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小倉百人一首

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  1. かくとだに えやはいぶきの さしも草 さしも知らじな もゆる思ひを

    藤原実方朝臣

    歌意 >>> こんなにあなたが恋しいのに私の気持ちを言うことができない。まして伊吹山のさしも草のように、私の燃えている心をあなたは知らないのだろう。

    作者 >>>藤原実方(ふじわらのさねかた:?~998年) 平安中期の人。26番歌の作者、貞信公・忠平の曾孫で、花山天皇・一条天皇に仕えて従四位上・左近中将にまで出世した。しかし、995年正月に突然陸奥守に左遷された。この理由については、一条天皇の面前で藤原行成と和歌について口論になり、怒った実方が行成の冠を奪って投げ捨てるという事件が発生。実方は天皇の怒りを買い、「歌枕を見てまいれ」と左遷を命じられたとの逸話がある。

    説明 >>>『後拾遺集』巻11・恋の部に「女にはじめてつかはしける」として載る。思いを寄せる相手に初めて心の内を打ち明けた歌で、相手は一時恋愛関係にあった、かの才女、清少納言かもしれない。「いぶき」は「言ふ」と「伊吹」の掛詞。「伊吹山」は岐阜県と滋賀県の境にある山。「おもひ」は「思ひ」と「火」の掛詞。「かくとだに」は、このようにすら。「えやは」は、不可能の意。「いぶきのさしも草」は下の「さしも」に同音反復で掛かる序詞。「さしも草」は蓬(よもぎ)の異名で、葉の裏の毛から艾(もぐさ)が作られた。艾のようにじりじりと焦げるような恋をいっているか。「さしも」は、これほどまでとは。

  2. 明けぬれば 暮るるものとは知りながら なほ恨めしき 朝ぼらけかな

    藤原道信朝臣

    歌意 >>> 夜が明けると、やがて日が暮れてまた逢えるとは分かっていても、やはり恨めしく思ってしまう夜明けだ。

    作者 >>>藤原道信(ふじわらのみちのぶ:972~994年) 平安中期の人。藤原兼家の養子となり、従四位上・左近中将にまで昇進した。『大鏡』には「いみじき和歌の上手」とあり、和歌の才能も嘱望されていたが、22歳の若さで亡くなった。その死は多くの人に惜しまれたという。勅撰集に48首が入る。

    説明 >>> 『後拾遺集』恋の部に載る。「女のもとより雪ふれ侍りける日、かへりてつかはしける」とあり、相手の女のもとから帰った、雪の降る朝に詠んだ後朝の歌。冬の夜は長いのですぐにまた逢えると分かっていながら、別れの夜明けを恨む気持ちが歌われている。「朝ぼらけ」は、辺りがほのぼのと明るくなってくる夜明けのころ。この語は、秋や冬の歌に多く使われるという。

  3. 嘆きつつ ひとり寝(ぬ)る夜(よ)の明くる間(ま)は いかに久しきものとかは知る

    右大将道綱母

    歌意 >>> 嘆きながら一人寝る夜の明けるまでが、どんなに長く感じられることか、あなたはきっとご存知ないのでしょうね。

    作者 >>>右大将道綱母(うだいしょうみちつなのはは:937?~995年) 平安中期の人。藤原兼家の第二夫人となって道綱を生んだ。名は分からない。『蜻蛉日記』の作者。姪に『更級日記』の作者・菅原孝標女がいる。本朝三美人の一人で、歌才にも恵まれ、『大鏡』には「きはめたる歌の上手」とも書かれている。晩年は夫に顧みられず不遇だった。

    説明 >>>『拾遺集』恋の部に載る。作者は嫉妬深い女性だったらしい。道綱を産んで間もなく、夫の兼家が愛人を作った。この歌は、夜明け前になって兼家がやって来た時、なかなか門を開けず、朝遅くになってようやく門を開けたところ、「立ち疲れた」と言ったのに、しおれた菊を添えて詠んだものという。眠れぬままに過ごしたひとり寝の夜長に堪えられない気持ちを訴えている。「明くる間は」は、夜が明けるまでの間は。

  4. 忘れじの 行く末までは かたければ 今日をかぎりの命ともがな

    儀同三司母

    歌意 >>>いつまでも忘れないというあなたの言葉が、いつまでも変わらないとは思えません。ですから、いっそ今日を限りに死んでしまいたい。

    作者 >>>高階貴子(たかしなたかこ:?~996年) 平安中期の人。学者の高階成忠の娘。円融天皇の宮廷に仕え、高内侍(こうのないし)と呼ばれていたが、藤原道隆(ふじわらのみちたか)の妻となり、伊周と定子(一条天皇の中宮)らを生んだ。息子の伊周の通称から、儀同三司(ぎどうさんしの)母とよばれた。995年に、夫の死により出家した。

    説明 >>>『新古今集』巻13・恋の部に「中関白かよひそめ侍りけるころ」の歌として載る。道隆が夫として通い始めた結婚当初に詠まれた歌で、喜びの中にも不安を隠せない女性らしい感じが自然な姿で詠まれている。「忘れじ」は、夫の道隆の言葉。「かたければ」は、難しいので。「命ともがな」の「もがな」は、願望の終助詞。道隆は多くの女性と浮名を流したといい、赤染衛門(59番歌の作者)の姉妹もその一人だったらしい。

