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枕草子

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頭の中将の~第八十二段

(一)
 頭の中将の、すずろなるそらごとを聞きて、いみじう言ひ落とし、「何しに人とほめけむ」など、殿上(てんじやう)にていみじうなむのたまふと聞くにも、恥づかしけれど、「まことならばこそあらめ、おのづから聞き直したまひてむ」と笑ひてあるに、黒戸の前など渡るにも、声などするをりは、袖をふたぎて、つゆ見おこせず、いみじう憎みたまへば、ともかうも言はず、見も入れで過ぐすに、二月(きさらぎ)つごもり方、いみじう雨降りてつれづれなるに、御物忌みに籠(こも)りて、「『さすがにさうざうしくこそあれ。物や言ひやらまし』となむ、のたまふ」と人々語れど、「世にあらじ」など答(いら)へてあるに、日一日(ひとひ)、下(しも)にゐ暮らして参りたれば、夜の御殿(おとど)に入らせたまひにけり。

 長押(なげし)の下(しも)に火近く取り寄せて、さしつどひて扁(へん)をぞつく。「あなうれし。とくおはせ」など、見つけて言へど、すさまじき心地して、何しに上(のぼ)りつらむと覚ゆ。炭櫃(すびつ)のもとに居たれば、そこにまたあまた居て、物など言ふに、「なにがしさぶらふ」と、いとはなやかに言ふ。「あやし、いづれの間に、何事のあるぞ」と問はすれば、主殿司(とのもりづかさ)なりけり。「ただここもとに、人づてならで申すべきこと」など言へば、さし出でて問ふに、「これ、頭(とう)の殿の奉らせたまふ。御返りごと、とく」と言ふ。

【現代語訳】
 頭の中将が、私についてのとりとめもないうわさを聞いて、私をひどくけなし、「どうして清少納言を人並みにほめたのだろう」などと、殿上の間でひどくおっしゃる、と聞くにつけ、恥ずかしいけれども、「事実ならしようがないが、間違いなのだからそのうちきっと誤解を解かれるだろう」と笑っていたが、頭の中将は黒戸の前などを通るときも、私の声がすれば、袖で顔を隠して少しもこちらを見ず、ひどく憎んでいらっしゃる。私は何も言わず、気にもしないで過ごしているうち、二月の末ごろ、ひどく雨が降って退屈なときに、頭の中将が御物忌みにこもっていて、「『やはり何だか物足りない。清少納言に何か言ってやろうか』とおっしゃっている」と人々が私に話すが、「そんなことはよもやないでしょう」などと答え、一日中自分の部屋にいて、夜になって中宮様の所に参上したところ、中宮様はもう御寝所にお入りになっていた。


 頭の中将が、私についてのとりとめもないうわさを聞いて、私をひどくけなし、「どうして清少納言を人並みにほめたのだろう」などと、殿上の間でひどくおっしゃる、と聞くにつけ、恥ずかしいけれども、事実ならしようがないが、間違いなのだからそのうちきっと誤解を解かれるだろうと笑っていたが、頭の中将は黒戸の前などを通るときも、私の声がすれば、袖で顔を隠して少しもこちらを見ず、ひどく憎んでいらっしゃる。私は何も言わず、気にもしないで過ごしているうち、二月の末ごろ、ひどく雨が降って退屈なときに、頭の中将が御物忌みにこもっていて、「『やはり何だか物足りない。清少納言に何か言ってやろうか』とおっしゃっている」と人々が私に話すが、「そんなことはよもやないでしょう」などと答え、一日中自分の部屋にいて、夜になって中宮様の所に参上したところ、中宮様はもう御寝所にお入りになっていた。
 
(注)扁つき・・・漢字の扁を示してつくりを付ける、またはその逆のことをする遊び。

(二)
 いみじく憎みたまふに、いかなる文(ふみ)ならむと思へど、ただ今、急ぎ見るべきにもあらねば、「往(い)ね。今聞こえむ」とて、ふところに引き入れて入りぬ。なほ人の物言ふ、聞きなどする、すなはち立ち帰り来て、「『さらば、そのありつる御文を賜はりて来(こ)』となむ仰せらるる。とくとく」と言ふが、あやしう、いせの物語なりやとて、見れば、青き薄様(うすやう)に、いと清げに書きたまへり。心ときめきしつるさまにもあらざりけり。

 蘭(らん) 省ノ 花ノ 時 錦 帳ノ 下

と書きて、「末はいかに、末はいかに」とあるを、いかにかはすべからむ、御前(ごぜん)おはしまさば、御覧ぜさすべきを、これが末を知り顔に、たどたどしき真名(まんな)に書きたらむも、いと見苦しと、思ひまはすほどもなく責め惑はせば、ただその奥に、炭櫃に消えたる炭のあるして、

 草の庵(いほり)を誰(たれ)か尋ねむ

と書きつけて、取らせつれど、また返りごとも言はず。

【現代語訳】
 とても憎んでおられるはずなのに、どんな手紙なのだろうと思うが、今すぐに急いで見るほどでもないから、「行ってください。すぐお返事を申し上げます」と言って、手紙をふところに入れて中に入った。そのまま女房たちが話しているのを聞いたりしていると、主殿司がすぐに引き返してきて、「『それなら、さっきのお手紙をいただいて来い』とおっしゃっています。お返事を早く早く」と言うが、どうもおかしいので、伊勢の物語なのかなと思い、見ると、青い薄手の紙に、とてもきれいに書いていらっしゃる。どんな文かと胸がときめいたが、それほどのものではなかった。


 蘭省の花の時錦帳の下

と書いて、「この後の句はどうか、どうだったか」とあるのを、どうしたらよいだろう、中宮様がいらっしゃれば御覧に入れることもできるのに、この下の句を知ったかぶりに、おぼつかない漢字で書いたら、さぞ見苦しいと思うが、思案するひまもなくしきりにせきたてるので、ただその手紙のあとに、炭櫃に火が消えた炭があるのを使い、
 草の庵をたれかたづねむ

と書きつけて渡したが、頭の中将から再びの返事はない。

(三)
 皆寝て、つとめて、いととく局(つぼね)に下(お)りたれば、源中将の声にて、「ここに草の庵やある」と、おどろおどろしく言へば、「あやし。などてか、人げなきものはあらむ。玉の台(うてな)と求めたまはましかば、答(いら)へてまし」と言ふ。「あなうれし。下(しも)にありけるよ。上にてたづねむとしつるを」とて、昨夜(よべ)ありしやう、「頭の中将の宿直所(とのゐどころ)に、少し人々しき限り、六位まで集まりて、よろづの人の上、昔、今と語りいでて言ひしついでに、『なほこの者、むげに絶え果てて後こそ、さすがにえあらね。もし言ひいづることもやと待てど、いささかなにとも思ひたらず、つれなきもいとねたきを、今宵(こよひ)(あ)しともよしとも定めきりてやみなむかし』とて、皆言ひ合はせたりしことを、『ただ今は見るまじ、とて入りぬ』と、主殿司(とのもづかさ)が言ひしかば、また追ひ返して、『ただ、袖を捕らへて、東西せさせず乞ひ取りて、持て来ずは、文を返し取れ』と戒めて、さばかり降る雨の盛りにやりたるに、いととく帰りたりき。『これ』とて、さし出でたるが、ありつる文なれば、返してけるかとて、うち見たるに、あはせてをめけば、『あやし。いかなることぞ』と、皆寄りて見るに、『いみじき盗人(ぬすびと)を。なほ、えこそ捨つまじけれ』とて見騒ぎて、『これが本(もと)、つけてやらむ。源中将、付けよ』など、夜ふくるまで付けわづらひてやみにしことは、行く先も必ず語り伝ふべきことなり、などなむ、皆定めし」など、いみじうかたはらいたきまで言ひ聞かせて、「今は、御名をば、草の庵(いほり)となむ、付けたる」とて、急ぎ立ちたまひぬれば、「いとわろき名の、末の世まであらむこそ、口惜しかなれ」と言ふほどに、修理(すり)の亮則光(すけのりみつ)、「いみじき喜び申しになむ、上にやとて、参りたりつる」と言へば、「なんぞ、司召(つかさめし)なども聞こえぬを、何になりたまへるぞ」と問へば、「いな、まことにいみじううれしきことの、昨夜(よべ)はべりしを、心もとなく思ひ明かしてなむ。かばかり面目(めいぼく)なることなかりき」とて、初めありけることども、中将の語りたまひつる、同じことを言ひて、

