皇を抱いて入水。
 
平忠度
平忠盛の六男、清盛の異母弟。歌人として有名で、藤原俊成に学んだ。平氏一門の都落ちの際、都へ引返して藤原俊成に自詠の巻物を託した話で有名。一谷の合戦で敗死。
 
平重盛
清盛の長男。父と平治の乱に参戦、朝廷と平氏の調整役となる。清盛の後継者として期待されながら、父に先立ち42歳で病没。
 
平宗盛
清盛の三男。重盛に次ぐ昇進をし、重盛の死後は平氏の長者として中心に位置した。壇ノ浦の戦いに敗れ海中に身を投じたが捕えられ、鎌倉に送還されたのち京都に送り返される途中で斬首された。

平知盛
清盛の四男。病弱だったため活躍の時期は少なかったものの、平家随一の知将として、都落ち後の平氏の支柱となる。壇ノ浦で、一門の最期を見届けると、鎧を2つ着込んで入水自殺した。

後白河法皇
鳥羽天皇の第四皇子。譲位後34年にわたり院政を行った。戦乱が相次ぐなか、幾度となく幽閉、院政停止に追い込まれるが、そのたび復権をはたした。
 
藤原成親
後白河法皇の側近の一人で、鹿の谷の謀議の張本人。のちに発覚して捕えられ、備前に流され、そこで殺された。
 
俊寛僧都
真言宗の僧。清盛に目をかけられ、法勝寺の執行だったが、鹿の谷の謀議に連なり、薩摩国の鬼界が島に流された。その後の恩赦でも帰還が許されず、後に自害した。
 
西光法師
藤原師光。法名西光。後白河法皇の側近で、鹿の谷事件の首謀者の一人。捕らえられて様々な拷問を受け、処刑された。
 
文覚
遠藤盛遠。武芸に通じ、ある時、誤って源渡の妻を殺し、出家して文覚と名乗った。神護寺の復興を企て、後白河法皇の怒りにふれて伊豆に流された。そこで頼朝と知り合い、以後頼朝の力を得て多くの事業・事件にかかわった。
 
藤原俊成
定家の父。邸宅が五条京極にあって正三位皇太后宮大夫の職にあり、五条の三位とも呼ばれた。平安末期から鎌倉初期にかけての代表的歌人。後白河法皇の勅命で『千載集』を撰進した。
 
平維盛
清盛の長男重盛の子。清盛の嫡孫として幼少より重んじられ、美貌の貴公子として宮廷にある時には「光源氏の再来」と称された。富士川の戦いで敗れ、また、木曾義仲との戦いに敗れて屋島に逃れたものの、脱出して出家、後に入水自殺した。

源頼政
平治の乱ではじめ義朝側につくも、清盛側に寝返り、院御所への昇殿を許される。源氏が一掃された朝廷での出世は困難だったが、清盛には目をかけられ、75歳で従三位に。しかし、以仁王の乱で打倒兵士の兵を挙げ、平知盛の軍勢に敗れて自害した。
 
源頼朝
源義朝の三男。父・義朝が平治の乱で敗れると伊豆に流される。以仁王の令旨を受けると平氏打倒の兵を挙げ、弟たちを代官として木曾義仲と平氏を滅ぼしたが、戦功のあった末弟・義経を追放し、諸国に守護・地頭を配して力を強め、奥州合戦では奥州藤原氏を滅ぼす。源平争乱の最終覇者となり、1192年に征夷大将軍に任じられた。
 
源範頼
源義朝の六男、頼朝の弟。頼朝の代官として大軍を率い、義経と共に木曾義仲・平氏追討に功を挙げた。後に頼朝に謀反の疑いをかけられ誅殺された。
 
源義経
頼朝・範頼の弟。平氏追討の最大の功労者となったが、頼朝と対立し朝敵とされた。奥州藤原氏の藤原秀衡を頼ったが、秀衡の死後、頼朝の追及を受けた藤原泰衡に攻められ自刃し果てた。
 
木曾義仲
源義賢の二男で、頼朝・義経とは従兄弟にあたる。倶利伽羅峠の戦いで平氏を破って上洛するが、治安維持の失敗や皇位継承への介入などで後白河法皇と不和となる。法住寺殿の戦いで法皇を捕縛するにいたって、頼朝配下の追討軍と戦い、奮戦むなしく戦死する。
 
熊谷次郎直実
平貞盛の子孫で、最初平知盛に仕えて源頼朝と戦ったが、後に源氏に従った。源頼朝をして「日本一の剛の者」と言わしめたが、一の谷の戦いで、自分の息子と同年代の平敦盛を討ち取ってからは戦場に姿を見せなくなり、出家した。
 
平敦盛
経盛の三男。笛の名手で、祖父忠盛が鳥羽院から賜った「小枝」(または「青葉」)という笛を譲り受ける。17歳で一谷の戦いに参加したが、熊谷次郎直実に討ち取られる。
 
那須与一
義経に従軍。屋島の戦いで、平氏方の軍船に掲げられた扇の的を射落とすなど功績をあげ、頼朝から丹波・信濃など5か国に荘園を賜った。
 
梶原景時
石橋山の戦いで頼朝を救ったことから、頼朝から重用されて侍所所司となる。当時の東国武士には珍しく教養があり、和歌を好み、「武家百人一首」にも選出されている。
 
北条時政
頼朝の妻政子の父で、頼朝挙兵以来の重臣。後に、鎌倉幕府の初代執権となる。
 
平教経
平教盛の次男。平家随一の猛将で、都落ち後、退勢にある平家の中で一人気を吐き、源氏を苦しめた。最後の壇ノ浦でもさかんに戦い源義経に組みかかろうとするが、八艘飛びで逃げられ、大男2人を締め抱えて海に飛び込んで死んだ。
 
安徳天皇
高倉天皇の第一皇子。母は清盛の娘の平徳子(建礼門院)。清盛の後押しにより3歳で即位。天皇の血縁者となった清盛は、幼い天皇に代わって権威をふりかざす。壇ノ浦で祖母の二位尼に抱きかかえられ入水、8歳で崩御。
 
建礼門院
清盛の次女で、名は徳子。高倉天皇の中宮となり、安徳天皇を生んだ。壇ノ浦で安徳天皇を追って入水したが、源氏方に救われて帰京した。

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