  5. 滝の音は 絶えて久しくなりぬれど 名こそ流れて なほ聞こえけれ

    大納言公任

    歌意 >>> 滝の水音が聞こえなくなって久しいけれども、その名声だけは今でもなお人々に知られている。

    作者 >>>藤原公任(ふじわらのきんとう:966~1041年) 平安中期の人で、関白・頼忠の嫡男。64番歌の作者・定頼の父。官位は正二位、権大納言にまで昇り、道長全盛の時代の四納言といわれた。また、漢詩文・和歌・管弦の三才を備えており、清少納言や紫式部もその才に畏怖したという。『和漢朗詠集』『三十六人撰』『新撰髄脳』などの著作がある。

    説明 >>> 『拾遺集』雑の部に「大覚寺に人々あまたまかりたりけるにふるき滝をよみ侍りける」として載る。京都嵯峨の大覚寺で、枯れてしまった古い滝を見て詠んだ歌。大覚寺には、9世紀はじめに嵯峨天皇が造った離宮があった。「名こそ流れて」は、名声は今日まで流れ伝わって、の意。なお、この歌は公任の作の中では駄作とされ、なぜ定家が入れたのか疑問が呈されている。また、初句を「滝の糸は」としている本もある。

  6. あらざらむ この世のほかの思ひ出に 今ひとたびのあふこともがな

    和泉式部

    歌意 >>> 私はまもなく病気のために死んでしまいます。あの世への想い出に、せめて今ひとたびあなたにお逢いしたい・・・。

    作者 >>>和泉式部(いずみしきぶ:978?~?年) 平安中期の人。最初の夫の橘道貞が和泉守となったので、和泉式部という。娘(小式部内侍:60番歌の作者)が生まれたが、後に為尊親王との恋に落ち離婚、為尊親王が亡くなると、その弟の敦道親王との恋に走るなど、スキャンダルにまみれた。『和泉式部日記』は、敦道親王ほか複数の男との恋について書いたもの。やがて道長から乞われ、一条天皇の中宮、彰子(しょうし)に仕え、道長の家臣だった藤原保昌と再婚した。勅撰集に242首が入集し、女流歌人として最多。

    説明 >>> 『後拾遺集』恋の部に載る。病気で死期が迫ったのを自覚し、恋人のもとに贈った歌とされる。相手が誰であるのかは不明。「この世のほか」は現世の外、すなわち死後の世界。「あらざらむ」の「あら」は「生きている」意の動詞「あり」の未然形。全体で「生きていないであろう」の意。「もがな」は、願望の終助詞。とくに技巧がこらされた歌ではないが、死期の近づいた緊迫感が伝わる。

  7. めぐりあひて 見しやそれともわかぬ間(ま)に 雲がくれにし 夜半(よは)の月かな

    紫式部

    歌意 >>>久しぶりにめぐり逢えたのに、見えたかどうかもわからないうちに雲に隠れてしまった夜半の月のように、あの人はあわただしく帰ってしまった・・・。

    作者 >>>紫式部(むらさきしきぶ:973?~1019?年) 平安中期の人で、父は文章生出身の藤原為時、大弐三位(58番歌の作者)の母。一条天皇の中宮・彰子(しょうし)に仕える。『源氏物語』『紫式部日記』の作者。勅撰集に60首近い歌が採られている。紫式部は、はじめ藤式部(ふじしきぶ)の女房名だったが、『源氏物語』に登場する紫の上の描写の見事さから、紫式部と呼ばれるようになったという。

    説明 >>>『新古今集』巻16・雑の部に「早くよりわらは友だちに侍りける人の、年ごろ経てゆきあひたる、ほのかにて、七月十日ごろ、月にきほひて帰り侍りければ」として載る。久しぶりに再会した幼友達が、ほんのわずかな時間で、夜半に沈む月と競うように帰ってしまったのを嘆いて詠んだ歌。「わかぬ間に」は、見えたかどうかも分からないうちに。「雲がくれにし」は月が雲に隠れてしまった意と共に、友の姿が見えなくなった意も含んでいる。「夜半」は夜中。「月かな」を「月影」とする本もある。

  8. 有馬山(ありまやま) 猪名(いな)の笹原(ささはら) 風吹けば いでそよ人を忘れやはする

    大弐三位

    歌意 >>> 有馬山の近くの猪名の笹原に風が吹いて、そよそよとそよいでいます。そうなんです、揺れて頼りにならないのはあなたの気持ちで、私は決してあなたのことを忘れるものですか。

    作者 >>>藤原賢子(ふじわらのかたこ:999~?年) 平安中期の人。紫式部(57番歌の作者)の娘。母とともに一条天皇の中宮彰子に仕え、後に後令泉天皇の乳母となる。しだいに重く用いられるようになり、従三位、典侍へと出世した。大宰大弐(大宰府の次官)の高階成章と結婚したことから「大弐三位」と呼ばれる。

    説明 >>>『後拾遺集』巻12・恋の部に「離れ離れなる男の、おぼつかなくなどいひたりけるによめる」として載る。作者のもとへしばらく通って来なくなった男が、言い訳めいて「あなたが心変わりしていないかと思って不安です」と言い寄こしたので、「よくもそんなことが言えますね」というような気持ちで返事した歌。宮廷女房の機知とプライドが窺えるが、やんわりと穏やか。「有馬山」は摂津国有馬郡(神戸市北区)にある山。「猪名」は有馬山の南東、猪名川沿いの地。猪名野とも呼ばれる。上3句が「そよ」を導く序詞。「いで」は勧誘・決意などの意の副詞。「そよ」は「それよ」と「そよそよ」の掛詞。「人」は相手の男。