【現代語訳】
 みんな寝て、翌朝、自分の部屋にたいそう早く下がっていると、源中将の声で、「ここに草の庵はいますか」と仰々しく言うので、「変ですね。どうしてそのような人間らしくない名前の者がおりましょうか。玉の台とお尋ねでしたら、お返事もいたしましょうに」と言った。頭の中将は「ああうれしい、下の局にいたのですね。上の局に尋ねようとしていました」と言って、昨夜あったことを語った、「頭の中将の宿直所に、少し身分のある者が皆、六位の蔵人までが集まって、いろいろな人の昔や今のことを語り、頭の中将があなたのことを『やはりこの人は、まったく絶交したというものの、そのまま放ってはおけない。ひょっとして向こうから言い出すかと待っているが、少しも気にかけず平気でいるのもずいぶんしゃくなので、今夜、良かれ悪しかれ、どうするか決めてしまおう』と言って、皆で相談したあの手紙を、『今すぐは見ないといって引っ込んだ』と主殿司が伝えたので、また追い返して、『とにかく袖をつかまえてでも、有無を言わさず返事をもらって来い。そうでなければ手紙を取り返せ』と強く言い聞かせて、あれほど降る雨のなかを遣ったところ、えらく早く帰ってきた。『これです』と言って差し出したのがさっきの手紙で、返事が来たのだなと思い、頭の中将がちらっと見たと同時に叫び声をあげた、『おや、どうしたのか』と皆でそばに寄って見ると、頭の中将が『たいした盗人よ。やはりあの女を捨て置くことはできない』と言うので、皆が手紙を見て騒ぎ、『これ(草の庵をたれかたづねむ)の上の句をつけて贈ろう。源中将つけてみろ』などと、夜が更けるまで悩んだあげく、つけることができずに終わってしまい、将来にきっと語り伝えるべき話だ、などと皆で評定しましたよ」などと、ずいぶんきまりが悪くなるほど私に言い聞かせ、「あなたのお名前を、今では草の庵とつけています」と言って、急ぎ立ってしまわれた。私は「とてもみっともない名が後世まで伝わるのは残念」と言っていると、修理の亮則光が「すばらしいお祝いを申し上げるために、上の御局におられるかと思って参上していました」と言うので、「何ですか。司召の除目などがあったとも聞きませんが、何におなりになったのですか」と尋ねると、「いやもう、まことにすばらしくうれしいことが昨夜ありましたのを、早くお知らせしたいと待ち遠しく夜を明かしましたよ。あれほど名誉なことはありませんでした」と言って、最初からのいきさつを、源中将がお話になったのと同じことを言い、
 
(注)修理の亮則光・・・橘則光。日ごろ兄妹と呼び合っていた。長男の則長は清少納言との間にできた子といわれる。 

(四)
 「『ただ、この返りごとに従ひて、こかけをしふみし、すべて、さる者ありきとだに思はじ』と、頭の中将のたまへば、ある限りかうやうしてやりたまひしに、ただに来たりしは、なかなかよかりき。持て来たりしたびは、いかならむと胸つぶれて、まことに悪からむは、せうとのためにも悪かるべしと思ひしに、なのめにだにあらず、そこらの人のほめ感じて、『せうと、こち来(き)。これ聞け』とのたまひしかば、下ごこちはいとうれしけれど、『さやうの方(かた)に、さらにえさぶらふまじき身になむ』と申ししかば、『言(こと)加へよ、聞き知れとにはあらず。ただ、人に語れとて聞かするぞ』とのたまひしなむ、少し口惜しきせうとの覚えにはべりしかども、本(もと)付けこころみるに、言ふべきやうなし。『ことに、またこれが返しをやすべき』など言ひ合はせ、『悪しと言はれては、なかなかねたかるべし』とて、夜中までおはせし。これは身のため、人のためも、いみじき喜びにははべらずや。司召に少々の司(つかさ)得てはべらむは、何とも覚ゆまじくなむ」と言へば、げにあまたしてさることあらむとも知らで、ねたうもあるべかりけるかなと、これになむ胸つぶれて覚えし。このいもうと、せうとといふことは、上まで皆しろしめし、殿上にも、司の名をば言はで、せうととぞ付けられたる。

 物語などしてゐたるほどに、「まづ」と、召したれば、参りたるに、このこと仰せられむとなりけり。上(うへ)渡らせたまひて、語り聞こえさせたまひて、男(をのこ)ども皆、扇に書きつけてなむ持たる、など仰せらるるにこそ、あさましう、何の言はせけるにか、と覚えしか。

 さて後(のち)ぞ、そでの几帳(きちやう)など取り捨てて、思ひ直りたまふめりし。

【現代語訳】
 「『ただ、この返事しだいでは、こかけをしふみし、全くそんな者がいたとは思うまい』と頭の中将がおっしゃるので、そこにいた皆で考えて手紙をおやりになったが、使者が手ぶらで帰ってきたのは、かえってよかった。返事を持ってきたときはどうなることかと胸がどきどきして、ほんとうに出来が悪かったら、この兄にとってもよくないだろうと思ったが、並々でなく大勢の人がほめて感心し、『お兄さん、こっちへ来い。これを聞け』とおっしゃったので、内心はとてもうれしくも、『そうした詩歌のほうは、一向にお相手できるほどの身ではございません』と申し上げた、すると、『批評しろとか理解しろというのではない。ただ、人に話せというので聞かせるのだ』とおっしゃり、兄としてちょっと情けない思われ方だったが、人々が上の句をつけようとしても適当な文句が見つからない。『ことさらに、またこの句の返事をしたものだろうか』などと話し合い、『つまらない返事だと言われては、かえって無念だ』などと、夜中まで思案していらっしゃった。これは私自身にとってもあなたにとっても祝い事ではないか。司召に少しばかりの官職を得たとしても、これに比べれば何とも思われない」と言う。なるほど大勢でそんな計画があったとも知らず、へたな返事をしていたらさぞしゃくにさわったであろうと、今更ながらに胸がどきりとした。この私と則光を兄妹と呼ぶのは、主上(一条天皇)まですっかりご存知で、殿上でも、則光の官名ではなく「せうと」と名づけられている。


 則光といろいろ話しているうちに、中宮様が「ちょっと」とお召しになったので参上したところ、このことをおっしゃろうというのだった。主上が中宮様の所においでになってお話しあそばし、殿上人たちは皆、あの句を扇に書きつけて持っているとのことで、あきれて、何があの句を言わせたのかしらと思われた。

 それから後は、頭の中将も、袖で几帳のように顔を隠すのをやめて、機嫌をお直しになったようだった。

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無名と言ふ琵琶の御琴を~第九十三段

 無名(むみやう)といふ琵琶(びは)の御琴(おんこと)を、上の持て渡らせ給へるに、見などしてかき鳴らしなどいへば、弾くにはあらで、緒(を)などを手まさぐりにして、「これが名よ、いかにとか」と聞こえさするに、「ただいとはかなく、名もなし」と、宣(のたま)はせたるは、なほいとめでたしとこそ覚えしか。

 淑景舎(しげいさ)などわたり給ひて、御物語のついでに、「まろが元に、いとをかしげなる笙(しやう)の笛こそあれ。故殿(ことの)の得させ給へりし」と宣ふを、僧都(そうづ)の君、「それは隆円(りゆうゑん)に賜(たま)へ。おのが元に、めでたき琴(きん)侍り。それに換へさせ給へ」と申し給ふを、聞きも入れ給はで、異事(ことこと)を宣ふに、答(いら)へせ奉らむと、あまたたび聞こえ給ふに、なほものも宣はねば、宮の御前(おまへ)の、「いな、換へじ、とおぼしたるものを」と、宣はせたる御気色(みけしき)の、いみじうをかしきことぞ限りなき。

 この御笛(おんふえ)の名を、僧都の君もえ知り給はざりければ、ただ恨めしうおぼいためる。これは、職(しき)の御曹司(みざうし)におはしまいしほどのことなめり。上の御前(おまへ)に、「いなかへじ」と言ふ御笛も、候(さぶら)ふなり。

 御前(ごぜん)に候ふものは、御琴も御笛も、みな珍しき名つきてぞある。

 玄上(げんじやう)、牧馬(ぼくば)、井手(ゐで)、渭橋(ゐけう)、無名(むみょう)など。また和琴(わごん)なども、朽目(くちめ)、塩釜(しほがま)、二貫(ふたぬき)などぞ聞こゆる。水竜(すいろう)、小水竜(こすいろう)、宇多(うだ)の法師、釘打(くぎうち)、葉二(はふたつ)、なにくれなど多く聞きしかど、忘れにけり。

 「宜陽殿(ぎやうでん)の一の棚(たな)に」といふ言(こと)くさは、頭(とう)の中将こそし給ひしか。

【現代語訳】
 無名(むみょう)という名の琵琶を帝が持って中宮のお部屋にいらしゃったので、女房たちが見て、弾くわけではなく、弦をいじって遊んで、「この琵琶の名は、何というのでしょう」と申し上げると、中宮様は「ただ、何ということもなく、名もないのよ」とお答えになられたのは、さすがに素晴らしく思われた。

 中宮様の妹君の淑景舎の方がいらっしゃって、お話のついでに、「私のところにとてもよい笙(しょう)の笛があります。亡くなったお父様が下さったものなのです」とおっしゃるのを中宮様の弟君の隆円僧都が、「それを私に下さいませんか。私のところに素晴らしい琴がございます。それと交換してください」と申し上げたが、淑景舎の方は全くお聞きにならなずに違う話をなさるのを、隆円様は何とか承知いただこうと、何回も申し上げるのだが、それでも返事をなさらないので、中宮様が「いなかへじ(交換したくありません)、とお思いになっておられるので」と、代わりにおっしゃってあげた。その才気に溢れるご様子は、たいへん素晴らしいものであった。