  9. やすらはで 寝なましものを さ夜ふけて かたぶくまでの月を見しかな

    赤染衛門

    歌意 >>> あなたが来ないとわかっていれば、ためらわずに寝てしまったものを、今か今かとお待ちしているうちに夜がふけて、とうとう西に傾く月を見てしまいました。

    作者 >>>赤染衛門(あかぞめのえもん:958?~?年) 平安中期の人。大江匡衡(おおえのまさひら)の妻。一条天皇の中宮彰子に仕える。父の赤染時用(あかぞえときもち)が衛門尉(えもんのじょう:皇居警備の役所の3等官)だったことから「赤染衛門」と呼ばれる。紫式部や、清少納言、和泉式部らとも親しく交流していた。良妻賢母の誉れ高く、『紫式部日記』がその人柄を伝えている。『栄花物語』の作者ともいわれる。

    説明 >>> 『後拾遺集』巻12・恋の部に載る。作者の姉妹の一人の許に通っていた男が、行くと言いながら来なかった翌朝、姉妹から男宛ての歌の代作を頼まれて詠んだ歌。男とは、このとき少将だった藤原道隆。「やすらはで」は、ためらわず、ぐずぐずせず。「まし」は反実仮想の助動詞。反実仮想は、事実に反することを、もしそうであったらと仮に想像すること。「ものを」は逆説。ただし、馬内侍(うまのないし)の私家集に同一の歌があることから、この歌は赤染衛門の作ではないとする説もある。

  10. 大江山 いく野の道の遠ければ まだふみも見ず 天の橋立

    小式部内侍

    歌意 >>> 大江山を越えて生野を通って丹後まで行く道のりは、都からあまりに遠い。だから、まだ天の橋立の地を踏んだこともなく、母からの文(ふみ)も見ていません。

    作者 >>>小式部内侍(こしきぶのないし:1000?~1025年) 平安中期の人。橘道貞(たちばなのみちさだ)と和泉式部(56番歌の作者)の間の娘。一条天皇の中宮彰子に仕える。藤原道長の息子の教通の愛人になり子を産み、別れて滋井頭中将の愛人となって子を産んだ時に、まだ25、6歳の若さで亡くなった。母の和泉式部は、その早逝を悲しみ、多くの哀傷歌を残している。

    説明 >>>『金葉集』雑の部に載る。母の和泉式部が夫とともに丹後国(京都府北部)へ赴いていたころ、作者が歌合に召された。そこへ藤原定頼がやってきて、「歌はどうなさいますか。(お母さんに)代作してもらうために、丹後へ人をおやりになりましたか。文を持った使者は帰ってきませんか」などと言ってからかった。当時、作者の周囲では、作者の歌が優れているのは、実は母の和泉式部が代作しているからだという噂があった。そこで小式部は定頼を引きとめ、この歌を詠んで自分の歌才を示してみせた。「大江山」は、山城国と丹波国にまたがる山。「踏み」に「文」を掛け、「行く」に「生野(丹波国の地名)」を掛け、丹後への道中の名所の名を並べながら、母を慕う思いが込められた見事な咄嗟の歌に、定頼は返歌もできずに逃げたという。

  11. いにしへの 奈良の都の八重桜 けふ九重(ここのへ)に にほひぬるかな

    伊勢大輔

    歌意 >>> 昔の奈良の都で咲いていた八重桜が、今日はこの平安の都の宮中で、色美しく咲き誇っています。

    作者 >>>伊勢大輔(いせのたいふ:生没年未詳) 11世紀後半、平安中期の人。伊勢の祭主、大中臣輔親(おおなかとみのすけちか)の娘。1008年ころ、一条天皇の中宮彰子に仕える。和泉式部、赤染衛門、源経信などと交流を持ち、また多くの歌合に出詠、長く後宮歌壇の中心として活躍した。

    説明 >>>『詞花集』に載る。奈良から宮中に献上された八重桜を受け取る役目を仰せつかった作者が、藤原道長に命じられて即座に詠んだ歌。この時の伊勢大輔はまだ新参の女房だったが、歌人の多い家系に生まれていたことから、その才能が注目されていた。そうしたプレッシャーの中で詠んだこの歌を喜んだ中宮彰子は「九重ににほふを見れば桜狩重ねてきたる春かとぞ思ふ」との返歌を詠んだという。「けふ」は「今日」と「京」の掛詞。「九重」は宮中のこと。昔、中国で王城を九つの門で囲っていたという故事による。ここでは「九重(宮中)」と「この辺」の掛詞。このころの八重桜は、京都ではまだ珍しかったという。

  12. 夜をこめて 鳥のそらねは はかるとも よに逢坂(あふさか)の関はゆるさじ

    清少納言

    歌意 >>>まだ夜が明けないうちに、鶏の鳴き声をまねてだまそうとしても、この逢坂の関は決して許さないでしょう。私はお逢いしません。

    作者 >>>清少納言(せいしょうなごん:966?~1027?年) 平安中期の人。清原元輔(42番歌の作者)の娘、清原深養父(36番歌の作者)の孫。。一条天皇の中宮定子に仕え、その様子を『枕草子』に著す。

    説明 >>>『後拾遺集』巻16・雑の部に載る。大納言藤原行成が夜更けまで話し込んでいたが、宮中の物忌みがあるからと理由をつけて帰っていった。翌朝、「鳥の声にもよほされて」と言ってよこしたので、作者は函谷関(かんこくかん)の故事をふまえて、夜更けの鳥の声は、あの函谷関のそら鳴きのことですねと返事をした。すると行成が、「関は関でも、あなたに逢う逢坂の関」とたわむれを言ってきたので、この歌を詠んでやりこめたという。
     函谷関の故事とは、中国の戦国時代、斉(せい)の国の孟嘗君(もうしょうくん)が、秦(しん)に使いして捕えられたが、部下に鶏の鳴きまねをさせて、一番鳥が鳴かなければ開かない函谷関を夜中に開かせて脱出したというもの。
     「夜をこめて」は、夜がまだ明けないうちに。「こむ」は本来、つつみこむ、しまう、の意。「はかる」は、だます意。「逢坂」は地名と「逢ふ」の掛詞。

  13. 今はただ 思ひ絶えなむとばかりを 人づてならで 言ふよしもがな

    左京大夫道雅

    歌意 >>> 今はもう、あなたを思い切ってしまおう。それを人づてではなく、直接お逢いして話すことができればいいのに。

    作者 >>>藤原道雅(ふじわらのみちまさ:993~1054年) 平安中期の人。関白道隆の孫、伊周(これちか)の子。一条天皇の皇后定子は叔母にあたる。父の伊周が道長との政争に敗れ失脚したため、栄進はできなかった。三条上皇の皇女で前斎宮・当子(とうし)内親王と密通し上皇の勘当を受けた。その後の道雅は、道長への反発もあってか奇矯粗暴な言動が多く、荒三位(あらさんみ)とも呼ばれた。

    説明 >>>『後拾遺集』巻13・恋の部に載る。伊勢から帰った当子内親王のもとに、作者がひそかに通っていたことを上皇が聞き知って立腹、監視の女房をつけたため、逢うことができなくなった折の歌。その後、内親王は尼となり、若くして死去した。当子が以前、清らかさを求められる斎宮(伊勢神宮に仕える未婚の皇女で、男性関係が厳しく禁じられた)だったことがよけいに事態を悪化させたらしく、歌は、逢って別れさえ言うことのできない恋の終わりを痛切に詠っている。「とばかりを」は、~ということだけを。「人づてならで」は人を介さず。「もがな」は願望の終助詞。

  14. 朝ぼらけ 宇治の川霧たえだえに あらはれわたる 瀬々(せぜ)の網代木(あじろぎ)

    権中納言定頼

    歌意 >>>夜明けごろに立ちこめていた宇治川の川霧が、とぎれとぎれに晴れてきて、川瀬川瀬に網代木が点々とあらわれてきたことよ。

    作者 >>>藤原定頼(ふじわらのさだより:995~1045年) 平安中期の人で、公任(55番歌の作者)の子。和歌のほか管絃、読経にも秀で、能書家としての名声も高い。関白・頼通に信任され順調に昇進、正二位権中納言に至り兵部卿を兼ねた。勅撰集に46首入集。なお、60番の小式部内侍の歌は、定頼からからかわれた同女が詠んで、逆にやり込めたもの。

    説明 >>>『千載集』巻6・冬の部に「宇治にまかりて侍りける時よめる」として載る。百人一首には数少ない叙景歌。「朝ぼらけ」は夜明け方。「宇治川」は琵琶湖を水源に京都の南を流れる川。「たえだえに」はとぎれとぎれにの意で「川霧がたえだえに」と「たえだえに現れる」の掛詞。「網代」は、冬に鮎の稚魚をとるために杭を打ち並べ、簀(す)を設けたもの。宇治川の冬の風物詩として知られ、『更級日記』や『蜻蛉日記』にも出てくる。山と川を配した宇治の景観は、平安時代の貴族たちに深く愛された。

  15. 恨みわび ほさぬ袖(そで)だにあるものを 恋にくちなむ 名こそ惜しけれ

    相 模

    歌意 >>>あの人の冷たさを恨む気力もなくなって、涙の乾くひまのない袖さえ朽ちないのに、世間に浮き名を流して朽ちてしまう私の名が口惜しいことだ。

    作者 >>>相模(さがみ:生没年未詳) 11世紀半ば、平安中期の人。源頼光の娘、あるいは養女といわれる。後朱雀天皇の皇女・祐子内親王に仕え、相模守の大江公資(さがみのかみおおえのきんすけ)と結婚したことから「相模」と呼ばれる。公資と離婚後、藤原定頼や源資道と交際したが、うまくいかなかった。勅撰集に110首が入集。

    説明 >>>『後拾遺集』巻14・恋の部に「永承六年、内裏根合に」として載る。報われぬ恋と、よからぬ噂が立ったことへの恨みを詠った歌。「恨みわび」は恨む気力も失って。「わぶ」は動詞の連用形について、その行為をし続ける気力を失う意を表す。「ほさぬ袖」は、いつも泣いて涙を拭いているので乾く暇もない袖の意。「名」は評判。ただし、この歌を歌合で詠んだときの相模はすでに50歳を超えており、若かりしころの恋愛遍歴を懐かしんで歌ったものか。なお、この歌が披露された「根合」は「物合わせ」の一つで、5月5日の端午の節句に、持ち寄った菖蒲(しょうぶ)の根や、それに添えた和歌の優劣を競う催しのこと。