 その御笛の名を、隆円様もお知りにならなかったので、ただ恨めしくお思いになっていたようだ。これは、中宮様が、職の御曹司がいらっしゃったころのことだろう。帝のお手元には、「いなかへじ」という名の御笛があったのである。

 帝がお持ちの楽器には、御琴にも御笛にも、みな珍しい名前がついている。玄上(げんじょう)、牧馬(ぼくば)、井手(いで)、渭橋(いきょう)、無名(むみょう)など。また、和琴にも、朽目(くちめ)、塩釜(しおがま)、二貫(ふたぬき)など。水龍(すいろう)、小水龍(こすいろう)、宇多の法師、釘打(くぎうち)、葉二(はふたつ)など、他にも色々聞いたけれど、忘れてしまった。

「それは宜陽殿の第一の棚に置くべき名器だ」というのは、頭の中将様(藤原斉信:ふじわらのただのぶ)の口癖だった。
 

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二月つごもりごろに~第百六段

 二月(きさらぎ)つごもりごろに、風いたう吹きて空いみじう黒きに、雲少しうち散りたるほど、黒戸(くろと)に主殿司(とのもづかさ)来て、「かうてあぶらふ」と言へば、寄りたるに、「これ、公任(きんたふ)の宰相殿の」とてあるを見れば、懐紙(ふところがみ)に、

 少し春あるここちこそすれ

とあるは、げに、今日(けふ)のけしきにいとよう合ひたるも、これが本(もと)はいかでかつくべからむ、と思ひわづらひぬ。「誰(たれ)たれか」と問へば、「それそれ」と言ふ。皆いと恥づかしき中に、宰相の御答(いら)へを、いかで事なしびに言ひいでむ、と心一つに苦しきを、御前に御覧ぜさせむとすれど、上のおはしまして大殿(おほとの)籠りたり。主殿司(とのもづかさ)は、「とくとく」と言ふ。げに、遅うさへあらむは、いと取り所なければ、さはれとて、

 空寒み花にまがへて散る雪に

と、わななくわななく書きて取らせて、いかに思ふらむと、わびし。これがことを聞かばやと思ふに、そしられたらば聞かじと覚ゆるを、「俊賢(としかた)の宰相など、『なほ内侍(ないし)に奏してなさむ』となむ定め給ひし」とばかりぞ、左兵衛(さひやうゑ)の督(かみ)の中将におはせし、語り給ひし。

【現代語訳】
 二月の末ごろ、風がたいへん吹いて空がとても黒く、そのうえ雪が少し散らついている時に、黒戸に主殿司が来て、「ごめんください」と言うので、近寄れば、「これは、公任の宰相殿からです」と差し出すのを見ると、懐紙に「少し春になった趣ですね」と書いてあり、いかにも今日の天気に合っているので、この歌の上の句はどう付けたらよいかと思い悩んだ。「殿上の間にはどなた方がいらっしゃるの」と尋ねると、「だれそれです」と言う。どなたも皆こちらがたいそう気後れするような立派な方なので、宰相へのお返事は通りいっぺんのものにはできないと、自分だけでは苦しいので中宮様にお目を通していただこうとするが、中宮様は主上がおいでになってお休みになっていらっしゃる。主殿司は「早く早く」と言う。たしかに返事まで遅くては、いかにも取り柄がないので、どうにもなれと思い、「空が寒いので、花に似せて散る雪に」と、震え震えして書いて渡したが、どう思われるかと情けなくなる。このお返事の批評を聞きたいと思うが、もしけなされているなら聞きたくないと思っていると、「俊賢の宰相などが、『やはり主上に奏上してあなたを内侍にしたい』と批評しておられた」とだけ、左兵衛の督の中将だった方が話してくださった。
 

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無徳なるもの~第百二十五段

 無徳(むとく)なるもの。潮干(しほひ)の潟(かた)にをる大船(おほふね)。大きなる木の、風に吹き倒されて根をささげて横たはれ伏せる。えせ者の、従者(ずさ)(かうが)へたる。人の妻(め)などの、すずろなるもの怨(ゑん)じなどして隠れたらむを、必ず尋ね騒がむものぞと思ひたるに、さしもあらず、ねたげにもてなしたるに、さてもえ旅立ちゐたらねば、心と出(い)で来たる。

【現代語訳】
 
さまにならないもの。潮が引いた潟に乗り上げてる大きな船。大木が風に吹かれて倒されて、根を上に向けて横倒しになったの。くだらない者が従者を叱るの。人妻が、つまらぬ嫉妬なんかして身を隠し、夫がきっと大騒ぎして探すだろうと思ったのにそうならず、憎ったらしくも平然と過ごしてるので、いつまでも家をあけてもいられず、自らのこのこ出てきたの。

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はしたなきもの~第百二十七段

 はしたなきもの。異人(ことひと)を呼ぶに、我ぞとて、さし出(い)でたる。物など取らするをりはいとど。おのづから人の上などうち言ひそしりたるに、幼き子どもの聞き取りて、その人のあるに言ひ出でたる。

 あはれなることなど、人の言ひ出で、うち泣きなどするに、げにいとあはれなりなど聞きながら、涙のつと出で来ぬ、いとはしたなし。泣き顔つくり、けしき異(こと)になせど、いと甲斐(かひ)なし。めでたきことを見聞くには、まづただ出で来(き)にぞ出でくる。

【現代語訳】
 きまりの悪いもの。他の人を呼んだのに、自分かと思って出しゃばった時。何かをくれるときは、いっそうきまりが悪い。何となく人の噂話などして悪く言ったことを、幼い子どもが聞き覚えていて、その人の前でしゃべってしまった時。


 悲しいことなどを人が話し出して、ふと泣いたりするのに、まことにたいそう可哀相だと思って聞いていながらも、涙がすぐに出てこないのは、ひどくきまりが悪い。泣き顔をつくり、悲しそうな顔つきをしてみても、全くかいがない。それとは反対にすばらしいことを見たり聞いたりして、真っ先に涙がやたらに出てくるのも困ったものだ。

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関白殿、黒戸より~第百二十九段

 関白殿、黒戸(くろど)より出でさせ給ふとて、女房のひまなくさぶらふを、「あないみじのおもとたちや。翁(おきな)をいかに笑ひ給ふらむ」とて、分け出でさせ給へば、戸に近き人々、いろいろの袖口(そでぐち)して、御簾(みす)引き上げたるに、権(ごん)大納言の御沓(くつ)取りてはかせ奉り給ふ。いとものものしく清げに、装(よそほ)しげに、下襲(したがさね)の裾(しり)長く引き、所(ところ)(せ)くてさぶらひ給ふ。あなめでた、大納言ばかりに沓(くつ)取らせ奉り給ふよ、と見ゆ。山の井の大納言、その御次々のさならぬ人々、黒きものを引き散らしたるやうに、藤壺の塀(へい)のもとより、登花殿(とうくわでん)の前まで居並みたるに、細やかにいみじうなまめかしう、御佩刀(はかし)などひき繕はせ給ひて、休らはせ給ふに、宮の大夫(だいぶ)殿は、戸の前に立たせ給へれば、居させ給ふまじきなめりと思ふほどに、少し歩み出でさせ給へば、ふと居させ給へりしこそ、なほいかばかりの昔の御行ひのほどにかと見奉りしに、いみじかりしか。

 中納言の君の、忌日(きにち)とてくすしがり行ひ給ひしを、「賜(たま)へ、その数珠、しばし。行ひして、めでたき身にならむ」と借るとて、集まりて笑へど、なほいとこそめでたけれ。御前に聞こしめして、「仏になりたらむこそは、これよりはまさらめ」とて、うち笑(ゑ)ませ給へるを、まためでたくなりてぞ見奉る。大夫殿の居させ給へるを、かへすがへす聞こゆれば、例の思ひ人と笑はせ給ひし、まいて、この後(のち)の御有様を見奉らせ給はましかば、ことわりとおぼしめされなまし。

【現代語訳】
 関白殿(藤原道隆)が黒戸からお出ましになるというので、女房たちがぎっしり並んで伺候しているのをご覧になり、「ああ、何とすばらしいご婦人がたよ。この老人をどれほどお笑いになるだろう」と言って、女房たちをかき分けて出てこられた。戸口に近い女房たちが、色とりどりの袖口をのぞかせて御簾を引き上げると、そこに控えていた権大納言(藤原伊周)がお沓を取って関白殿におはかせになる。権大納言はたいへんいかめしく、きれいで、装いをこらして、下襲の裾を長く引き、あたりがせまく感じられるほど堂々としていらっしゃる。ああすばらしい、大納言ほどのお方に沓を取らせなさるとは、と思われる。山の井の大納言(藤原道頼)や、これに次ぐ官位でお身内ではない方々が、黒いものを散らしたように、藤壺の塀のもとから登花殿の前まで居並んでいる所に、関白殿がほっそりと優雅に御佩刀などをおとり直しになり佇んでいらっしゃると、中宮の大夫殿(藤原道長)は、戸の前に立たれているので、ひざまずきはなさるまいと思っていると、関白殿が少し歩まれて行かれると、すっとひざまずかれたのは、やはり関白殿の前世での善業がいかばかりであったかと拝見し、大いに感動したことだ。