  16. もろともに あはれと思へ山桜 花よりほかに 知る人もなし

    前大僧正行尊

    歌意 >>> 私がおまえを懐かしむように、おまえも私を懐かしんでおくれ、山桜よ。おまえの他にお互いを分かり合える者はいないのだから。

    作者 >>>行尊(ぎょうそん:1055~1135年) 平安末期の僧。参議・源基平(みなもとのもとひら)の子で、三条天皇(68番歌の作者)の曾孫。10歳で父が死去、12歳で近江の園城寺に入り、17歳で寺を出て諸国を修行してまわる。祈祷に優れ天皇の病を祈り験(しるし)があったという。後に天台座主大僧正となった。

    説明 >>>『金葉集』巻9・雑の部に「大峰におもひかけず桜の花の咲きたりけるをみてよめる」として載る。 大和国(奈良県)吉野郡十津川の東、修験道の聖地である大峰山で修行していた作者が、思いがけず桜の花を見て詠んだ歌。桜と一対一の対話であり、ひっそりと咲く山桜に孤独に堪えて修行するわが身を重ね合わせ、共感に浸っている。「もろともに」は、一緒にの意の副詞。「知る人」は、ここでは単なる知人というより、お互いを分かり合える人、共感し合える人。

  17. 春の夜の 夢ばかりなる手枕(たまくら)に かひなく立たむ名こそ惜しけれ

    周防内侍

    歌意 >>> 短い春の夜の夢ほどのはかない契り。あなたがしてくれた手枕のために、つまらない浮名が立ってしまう、それが口惜しいのです。

    作者 >>>周防内侍(すおうのないし:生没年未詳) 11世紀後半、平安後期の人で、本名は仲子。周防守の平棟仲(たいらのむねなか)の娘かという。後冷泉・後三条・白河・堀河天皇の4朝に仕え、多くの歌合に出詠、勅撰集に35首入集している。

    説明 >>>『千載集』巻16・雑の部に載る。詞書によれば、二条院で人々が夜通し物語などしていた時、周防内侍が物に寄りかかって、「枕が欲しいものです」とつぶやいたところ、それを聞いた大納言・藤原忠家が、「これを枕にどうぞ」と言って、自分の腕を御簾の下から差し入れてきたので、この歌を詠んだ。「手枕」は腕を枕にすることで、男女が一夜を過ごす象徴。「かひなく」は「甲斐なく」と「腕(かひな)」の掛詞。「名」は評判や浮き名のこと。忠家の座興めいた行為を即座に軽妙にいなしており、忠家はこの歌に対し「契りありて春の夜深き手枕をいかがかひなき夢になすべき」と詠んで返している。当時の優艶で情緒ある宮廷生活がしのばれる。

  18. 心にもあらで うき世にながらへば 恋しかるべき 夜半(よは)の月かな

    三条院

    歌意 >>>自分の心を押し殺して、この辛い世の中を長らえたならば、きっと恋しく思えるだろう、夜中の月よ。

    作者 >>>居貞親王(いやさだしんのう:976~1017年) 平安中期の人で、令泉天皇の第2皇子。1011年に36歳で即位して三条天皇となったが、政権を掌握していた藤原道長の専横に絶えず悩まされた。道長は娘の中宮彰子が産んだ皇子(後の後一条天皇)の皇位継承を画策、眼病を患っていた三条天皇は退位に追い込まれ在位5年で譲位。翌年に崩御。

    説明 >>> 『後拾遺集』巻15・雑の部に「例ならずおはしまして、位など去らむとおぼしめしけるころ、月のあかかりけるを御覧じて」として載る。「例ならず」は病気で、という意で、眼病を患い、譲位の直前に詠んだ歌。「心にもあらで」は、心ならずも、本意ではなく、といった意。「うき世」は現世。「夜半」は夜中、夜更け。『栄花物語』によれば、12月10余日の月の明るい夜、上の御局で中宮研子(けんし)と語り合いながら、この歌を詠んだという。志半ばで帝位を追われた無念の思いと将来への悲嘆がにじみ出ている。

  19. 嵐吹く 三室(みむろ)の山のもみぢ葉は 竜田(たつた)の川の 錦なりけり

    能因法師

    歌意 >>>嵐が吹き散らす三室山のもみじの葉は、竜田川の川面一面に広がって、まるで錦織のようだ。

    作者 >>>能因法師(のういんほうし:988~?年) 平安中期の人。俗名、橘永愷(たちばなのながやす)。文章生として漢学を学んだ後、16歳の若さで仏門に入った。歌人の藤原長能(ながとう)に師事して和歌を習い、後に東北地方を旅した。歌枕に強い関心があったとされ、著書に歌学書の『能因歌枕』がある。『後拾遺集』に31首入集。

    説明 >>>『後拾遺集』巻5・秋の部に「永承四年、内裏歌合によめる」として載る、題詠の歌。『古今集』の「竜田川もみぢ葉流る神なびの三室の山にしぐれ降るらし」(巻第5-284)を念頭に置いた歌とされるが、三室山と竜田川は離れており、三室山のもみじが竜田川に散るはずはないとの地理的矛盾が指摘されている。「三室の山」は、大和国(奈良県)生駒郡斑鳩町にある神南備(かんなび)山。「みむろ(みもろ)」は元々神が降臨して宿る所の意で、同名の山は他にもある。「錦」は数種の色糸で模様を織り出した厚地の織物。