 女房の中納言の君(道隆の従妹)が、命日だとして奇特なようすで勤行しておられたのを、他の女房が「その数珠をしばらく貸してください。私もお勤めをして関白のようなけっこうな身分になりたい」と、集まってきて笑うが、それにしても関白殿の御威勢はまことにすばらしい。中宮様がそれをお聞きになって、「いっそ仏になれば、もっとよいでしょうに」とおっしゃって微笑なさるのを、これまたすばらしくお見申し上げる。中宮の大夫様がひざまずかれたことを繰り返し申し上げると、いつもごひいきの人ねとお笑いになったが、まして、もし中宮様がその後の道長様の御繁栄ぶりをご覧になったならば、私が申し上げるのももっともなこととお思いになっただろうに。
 
(注)黒きもの・・・当時の四位以上の人の袍が、すべて黒色だった。
(注)御佩刀・・・貴人が身につける太刀の尊称。

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殿などのおはしまさでのち~第百四十三段

(一)
 殿などのおはしまさで後、世の中に事(こと)(い)で来(き)、騒がしうなりて、宮も参らせ給はず、小二条殿といふ所におはしますに、何ともなく、うたてありしかば、久しう里に居たり。御前(おまへ)渡りのおぼつかなきにこそ、なほ、え絶えてあるまじかりける。

 右中将おはして、物語し給ふ。「今日(けふ)、宮に参りたりつれば、いみじうものこそあはれなりつれ。女房の装束(さうぞく)、裳(も)、唐衣(からぎぬ)、折にあひ、たゆまで候(さぶら)ふかな。御簾(みす)のそばの開(あ)きたりつるより見入れつれば、八、九人ばかり、朽ち葉の唐衣、薄色の裳に、紫苑(しをん)、萩(はぎ)など、をかしうて居並みたりつるかな。御前(おまへ)の草のいと茂(しげ)きを、『などか、かき払はせてこそ』と言ひつれば、『ことさら露(つゆ)置かせて御覧(ごらん)ずとて』と、宰相(さいしやう)の君の声にて答(いら)へつるが、をかしうもおぼえつるかな。『御里居(おんさとゐ)いと心憂し。かかる所に住ませ給はむほどは、いみじきことありとも、必ず候ふべきものに思し召されたるに、甲斐(かひ)なく』と、あまた言ひつる。語り聞かせ奉れ、となめりかし。参りて見給へ。あはれなりつる所のさまかな。対(たい)の前に植ゑられたりける牡丹(ぼうた)などの、をかしきこと」など宣ふ。「いさ、人のにくしと思ひたりしが、またにくくおぼえ侍りしかば」と答(いら)へ聞こゆ。「おいらかにも」とて笑ひ給ふ。

 げにいかならむ、思ひ参らする。御気色(みけしき)にはあらで、候(さぶら)ふ人たちなどの、「左の大殿方(おほとのがた)の人、知る筋にてあり」とて、さし集(つど)ひものなど言ふも、下(しも)より参る見ては、ふと言ひやみ、放ち出でたる気色なるが、見ならはず、にくければ、「参れ」など、たびたびある仰せ言(ごと)をも過ぐして、げに久しくなりにけるを、また、宮の辺(へん)には、ただあなた方に言ひなして、虚言(そらごと)なども出で来(く)べし。

【現代語訳】
 道隆公がお亡くなりになって後、世間に事件が起こり、物情騒然となって、中宮様も参内されず、小二条殿という所にいらっしゃるころ、私は、なんとなくおもしろくない気分だったので、長い間、里にさがっていた。しかし、中宮様のご身辺が気がかりなので、やはりそのまま出仕しないままではいられそうもなかった。

そんなころ、右中将がたずねていらして、お話をなさった。「今日、中宮様の御所に参りましたところ、たいそうお寂しいご様子でした。女房の装束は、裳も唐衣も時節に調和し、さすがにきちんとしてお仕えしております。御簾の隙間から中をのぞいたところ、八、九人ほど、朽ち葉の唐衣を着、薄紫色の裳に、紫苑や萩など、趣がある様子で並んで侍っていたことでした。お庭の草がたいそう茂っているので、『どうしてそのままにしておいでなのですか、刈り取らせなさればよろしいのに』と言うと、『わざわざ露を置かせて御覧になるとおっしゃって』と、宰相の君の声で答えたのが、趣深くも思われました。女房たちが、『あなたのお里さがりが、本当に情けない。こうした所にお住みになるような時には、どんなことがあっても、必ずおそばを離れないものと中宮様はお思いになっているのに、その甲斐もなく』と言っていました。私があなたに話してお聞かせするようにいうことのようですよ。とにかく、参上して、御様子を見てご覧なさい。しみじみとした御殿の様子ですよ。対の屋の前に植えられていた牡丹などの、すばらしいこと」などとおっしゃる。私は、「さあ、気が進みません。皆さんが私のことを憎らしいと思っていたことを、こちらも同じように憎らしく思われましたので」とお答え申しあげる。右中将は、「ぬけぬけとおっしゃることだ」と言ってお笑いになる。

 なるほど、御所はどのようであろうか、と思い申しあげる。中宮様は少しも思っていらっしゃらないことなのだが、おそばの女房たちなどが、私が左大臣(藤原道長)方の人と親しくしている、と言って、集まって話などをしている場合でも、私が局から参上するのを見ると、突然話をやめ、のけ者にしている様子が、今までにないことで、憎らしいので、中宮様からの、「参上しなさい」などとたびたびいただく御伝言もそのままにして、本当に参上しなくなって長くなってしまったが、それをまた、中宮様の周囲では、私のことを、左大臣方についてしまったように言いたてて、あらぬ噂なども出てくるにちがいない。

(二)
 例ならず、仰せ言などもなくて日ごろになれば、心細くてうち眺むるほどに、長女(をさめ)、文(ふみ)を持て来たり。「御前(おまへ)より、宰相の君して、忍びて賜はせたりつる」と言ひて、ここにてさへ、ひき忍ぶるも、あまりなり。人づての仰せ書きにはあらぬなめりと、胸つぶれて、疾(と)く開けたれば、紙には、ものも書かせ給はず。山吹(やまぶき)の花びら、ただ一重(ひとへ)を包ませ給へり。それに、「言はで思ふぞ」と書かせ給へる、いみじう、日ごろの絶え間(ま)嘆かれつる、みな慰めてうれしきに、長女(をさめ)もうちまもりて、「御前には、いかが、ものの折ごとに思(おぼ)し出で聞こえさせ給ふなるものを。誰(たれ)も、あやしき御長居(おんながゐ)とこそ、侍るめれ。などかは参らせ給はぬ」と言ひて、「ここなる所に、あからさまにまかりて参らむ」と言ひて去(い)ぬる後、御返言(おんかへりこと)書きて参らせむとするに、この歌の本(もと)、さらに忘れたり。「いとあやし。同じ古言(ふること)と言ひながら、知らぬ人やはある。ただここもとにおぼえながら、言ひ出でられぬは、いかにぞや」など言ふを聞きて、小さき童(わらは)の前に居たるが、「下ゆく水、とこそ申せ」と言ひたる、など、かく忘れつるならむ。これに教えらるるも、をかし。

 御返(おんかへ)り参らせて、少しほど経て参りたる、いかがと、例よりはつつましくて、御几帳(みきちやう)に、はた隠れて候ふを、「あれは、今参りか」など、笑はせ給ひて、「にくき歌なれど、この折は、さも言ひつべかりけりとなむ思ふを、おほかた見つけでは、しばしも、えこそ慰むまじけれ」など宣(のたま)はせて、変はりたる御気色(みけしき)もなし。

【現代語訳】
 いつもと違ってお便りもなくて何日かたったので、心細い思いでぼんやりとしているころ、使いの者がお手紙を持って来た。「中宮様から、宰相の君にお命じになって、そっと下されました」と言って、この私の家に来てまでも、人目を避ける様子であるのも、あんまりだ。代筆させたお手紙ではないようであると、胸がどきどきして急いで開けたところ、中の紙には何もお書きになっていない。山吹の花びらをただ一ひら、お包みになっている。その花びらに、「言はで思ふぞ(口では言わなくても、思っていますよ)」とお書きになっている。たいそう感動し、ここ何日かお便りのなかった悲しみもすっかり晴れたようでうれしく、使いの者も、私をじっと見つめて、「中宮様には、どんなにか、何かにつけてあなた様を思い出していらっしゃるそうで、女房方の誰もが、どうして長く里に下がったままでいらっしゃるのか、とお噂しているようです。どうして参上なさらないのですか」と言って、「この近所にちょっと寄ってから、すぐにまた参上しますから」と言って去った後、その間に、中宮様に御返事を書いて差しあげようとするけれど、「言はで思ふぞ」の歌の上の句を全く忘れてしまった。「本当におかしい。同じ古歌でも、こんな有名な歌を知らない人があろうか。もう口もとまで出かかっているのに出てこないのは、どういうわけであろうか」などとうのを聞いて、前に座っている童女が、「下ゆく水、と申します」と言ってくれたが、どうしてこんなにきれいに忘れてしまったのであろう。こんな子に教えられるのも、おかしい。