  20. さびしさに 宿を立ちいでてながむれば いづこもおなじ 秋の夕暮れ

    良暹法師

    歌意 >>> あまりの寂しさに、わが家を出てあたりを眺めると、やはりどこも同じように寂しい秋の夕暮れだった。

    作者 >>>良暹法師(りょうせんほうし:生没年未詳) 11世紀前半、平安中期の人。比叡山延暦寺の僧であり、晩年は洛北大原の雲林院に隠棲したといわれる。歌合せへの出詠は多く、歌人たちとも多く交流した。経歴などに不明な点が多いものの、歌語をめぐって論争したことや、良暹の詠んだ上句に誰も下句を付け得なかったことなどのエピソードが伝えられている。

    説明 >>>『後拾遺集』秋の部に載る。大原に隠遁して住み始めたころの歌とされ、人気(ひとけ)のない秋の山里にせまる夕暮れの寂寥感を詠っている。「宿」は作者が住んでいる草庵。「いづこ」を「いづく」とする本もある。「秋の夕暮れ」という結句は余情をもたせる手法で、『後拾遺集』から見え始め、『新古今集』の時代に流行ったとされる。

  21. 夕されば 門田(かどた)の稲葉おとづれて 芦(あし)のまろ屋に 秋風ぞ吹く

    大納言経信

    歌意 >>>夕方になって、家の前にある田の稲葉に秋風がさわさわと音をさせ、そのまま芦で葺いた粗末な家にも吹いてくるよ。

    作者 >>>源経信(みなもとのつねのぶ:1016~1097年) 平安後期の人。74番歌の源俊頼(74番歌の作者)の父。6朝に仕え、正二位大納言にまで昇進したので「大納言経信」と呼ばれる。有職故実に通じ、『十訓抄』や『古今著聞集』では、三船の才(詩・歌・管弦)が賛美されている。勅撰集に85首入集。

    説明 >>> 『金葉集』秋の部に「師賢(もろかた)の朝臣の梅津の山里に人々まかりて田家秋風といへる事をよめる」として載る。作者の縁戚である源師賢(みなもとのもろかた)の梅津(京都の桂川左岸一帯)の山荘で詠んだ歌。この時代、洛外の自然が貴族たちに好まれ、いわゆる田園趣味が流行り、この歌も田園の秋の風景を詠んでいる。「夕されば」は、夕方になると。「門田の稲葉」は、家の門前の田の稲の葉。「おとづれて」は、音を立ててきて。「芦のまろや」は、屋根が芦葺きの粗末な仮小屋の意だが、ここでは源師賢の別荘を指している。「秋風ぞ吹く」の「ぞ」は、強意の係助詞。なお、選者の定家は『近代秀歌』の中で、近代和歌の先駆が経信であると記し、この歌を近代秀歌の筆頭にあげている。

  22. 音にきく 高師(たかし)の浜のあだ波は かけじや袖(そで)の ぬれもこそすれ

    祐子内親王家紀伊

    歌意 >>> うわさに聞く高師の浜のあだ波は袖にはかけますまい、袖が濡れてしまうから。それと同じに、浮気で名高いあなたのことも心にかけますまい、後で袖が涙で濡れるから。

    作者 >>>祐子内親王家紀伊(ゆうしないしんのうけのきい:生没年未詳) 11世紀後半、平安後期の人。平経方の娘で、藤原重経の妻(妹という説も)。後朱雀天皇の第一皇女・裕子内親王に仕える。重経が紀伊守だったので、この名で呼ばれる。なお、『更級日記』の作者・菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)が仕えたのも祐子内親王である。

    説明 >>>『金葉集』恋の部に載る、堀河院の御代に行われた「艶書合せ」で詠まれた歌。「艶書」は恋歌のこと。「音にきく」は、噂に聞く。「たかし」は「高師」と「高し」の掛詞。「高師の浜」は和泉国、現在の大阪府堺市浜寺~高石市の一帯。「あだ波」は、いたずらに立つ波。「かけ」は「波をかけ」と「思いをかけ」の掛詞。「ぬれもこそすれ」は、濡れると大変だから。この歌は、藤原俊忠の歌「人知れぬ思ひありその浦風に波の寄るこそいはまほしけれ」(私は人知れずあなたのことを思っている。浦風に波が寄るように、あなたに一夜お目にかかって、思いを打ち明けたい)への返歌であり、プレイボーイの誘いをみごとに切り返している。

  23. 高砂の 尾の上の桜咲きにけり 外山(とやま)のかすみ 立たずもあらなむ

    前中納言匡房

    歌意 >>> 遠くの高い山に桜が咲いている。その桜を眺めていたいから、近くの山の春霞よ、どうか立ち込めないでおくれ。

    作者 >>>大江匡房(おおえのまさふさ:1041~1111年) 平安後期の人。儒学者の家に生まれ、夫婦とも学者。後冷泉・後三条・白河・堀河の4代の天皇に仕えた。有職故実に通じ、儀式書である『江家次第』、同時代の風俗を記した『傀儡子記』『遊女記』『洛陽田楽記』、あるいは『続本朝往生伝』のような伝記など数多くの著作を残した。また、家名再興に尽力し、正二位権中納言にまで昇った。