 お返事を差しあげて、しばらく日がたってから参上したが、中宮様のご様子はどうであろうといつもよりは気がひけて、御几帳に半分隠れるように侍っている私の姿をご覧になり、「あれは、新参の者か」などとお笑いになって、「あの歌は気に入らない歌だけれども、ああいう時にはぴったりした歌だと思いました。それにしても、いつもあなたの顔を見つけ出さないでは、心が慰められません」などとおっしゃって、前と変わったご様子もない。

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碁をやむごとなき人の打つとて~第百四十六段

 碁をやむごとなき人の打つとて、紐うち解き、ないがしろなるけしきにひろく置くに、劣りたる人の、居ずまひもかしこまりたるけしきにて、碁盤よりはすこし遠くて、及びて、袖の下は、いま片手して控へなどして打ちゐたるも、をかし。

【現代語訳】
 碁を、身分の高い人が打つときに、直衣の紐を解き、無造作な感じで碁石を盤上のあちこちに置くのに対して、身分の下の人は、かしこまった態度で、碁盤より少し離れ、及び腰で、袖の下をもう片方の手でおさえなどして打っているのも、おもしろい。

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胸つぶるるもの~第百五十段

 胸つぶるるもの。競馬(くらべむま)見る。元結(もとゆひ)(よ)る。親などの心地あしとて、例ならぬ気色(けしき)なる。まして、世の中など騒がしと聞こゆるころは、よろづのことおぼえず。また、物言はぬ児(ちご)の泣き入りて、乳も飲まず、乳母(めのと)の抱くにも止(や)まで、久しき。

 例の所ならぬ所にて、殊(こと)にまたいちじるからぬ人の声聞きつけたるは道理(ことわり)、異人(ことひと)などの、その上など言ふにも、まづこそつぶるれ。いみじう憎き人の来たるにも、またつぶる。あやしくつぶれがちなるものは、胸こそあれ。昨夜(よべ)来始めたる人の、今朝の文(ふみ)の遅きは、人のためにさへ、つぶる。

【現代語訳】
 はらはらどきどきするもの。競馬の見物。元結のこよりを縒る時。親などが具合が悪いといって普段と違うようすの時。まして、世間で疫病が流行って不穏になると、もう何も手につかなくなる。また、口の聞けない赤ん坊が泣いてばかりで乳も飲まず、乳母が抱いてもずっと泣き止まない時。

 思いがけない所で、特にまだ相手の心をはっきり確かめていない人の声を聞きつけた時は当然のこと、他の人が、その噂などをしても、たちまち胸がどきどきする。ひどく嫌な人が来た時もまたどきどきする。不思議にどきどきして縮みっぱなしなのが心臓というもの。昨夜通い始めた男の今朝の手紙が遅いのは、人ごとでもはらはらする。

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うつくしきもの~第百五十一段

 うつくしきもの。瓜(うり)に描(か)きたるちごの顔。雀の子の、ねず鳴きするに、躍り来る。二つ三つばかりなるちごの、急ぎて這(は)ひ来る道に、いと小さき塵(ちり)のありけるを目ざとに見つけて、いとをかしげなる指(および)にとらへて、大人などに見せたる、いとうつくし。頭(かしら)は尼そぎなるちごの、目に髪のおほえるを、かきはやらで、うち傾(かたぶ)きて、ものなど見たるも、うつくし。大きにはあらぬ殿上童(てんじやうわらは)の、装束(さうぞ)きたてられてありくも、うつくし。をかしげなるちごの、あからさまに抱(いだ)きて遊ばしうつくしむほどに、かいつきて寝たる、いとらうたし。

 雛(ひひな)の調度(でうど)。蓮(はちす)の浮葉(うきは)のいと小さきを、池より取り上げたる。葵(あふひ)のいと小さき。なにもなにも、小さきものは、皆うつくし。

 いみじう白く肥えたるちごの二つばかりなるが、二藍(ふたあゐ)の薄物(うすもの)など、衣長(きぬなが)にて襷(たすき)結ひたるが這ひ出でたるも、また、短きが袖がちなる着てありくも、皆なうつくし。八つ、九つ、十ばかりなどの男児(をのこご)の、声は幼げにて書(ふみ)読みたる、いとうつくし。

 鶏(にはとり)の雛(ひな)の、足高に白うをかしげに、衣(きぬ)(みじか)なるさまして、ひよひよとかしかましう鳴きて、人の後(しり)、前(さき)に立ちてありくも、をかし。また、親の、ともに連れて立ちて走るも、皆うつくし。かりのこ。瑠璃(るり)の壺。

【現代語訳】
 かわいらしいもの。瓜にかいた幼子の顔。雀の子が、人がねずみの鳴き声を真似してみせると、踊るようにしてやって来る。二、三歳くらいの幼子が、急いで這ってくる途中で、とても小さい塵のあるのを目ざとく見つけて、たいそうかわいらしい指につまんで、大人などに見せたのは、実にかわいらしい。頭をおかっぱにしている幼子が、目に髪がかぶさるのも払いもせずに、首を少しかしげて物など見ているのも、かわいらしい。大きくはない殿上童が、装束を着たてられて歩くのもかわいらしい。愛らしい幼子が、ちょっと抱いて遊ばせたりあやしたりしているうちに、しがみついて寝てしまうのは、とてもいじらしい。


 人形(遊び)の道具。蓮の浮葉のごく小さいのを、池から取り上げたもの。何もかも小さいものは皆かわいらしい。

 とても白く太った幼子で二歳ばかりのが、二藍の薄物(の着物)など、丈が長めで、袖をたすきでくくりあげて這い出てくるのも、また短い着物で袖だけが目立って大きく見えるのを着て歩き回るのも、皆かわいらしい。八歳、九歳、十歳くらいの男の子が、幼い声で漢籍を読んでいるのは、とてもかわいらしい。

 鶏の雛が、すね長で、白くかわいらしげで、着物が短いような感じで、ぴよぴよとやかましく鳴いて、人の後ろや前に立って歩き回るのもおもしろい。また親が、いっしょに連れ立って走るのも、皆かわいらしい。カルガモの卵もかわいらしい。瑠璃の壺もかわいらしい。
 
(注)殿上童・・・公卿の子弟で元服前に見習のために清涼殿に奉仕する少年。

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苦しげなるもの~第百五十七段

 苦しげなるもの。夜泣きといふわざするちごの乳母(めのと)。思ふ人二人持ちて、こなたかなたふすべらるる男。こはき物怪(もののけ)にあづかりたる験者(げんざ)。験(げん)だにいちはやからば、、よかるべきを、さしもあらず、さすがに人笑はれならじと念ずる、いと苦しげなり。わりなくもの疑ひする男に、いみじう思はれたる女。一の所などに時めく人も、え安くはあらねど、そは、よかめり。心いられしたる人。

【現代語訳】
 夜泣きをする赤ん坊の乳母。愛人を二人持ち、どちらからも嫉妬される男。頑固な物怪を受け持った験者。せめて法力が強ければよいが、そうでもなく、さすがに人の笑いものになるまいと懸命になっているのは、ひどく苦しそうだ。やたらと疑い深い男に、ぞっこん惚れられた女。摂政や関白などの邸に仕え羽振りのよい家来も、気楽ではないけれども、それはまあいいだろう。気持ちがいらいらしている人。

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宮に初めて参りたるころ~第百八十四段

(一)
 宮に初めて参りたるころ、ものの恥づかしきことの数知らず、涙も落ちぬべければ、夜々参りて、三尺の御几帳(みきちやう)の後ろにさぶらふに、絵など取りいでて見せさせ給ふを、手にてもえさしいづまじうわりなし。「これは、とあり、かかり。それが、かれが」などのたまはす。高坏(たかつき)に参らせたる大殿油(おほとなぶら)なれば、髪の筋なども、なかなか昼よりも顕証(けそう)に見えてまばゆけれど、念じて見などす。いと冷たきころなれば、さし出でさせたまへる御手のはつかに見ゆるが、いみじうにほひたる薄紅梅(うすこうばい)なるは、限りなくめでたしと、見知らぬ里人ごこちには、かかる人こそは世におはしましけれど、驚かるるまでぞ、まもり参らする。

 暁(あかつき)には疾(と)く下りなむと急がるる。「葛城(かつらぎ)の神も、しばし」など仰せらるるを、いかでかは筋かひ御覧ぜられむとて、なほ臥したれば、御格子(みかうし)も参らず。女官(にようくわん)ども参りて、「これ、放たせたまへ」など言ふを聞きて、女房の放つを、「まな」と仰せらるれば、笑ひて帰りぬ。

 物など問はせたまひ、のたまはするに、久しうなりぬれば、「下(お)りまほしうなりにたらむ。さらば、はや。夜さりは疾く」と仰せらる。ゐざり帰るや遅きと上げ散らしたるに、雪降りにけり。登花殿(とうくわでん)の御前は立蔀(たてじとみ)近くて狭(せば)し。雪いとをかし。

【現代語訳】
 中宮様の御所に初めてご奉公に参上したころは、何かにつけて恥ずかしいことが数知れずあり、涙が落ちてしまいそうなので、昼には参上せず、いつも夜に参上して、三尺の御几帳の後ろに控えていると、中宮様は絵などを取り出して見せてくださるが、私はろくに手を差し出すこともできないほどどうしようもない気持ちでいた。「この絵は、ああです、こうです、それが、あれが」などと中宮様はおっしゃる。高坏を逆さにした上におともしした御燈火が明るく、髪の毛の筋などもかえって昼よりはっきり見えて恥ずかしいけれど、じっとこらえて見などする。ひどく冷える時期なので、差し出された中宮様のお手が袖口からわずかに見えるのが、とても艶やかで薄紅梅色で、この上なくすばらしいと、そしてはなやかな宮中を知らない里人である私の心には、このようなすばらしいお方もこの世にはいらっしゃるのだと目が覚めるほどの気持ちがして、じっとお見つめ申し上げる。


 明け方になると早く退出しようと自然に気が急いてくる。中宮様は「葛城の神のように夜にしか姿を見せないそなたでも、もうしばらくはいいでしょう」などとおっしゃるが、何とかして斜めからでも顔を御覧に入れずすませたいと思い、そのまま伏せているため、まだ御格子もお上げしていない。女官たちが参上して、外から「御格子をお上げくださいませ」と言うのを聞き、女房が内から上げようとすると、中宮様が「いけません」とおっしゃり、女房は笑いながら帰っていった。

 中宮様は何かと私にお尋ねになり、お話なさったりするうちに、だいぶ時間がたったので、「もう退出したいでしょう。それでは早く下がりなさい。でも、夜は早くいらっしゃい」とおっしゃる。
中宮様の御前を座ったまま下がるとすぐに格子能の戸が上げられ、外には雪が降っていた。登花殿の前のお庭には立蔀が近くにあるので狭い。しかし、その雪景色はとても趣がある。
 
(注)高坏・・・食器を載せる台。それを逆さにして燈火の皿を置いた。
(注)登花殿・・・後宮の建物の一つで、当時は中宮定子がおられた。
(注)立蔀・・・格子の裏側に板を張って目隠しにしたもの。

(二)
 昼つ方(かた)、「今日(けふ)は、なほ参れ。雪に曇りて、あらはにもあるまじ」など、たびたび召せば、この局(つぼね)の主(あるじ)も、「見苦し。さのみやは籠(こも)りたらむとする。あへなきまで御前(おまへ)許されたるは、さおぼしめすやうこそあらめ。思ふに違(たが)ふは、憎きものぞ」と、ただ急がしに出だし立つれば、あれにもあらぬここちすれど、参るぞ、いと苦しき。火焼屋(ひたきや)の上に降り積みたるも、めづらしうをかし。

 御前近くは、例の炭櫃(すびつ)に火こちたくおこして、それには、わざと人も居ず。上臈(じやうらふ)、御まかなひにさぶらひたまひけるままに、近う居たまへり。沈(ぢん)の御火桶の梨絵(なしゑ)したるにおはします。次の間に、長炭櫃に隙(ひま)なく居たる人々、唐衣(からぎぬ)脱ぎたれたるほどなど、慣れ安らかなるを見るも、いとうらやまし。御文取次ぎ、立ち居、行き違ふさまなどの、つつましげならず、物言ひ、ゑ笑ふ。いつの世にかさやうに交らひならむと思ふさへぞ、つつましき。奥(あう)寄りて、三四人(みたりよたり)さしつどひて、絵など見るもあめり。

【現代語訳】
 昼ごろ、中宮様から「今日はやはり昼も参上しなさい。雪で曇っているから、そう丸見えでもないでしょう」などと、たびたびお召しになるので、ここの局の主の女房も、「見苦しいですよ。どうしてそのようにこもってばかりいようとするのですか。あれほど容易に中宮様が御前への伺候を許されたのは、そう思われるわけがおありなのでしょう。ご好意に添わないのはよくありませんよ」と言って、しきりに出仕させようとするので、自分を失ってしまう心地がするが、参上するのが辛い。火焼屋の屋根の上に雪が積もっているのも珍しくておもしろい。


 中宮様の御前近くには、いつものようにいろりに火をたくさんおこして、そこにはとくに誰も座っていない。上席の女房たちが中宮様のお世話をするため伺候なさっているので、お側近くに座っておられる。中宮様は沈のお火鉢で梨地の蒔絵(まきえ)が描かれているのに向かっていらっしゃる。次の間には長いいろりのそばにすき間なく並んで座っている女房たちが、唐衣をゆったりたらして着ているようすなどが、いかにも慣れた感じで気楽そうに見えて、とてもうらやましく思う。お手紙を取り次いだり、立ったり座ったり、行き交うさまが遠慮ないようすで、平気で物を言い、笑いあったりする。いつになったら、自分もあのように仲間入りができるのだろうかと、それを思うだけでも気が引ける。奥のほうに下がって、三、四人集まって絵などを見ている女房もいるようだ。

(三)
 しばしありて、前駆(さき)高う追ふ声すれば、「殿(との)参らせたまふなり」とて、散りたるもの取りやりなどするに、いかで下りなむと思へど、さらにえふとも身じろかねば、今少し奥に引き入りて、さすがにゆかしきなめり、御几帳(みきちやう)のほころびよりはつかに見入れたり。

 大納言殿の参りたまへるなりけり。御直衣(なほし)、指貫(さしぬき)の紫の色、雪に映えていみじうをかし。柱もとに居たまひて、「昨日(きのふ)今日(けふ)、物忌みにはべりつれど、雪のいたく降りはべりつれば、おぼつかなさになむ」と申したまふ。「道もなしと思ひつるに、いかで」とぞ御答(いら)へある。うち笑ひたまひて、「あはれともや御覧ずるとて」などのたまふ、御有様ども、これより何事かはまさらむ。物語にいみじう口に任せて言ひたるに違(たが)はざめりと覚ゆ。

 宮は、白き御衣(ぞ)どもに紅(くれなゐ)の唐綾(からあや)をぞ上に奉りたる。御髪(みぐし)のかからせたまへるなど、絵に描(か)きたるをこそ、かかることは見しに、うつつにはまだ知らぬを、夢のここちぞする。女房と物言ひ、戯(たはぶ)れ言などしたまふ。御答へを、いささか恥づかしとも思ひたらず、聞こえ返し、そら言などのたまふは、あらがひ論じなど聞こゆるは、目もあやに、あさましきまで、あいなう、面(おもて)ぞ赤むや。御くだ物参りなど、取りはやして、御前にも参らせたまふ。

【現代語訳】
 しばらくして、高らかに先払いをかける声がして、女房たちが「関白殿(藤原道隆)が参上されたようです」と言い、散らかっているものを片づけだしたので、私は何とかして退出しようと思ったが、まったく素早く動けず、もう少し奥に引っ込んだものの、やはり見たかったのだろう、御几帳の縫い目のすき間から、わずかに覗き見た。


 しかし、それは関白殿ではなく大納言殿(藤原伊周)が参上されたのだった。着ていらっしゃる御直衣や指貫の紫の色が、白い雪に映えてとても美しい。大納言殿は柱の側にお座りになって、「昨日から今日にかけては、物忌みで外出もできないでおりましたが、雪がひどく降り、こちらが気がかりで参上いたしました」と申された。中宮様は「古歌に『雪降り積みて道もなし』と詠まれているとおり、道もございませんでしたでしょうに、どうして来られましたか」とお答えになった。大納言殿は微笑まれて、「その古歌のとおり、こんなときに参ってきた私を、思いやりのあることだと思ってくださるかと存じまして」などとおっしゃる。こうしたお二人の御ようすは、これにまさるものはないほどだ。物語で、作者が口をきわめて褒めて言うのと違わないと思う。

 中宮様は、白いお召し物を重ねて着られ、その上に紅の唐綾をお召しになっている。それにお髪(ぐし)がたれかかっておられるさまは、絵でこそ見はしたものの現実には見たこともなかったので、夢のような心地がする。大納言殿は女房に話しかけ、冗談などを口にされる。女房たちは少しも気恥ずかしく思わず返事をお返しし、大納言が嘘などをおっしゃると、それに逆らって抗弁など申し上げるさまは、私には目にもまぶしく、あまりのことにやたらに赤面してしまうほどだ。大納言殿はお菓子を召し上がり、座を取り持つように、中宮様にも差し上げられる。