    説明 >>>『後拾遺集』春の部に「内のおほいまうち君の家にて、人々酒たうべて歌よみ侍るに、はるかに山の桜を望むといふ心をよめる」として載る。「内のおほいまうち君」は、内大臣・藤原師通のこと。「高砂」は、砂が高く積もったところから、山の意。播磨国(兵庫県)の歌枕である「高砂」とする説もある。「尾の上の桜」は、山の頂の桜。「外山」は「深山」に対する語で、里に近い低い山の意。ここでは、「高砂の尾の上」よりも手前にある里近くの山。「なむ」は他者への願望の終助詞。

  24. 憂かりける 人を初瀬の山おろしよ はげしかれとは 折らぬものを

    源俊頼朝臣

    歌意 >>>つれないあの人が私を顧みるよう初瀬の観音様にお祈りをしたのに。初瀬の山おろしよ、あの人がいっそうつれなくなるなんてお祈りしていませんよ。

    作者 >>>源俊頼(みなもとのとしより:1055~1129年) 平安後期の人。71番歌の作者、大納言経信の三男で、85番歌の作者、俊恵法師の父。勅撰集『金葉集』の撰者で、歌合せの判者としても活躍した。官途には恵まれず、従四位上・木工頭を極官とする。歌論『俊頼髄脳』がある。

    説明 >>>『千載集』巻12・恋の部に「権中納言俊忠の家に恋十首の歌よみ侍りける時、祈れども逢はざる恋といへる心を詠める」として載る。「憂かりける」は形容詞「憂し」の連用形に過去の助動詞「けり」の連体形が付いたもので、つれない、思い通りにならなず、つらい。「初瀬」は、大和国(奈良県)の地名。長谷寺があり、現世利益の観音信仰の霊場だった。「はげしかれ」は、形容詞「はげし」の命令形。

  25. ちぎりおきし させもが露を命にて あはれ今年の 秋もいぬめり

    藤原基俊

    歌意 >>> あなたが約束してくださった、さしも草に置く恵みの露のようなお言葉を、命のように大切にしてきましたのに、ああ、今年の秋も願いかなわずむなしく過ぎ去っていくのですね。

    作者 >>>藤原基俊(ふじわらのもととし:1060~1142年) 平安末期の人。右大臣・俊家の息子だが、驕慢な性格のため人望が乏しく、官位は従五位下と栄達できなかった。歌人としては74番歌の作者・俊頼と並んで歌壇の指導的立場にいた。詩歌集『新撰朗詠集』の撰者。

    説明 >>>『千載集』巻16・雑の部に載る。作者は、興福寺にいた息子が栄えある維摩会(ゆいまえ)の講師(仏典の講師)になれるよう、その任命者である藤原忠通(76番歌の作者)に願い出ていた。忠通は、清水観音の歌とされる「なほ頼めしめぢが原のさせも草わが世の中にあらむ限りは」(私を頼みにし続けよ。たとえあなたがしめじが原のさせも草のように胸を焦がして思い悩むことがあっても)の歌を引いて請け負った。その言葉を当てにして待っていたが、その年の秋も選にもれてしまった。それを恨んでこの歌を詠んだ。「させも」は、蓬(よもぎ)のこと。「命にて」は、命のように大切にして。「あはれ」は、ここでは感動詞。「いぬ」は「往ぬ」。

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藤原定家

藤原定家(ふじわらのさだいえ:1162~1241年)は、鎌倉時代初期の公家・歌人。諱は「ていか」と有識読みされることが多い。藤原北家御子左流で藤原俊成(ふじわらのとしなり)の二男。当初は前衛的な歌風が受け入れられなかったが、後鳥羽院に認められ和歌所寄人、『新古今集』選者となる。承久の乱直前には後鳥羽院から退けられるが、『新勅撰和歌集』を編纂。古典を校訂し後世に伝えた人でもあり、本居宣長が歌人の中で最も尊んだ。

なお、分家の冷泉家(れいぜいけ)は現在に至るまで「歌の家」として続いており、その建物は、日本で唯一現存する公家屋敷ともなっている。また、定家から伝わる御文庫(文書所蔵庫)からは、もはや現存しないと考えられた貴重な古典史料が、しばしば発見される。


(藤原定家)

小倉百人一首の成立事情

 『百人一首』は数百種類あるといわれるが、それらの模範となったのは『小倉山荘色紙和歌』などと題される藤原定家の私撰歌集であるとされる。後に選定された多くの百人一首と区別するため、定家が晩年を過ごした別荘があった小倉山の地名をとり、『小倉百人一首』とよばれる。
 
 嘉禎元年(1235)ごろ、宇都宮頼綱(法名蓮生・定家の子為家の妻の父)が、嵯峨の中院の山荘の障子(ふすま)に色紙を貼ろうとして、近くの小倉山荘に住む藤原定家に選歌を依頼した。定家が『百人秀歌』を選び、それを色紙に書いて贈ったのが草案とされる。

 しかし、この『百人秀歌』には『小倉百人一首』にない三人の歌があり、そして後鳥羽院・順徳院の歌がなく、源俊頼の歌が異なっている。また歌の順序もかなり異なっており、計百一首の歌がある。したがって、それをもとに後の人(一説には為家)が手を加え、三人を省いて両院を加え、現在の『小倉百人一首』になったと推定されている。

おもな枕詞(2)