(四)
 「御帳(みちやう)の後ろなるはたれぞ」と問ひたまふなるべし。さかすにこそはあらめ、立ちておはするを、なほほかへにやと思ふに、いと近う居たまひて、物などのたまふ。まだ参らざりしより聞き置きたまひけることなど、「まことにや、さありし」などのたまふに、御几帳隔てて、よそに見やり奉りつるだに恥づかしかりつるに、いとあさましう、さし向かひ聞こえたるここち、うつつとも覚えず。行幸(ぎやうがう)など見るをり、車の方(かた)にいささかも見おこせたまへば、下簾(したすだれ)引きふたぎて、透き影もやと、扇をさし隠すに、なほいとわが心ながらもおほけなく、いかで立ち出でしにかと、汗あえていみじきには、何事をかは答(いら)へも聞こえむ。

 かしこき陰とささげたる扇をさへ取りたまへるに、振り掛くべき髪の覚えさへあやしからむと思ふに、すべてさるけしきもこそは見ゆらめ。疾く立ちたまはなむと思へど、扇を手まさぐりにして、絵のこと、「誰(た)が描(か)かせたるぞ」などのたまひて、とみにも賜はねば、そでを押し当ててうつぶしゐたり、裳(も)・唐衣に白いもの移りて、まだらならむかし。

 久しく居たまへるを、心なう、苦しと思ひたらむと心得させたまへるにや、「これ見たまへ。これは誰(た)が手ぞ」と聞こえさせたまふを、「賜はりて見はべらむ」と申したまふを、なほ、「ここへ」とのたまはす。「人をとらへて立てはべらぬなり」とのたまふも、いと今めかしく、身のほどに合はず、かたはらいたし。人の草仮名(さうがな)書きたる草子(さうし)など、取り出でて御覧ず。「誰(たれ)がにかあらむ。かれに見せさせたまへ。それぞ、世にある人の手は皆知りてはべらむ」など、ただ答(いら)へさせむと、あやしきことどもをのたまふ。

【現代語訳】
 「御几帳の後ろにいるのは誰か」と大納言殿がお尋ねになっているに違いない。そして興味を示されたのだろう、立ち上がってこちらに来られるのを、それでもやはり他へ行かれるのだと思っていると、何と私のすぐそば近くにお座りになり、お話などなさる。私がまだ宮仕えに参上していなかったころから聞き及んでいらっしゃったことなどを、「ほんとうに、そうだったのか」などとおっしゃるので、私は御几帳を隔ててよそ目に拝見していたのでさえ恥ずかしかったのに、こうして驚くほど間近にお向かいしている心地は、現実と思われない。行幸などを見物する折は、私の車に少しでも目を向けられると、あわてて下簾を引き下ろしてふさぎ、それでもこちらの人影が透けて見えやしないかと扇で顔を隠すほどなのに、いくら自分から思い立った宮仕えとはいうものの、身分不相応で厚かましく、どうして来てしまったのかと冷や汗が流れて苦しい、そんな自分がいったい何をお答えできようか。


 大切な頼みの陰だった扇までも大納言が取り上げられ、額にたらしかけるはずの髪の感じまでもがさぞお見苦しいことと思い、そのように恥じているようすまでも見られているだろう。早くお立ち去りになってほしいと思うのに、大納言殿は、私の扇を手でもてあそびながら、その扇の絵について、「誰が描かれたのか」などとおっしゃり、すぐにも返してくださらないので、私は袖を顔に当ててうつむいていた、そのため、裳や唐衣におしろいがついて、さぞ顔もまだらになっただろう。

 大納言殿が長く私のそばに座っていらっしゃるのを、大納言殿の思いやりのなさに私が困っているだろうと中宮様がお察しくださったのだろうか、「これを御覧ください。どなたの筆跡でしょうか」と大納言殿に申されたのを、大納言殿は「こちらにいただいて拝見しましょう」と申されたので、中宮様はさらに「こちらへ」とおっしゃる。すると大納言殿は、「この人が私をつかまえて立たせないのです」とおっしゃるのも、ひどく現代的で、私の身の程からは突拍子もないことできまりが悪い。中宮様は、誰かが草がなで書いた冊子などを取り出して御覧になる。すると大納言殿は、「誰の筆跡でしょうか。彼女にお見せなさいませ。彼女なら世にある人の筆跡はすべて見知っておりましょう」などと、とにかく私に返答させようと、とんでもないことをおっしゃる。

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牛車~第二百二十三段

 五月ばかりなどに、山里にありく、いとをかし。草葉も水もいと青く見えわたりたるに、上はつれなくて、草生ひ茂りたるを、長々と縦(たた)ざまに行けば、下はえならざりける水の、深くはあらねど、人などの歩むにはしりあがりたる、いとをかし。

 左右(ひだりみぎ)にある垣にある、ものの枝などの、車の屋形(やかた)などにさし入るを、急ぎてとらへて折らむとするほどに、ふと過ぎてはづれたるこそ、いとくちをしけれ。

 蓬(よもぎ)の、車に押しひしがれたりけるが、輪の廻りたるに、近ううちかかりたるも、をかし。

【現代語訳】
 五月のころに、山里に出かけるのはとても楽しい。草葉も田の水もたいそう青々として一面に見渡されるが、表面はさりげなく生い茂っているそこを、牛車でぞろぞろとまっすぐに行くと、草の下には何ともいえずきれいな水が深くはないがたまっていて、従者などが歩くとしぶきが飛び散るのが愉快だ。


 道の左右の生垣に植えられた何かの木の枝などが、車の屋形などに入るのを、急いで折り取ろうとしたら、さっと通り過ぎて手元から外れてしまったのが、実に残念だった。

 よもぎの、車輪に敷かれて押しつぶされたのが、車輪が回るのにつれて、近くに匂ったのも楽しかった。

(注)現代語訳は、現代文としての不自然さをなくすため、必ずしも直訳ではない箇所があります。

古典に親しむ

万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。

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中宮定子について

中宮(天皇の后の最高位、皇后)定子(ていし/さだこ)は、中関白と称せられた藤原道隆(ふじわらのみちたか)を父とし、漢詩人として名高い貴子を母として誕生。正暦元年(990年)に一条天皇の後宮に入内し、中宮となった。(この時、天皇11歳、定子15歳)
 
清少納言が始めて出仕したとされる正暦4年のころは、中関白家が栄華を極めていた時期で、定子の宮廷生活も華やかに賑わい立つ日々だった。定子は生来のすぐれた資質に加え、父の明るい性格や母の学才を受けついで、周囲の人間をひきつけずにはおかない人柄だった。その並びない才色で、一条天皇の寵愛を一身に受けた。
 
しかし、長徳元年(995年)に道隆が死去、次いで定子の叔父の道兼が急死すると、その栄華は一転した。政権を掌握した道長の圧迫を受けて、兄の伊周(これちか)や弟の隆家(たかいえ)は失脚させられた。伊周が大宰権師として京を下るに際し、定子はみずから髪を下ろして尼となった。さらにその年に母も亡くなり、身辺は失意と悲しみに包まれた。それでも天皇のご寵愛は続き、内親王と親王を出産した。
 
長保2年に皇后となったが、2人目の内親王を出産した翌日、後産のため24歳の若さで死去した。その後、道隆の中関白家は没落の一途をたどり、定子の生んだ 敦康(あつやす)親王は、后腹の第一皇子でありながら即位できなかった。

後宮について

後宮
皇后や妃などや、その子、またそれらに仕える女官たちが住まう宮中奥向きの宮殿。一般的に、後宮は男子禁制というイメージがあるが、日本の内裏では必ずしもそうではなかった。後宮の女性の人数は全部で数百人、多い時には千人を越えた。

皇后
天皇の正妻。「きさき」または「きさきのみや」とも呼ぶ。もとは皇族から立たれたが、光明皇后から人臣から出るようになった。
 
中宮
皇后と同資格をもつ后。皇后が二人立てられたときの名残の異称で、2番目以降の者をさす場合が多かった。「中宮」の本来の意味は「皇后の住居」。転じて、そこに住む皇后その人を指して中宮と呼ぶようになった。
 
女御
「皇后」「中宮」の次位で、「更衣」の上位。 摂政・関白・大臣の娘から出るのがふつうだった。 桓武天皇のときに始まり、初めは地位が低かったが、次第に高くなり、醍醐天皇の女御の藤原穏子(ふじわらのおんし)以後は、女御から皇后にあがるようになった。
 
更衣
もとは天皇の着替えの役目をもつ女官の職名だったが、後に天皇の妻の呼称となる。大納言およびそれ以下の家柄の出身の女で、女御に次ぐ地位。ふつう四、五位だったが、後に女御に進む者も出た。
 
御息所
女御・更衣を漠然とした言い方。また皇太子妃を指す場合もある。

女官・女房
尚侍(ないしのかみ)・・・後宮の役所である内侍司の長官。摂関家の娘などがなる。
典侍(ないしのすけ)・・・内侍司の次官。
掌侍(ないしのじょう)・・・内侍司の三等官。
その他・・・宮廷に仕える女官のほか、貴人に仕える女房がいた。

『枕草子』の各段②

  1. いみじう心づきなきもの
  2. わびしげに見ゆるもの
  3. 暑げなるもの
  4. はづかしきもの
  5. 無徳なるもの
  6. 修法は
  7. はしたなきもの
  8. 八幡の行幸のかへらせ給ふに
  9. 関白殿、黒戸より出でさせ給ふ
  10. 九月ばかり、夜一夜
  11. 七日の日の若菜を
  12. 二月、官の司に
  13. 頭の弁の御もとより
  14. などて、官得はじめたる
  15. 故殿の御ために
  16. 頭の弁の、職にまゐり給ひて
  17. 五月ばかり、月もなういとくらきに
  18. 円融院の御はての年
  19. つれづれなるもの
  20. つれづれなぐさむもの
  21. とり所なきもの
  22. なほめでたきこと
  23. 殿などのおはしまさで後
  24. 正月十よ日のほど
  25. きよげなる男の
  26. 碁を、やむごとなき人のうつとて
  27. おそろしげなるもの
  28. きよしと見ゆるもの
  29. いやしげなるもの
  30. 胸つぶるるもの
  31. うつくしきもの
  32. 人ばへするもの
  33. 名おそろしきもの
  34. 見るにことなることなきものの
  35. むつかしげなるもの
  36. えせものの所得るをり
  37. くるしげなるもの
  38. うらやましげなるもの
  39. とくゆかしきもの
  40. 心もとなきもの
  41. 故殿の御服のころ
  42. 弘徽殿とは
  43. むかしおぼえて不用なるもの
  44. たのもしげなきもの
  45. 読経は
  46. 近うて遠きもの
  47. 遠くて近きもの
  48. 井は
  49. 野は
  50. 上達部は
  51. 君達は
  52. 受領は
  53. 権の守は
  54. 大夫は
  55. 法師は
  56. 女は
  57. 六位の蔵人などは
  58. 女のひとりすむ所は
  59. 宮仕人の里なども
  60. ある所になにの君とかや
  61. 雪のいと高うはあらで
  62. 村上の前帝の御時に
  63. 御形の宣旨の
  64. 宮にはじめてまゐりたるころ
  65. したり顔なるもの
  66. 位こそ猶めでたき物はあれ
  67. かしこきものは
  68. 病は
  69. 十八九ばかりの人の
  70. 八月ばかりに、白き単
  71. すきずきしくて
  72. いみじう暑き昼中に
  73. 南ならずは東の
  74. 大路近なる所にて聞けば
  75. ふと心おとりとかするものは
  76. 宮仕人のもとに
  77. 風は
  78. 八九月ばかりに雨にまじりて
  79. 九月つごおり、十月のころ
  80. 野分のまたの日こそ
  81. 心にくきもの
  82. 五月の長雨のころ
  83. ことにきらきらしからぬ男の
  84. 島は
  85. 浜は
  86. 浦は
  87. 森は
  88. 寺は
  89. 経は
  90. 仏は
  91. 書は
  92. 物語は
  93. 陀羅尼はあかつき
  94. あそびは秋
  95. あそびわざは
  96. 舞は
  97. 弾くものは
  98. 笛は
  99. 見ものは
  100. 賀茂の臨時の祭
  101. 行幸にならぶものは
  102. 祭のかへさ
  103. 五月ばかりなどに山里にありく
  104. いみじう暑きころ
  105. 五月四日の夕つかた
  106. 賀茂へまゐる道に
  107. 八月つごもり
  108. 九月廿日あまりのほど
  109. 清水などにまゐりて
  110. 五月の菖蒲の

※底本は、三巻本に属する柳原紀光自筆本による。

おもな登場人物

一条天皇(いちじょうてんのう)
第66代天皇。円融天皇の第一皇子。7歳で即位し、外祖父の藤原兼家が摂政を務め、その後も兼家の息子の道隆や道兼が相次いで摂政・関白を、道長が内覧を務めるなど、藤原氏が全盛へと向かう時期を過ごした。

右近内侍(うこんのないし)
伝不詳。一条天皇に仕えた女房で、藤原定子との関りも深かったらしく、定子のもとによく出入りしていたことが確認できる。

小兵衛(こひょうえ)
清少納言と同じく定子に仕えていた女房。清少納言は小兵衛のことを「年若き人」と書いており、定子に仕えて間もない10代半ばから後半くらいの新米女房だったのではないかと見られている。

宰相の君(さいしょうのきみ)
藤原重輔の娘。位の高い女房(上臈)だった人物。『枕草子』では、教養に優れ、字の美しい女性として描かれている。

橘則光(たちばなののりみつ)
清少納言の初婚の相手。陸奥守などを務めた。性格の不一致から離婚したが、その後も兄妹のような関係が続いた。

中納言の君
藤原定子の父・道隆の叔父の娘。位の高い女房(上臈)だった人物。小柄で太っていたという。

藤原原子(ふじわらのげんし)
定子の妹。『枕草子』では「淑景舎(しげいしゃ)」や「中の姫君」という呼称で登場する。一条天皇の東宮・居貞親王(のちの三条天皇)の妃となった。

藤原伊周(ふじわらのこれちか)
定子の兄。父の道隆が亡くなった後、叔父の道長との政争に敗れ、京から追放される。翌年には帰京したが、政治的に力を得ることはできなかった。

藤原隆家(ふじわらのたかいえ)
定子と伊周の弟。武勇に優れた人物として知られる。花山上皇を矢で射ろうとしたという事件により、兄・伊周とともに配流されたが、のちに帰京して中納言までのぼった。

藤原斉信(ふじわらのただのぶ)
漢詩や和歌に精通した人物で、政務にも優れた有能な人物だった。藤原道長の信頼厚く、一条天皇期の四納言に挙げられる。

藤原定子(ふじわらのていし)
藤原道隆と高階貴子の娘。兄に伊周、弟に隆家がいる。一条天皇に入内し、藤原道長の娘・彰子が中宮となったときに、自身は中宮から皇后になった。中関白家の不遇後も天皇の寵愛は続いたが、2人目の内親王を出産した翌日、後産のため24歳の若さで死去した。なお、『枕草子』には、定子の身辺について詳しく記しているものの、定子の不遇に関しては、ほとんど触れていない。

藤原道隆(ふじわらのみちたか)
藤原兼家と時姫の息子。同母の兄妹に道兼・道長・超子・詮子がいる。子に道頼・伊周・定子・隆家・原子など。一条天皇が即位し、父・兼家が権力を握ると、自らも昇進を重ね、父の死後、摂政に就き、のちに関白になった。娘の定子を一条天皇に、原子を三条天皇に入内させるなど、中関白家の栄華を築いた。病気になり、関白の位を伊周に譲ろうとしたが、果たせぬまま亡くなった。

藤原行成(ふじわらのゆきなり)
一条天皇や藤原道長からの信頼も厚く、四納言に挙げられる。能筆で知られ、「三蹟」の一人。清少納言とも親しかった。

御匣殿(みくしげどの)
藤原道隆の四女。実名は不詳。母を同じくする長姉の定子に御匣殿(裁縫する場所)別当として仕える。

隆円(りゅうえん)
伊周・定子・隆家の弟。「隆円」は出家後の名で、実名は不詳。『枕草子』には「僧都の君」の名で登場する。権大僧都までのぼった。

三大随筆の比較

枕草子
 
1002年に成立。作者は清少納言。「山は」「川は」などの類聚的な段、自然と人事についての随想的な段、宮仕え中に体験・見聞した日記・自伝的な段などの諸段からなる。自然や人生の美をとらえようとする精神にあふれ、「をかし」の文学と呼ばれる。体言止め・連体形止め・省略などを用いた簡潔な文章で、ほぼ300段からなっている。
 
方丈記
 1212年に成立。作者は鴨長明。前半は、作者の体験した安元の大火・治承の大風、同年の福原遷都・養和から寿永と続いた飢饉・元暦の大地震などの天災地変について記し、後半は自身の閲歴を述べ、続いて草庵での閑寂生活を綴っている。全編を通じて無常観と隠者としての厭世思想が主軸となっている。簡潔な和漢混交文。『枕草子』や『徒然草』のように分段形式はとらず、一貫して流れる筋を一気呵成に展開させている。
 
徒然草
 1330年に成立。作者は兼好法師(吉田兼好)。200数十段からなり、多種多様の随想・見聞を綴っている。有職故実の知識や深い学問教養に基づく趣味論や、無常観に根ざす人生論、また仏教的思想の叙述や過去の回想的記述もある。無常観を基盤に鋭い批判をこめた、さまざまな文体からなっている。

参考文献

新明解古典シリーズ 枕草子
~桑原博史/三省堂

新版 枕草子(上・下)
~石田穣二/角川ソフィア文庫

枕草子
~池田亀鑑/岩波文庫

ビギナーズ・クラシックス日本の古典 枕草子
~角川書店

ヘタな人生論より枕草子
~萩野文子/河出文庫

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