高砂の(たかさごの)
 →待つ・尾の上(へ)
高照らす(たかてらす)
 →日
高光る(たかひかる)
 →日
畳な付く(たたなづく)
 →青垣・柔肌(にきはだ)
畳薦(たたみこも)
 →平群(へぐり)
玉かぎる(たまかぎる)
 →ほのか・夕・日・ただ一目
玉勝間(たまかつま)
 →逢ふ・安倍島山・島熊山
玉葛(たまかづら)
 →長し・絶ゆ・這ふ・筋(すじ)・影・幸(さき)く
魂極る(たまきはる)
 →内・命・世・吾が・心・立ち帰る
玉櫛笥(たまくしげ)
 →明く・覆ふ・奥・輝く・蓋
玉梓(たまづさの)
 →使(つかひ)・妹(いも)
玉桙(たまぼこの)
 →道・里
玉藻刈る(たまもかる)
 →沖・乙女・敏梅(みぬめ)
玉藻なす(たまもなす)
 →寄る・靡く・浮かぶ
垂乳根の(たらちねの)
 →母・親
乳の実の(ちちのみの)
 →父
千早振る(ちはやぶる)
 →神・宇治・伊豆
月草の(つきくさの)
 →うつる・仮・消ぬ
つぎねふや
 →山城
つのさはふ
 →石(いは)
剣太刀(つるぎたち)
 →身に添ふ・とぐ・斎ふ・
飛ぶ鳥の(とぶとりの)
 →明日香・早し
灯火の(ともしびの)
 →明石
夏草の(なつくさの)
 →思ひ萎(しな)ゆ・野鳥・深し・繁し・仮(かり)
弱竹の(なよたけの)
 →世・夜・伏し
鳰鳥の(にほどりの)
 →葛飾・潜(かづ)く・なづさふ
鵼鳥の(ぬえどりの)
 →片恋ひ・心嘆く
ぬばたまの
 →夜・夕べ・今宵・月・夢
旗薄(はたすすき)
 →穂・うら
春草の(はるくさの)
 →しげし・めづらし
久方の(ひさかたの)
 →天・雨・空・月・日・光・昼・雲・雪・岩戸
ひな曇り(ひなくもり)
 →碓氷(うすひ)
真鏡(まそかがみ)
 →見る・研ぐ・面影・床
御食向かふ(みけむかふ)
 →淡路
水茎の(みずくきの)
 →水城(みずき)・岡・流る・跡・行方も知らず
水鳥の(みづどりの)
 →立つ・憂き・鴨・賀茂・青葉
水無瀬川(みなせがは)
 →下
蜷の腸(みなのわた)
 →か黒し
群肝の(むらきもの)
 →心
紫の(むらさきの)
 →匂ふ・色・藤坂・藤井・藤江
群鳥の(むらどりの)
 →立つ・むら立つ・朝立つ
物部の(もののふの)
 →八十(やそ)・宇治川・岩瀬
百敷の(ももしきの)
 →大宮
百足らず(ももたらず)
 →八十(やそ)・五十(い)
百伝ふ(ももつたふ)
 →八十・渡る・津・五十(い)
八雲立つ(やくもたつ)
 →出雲
安見知し(やすみしし)
 →わが大君・わご大君
行く鳥の(ゆくとりの)
 →争ふ・群がる
夕月夜(ゆふづくよ)
 →暁闇(あかときやみ)・小倉・入(い)る
若草の(わかくさの)
 →つま(夫・妻)・新(にひ)・思ひつく
吾妹子に(わぎもこに)
 →逢坂・淡路・淡海・棟(あふち)
海の底(わたのそこ)
 →沖

三十六歌仙

平安中期に藤原公任(ふじわらのきんとう)が編集した『三十六撰』に登場する歌人を三十六歌仙という。『万葉集』以降の優れた歌人を選び、各人の歌を数首ずつ集めたもの。百人一首にはこれらのうち25人が入首している(青字)。

柿本人麿
紀貫之
凡河内躬恒
伊勢
大伴家持
山部赤人
在原業平
僧正遍昭
素性法師
紀友則
猿丸大夫
小野小町
藤原兼輔
藤原朝忠
藤原敦忠
藤原高光
源公忠
壬生忠岑
斎宮女御
大中臣頼基
藤原敏行
源重之
源宗于
源信明
藤原清正
源順
藤原興風
清原元輔
坂上是則
藤原元真
小大君
藤原仲文
大中臣能宣
壬生忠見
平兼盛
中務

人気歌トップ10

第1位
ちはやぶる 神代も聞かず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは
~在原業平朝臣

第2位
田子の浦に うちいでて見れば 白たへの 富士の高嶺に 雪は降りつつ
~山部赤人

第3位
花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに
~小野小町

第4位
しのぶれど 色にいでにけり わが恋は ものや恩ふと 人の問ふまで
~平兼盛

第5位
春すぎて 夏来にけらし 白たへの ころもほすてふ あまの香具山
~持統天皇

第6位
秋の田の かりほの庵の 苫を荒み わがころも手は 露に濡れつつ
~天智天皇

第7位
瀬を早み 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ
~崇徳院

第8位
ひさかたの 光のどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ
~紀友則

第9位
あまの原 ふりさけ見れば かすがなる 三笠の山に いでし月かも
~阿倍仲麻呂

第10位
きみがため 春の野にいでて 若菜摘む わがころも手に 雪は降りつつ
~光孝天皇

~gooのアンケート結果による


(小野小町)

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