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土佐日記

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海賊の恐れ

(一)
 二十三日(はつかあまりみか)。日照りて曇りぬ。「このわたり、海賊のおそりあり」と言へば、神仏(かみほとけ)を祈る。
 
 二十四日。きのふと同じ所なり。
 
 二十五日。楫(かぢ)取りらの、「北風悪(あ)し」と言へば、船いださず。海賊追ひ来(く)といふこと、絶えず聞こゆ。
 
 二十六日。まことにやあらむ。「海賊追ふ」と言へば、夜中ばかりより船をいだしてこぎ来る道に、手向けする所あり。楫取りして幣(ぬさ)たいまつらするに、幣の東(ひむがし)へ散れば、楫取りの申して奉(たてまつ)ることは、「この幣の散る方に、御(み)船すみやかにこがしめ給へ」と申して奉る。これを聞きて、ある女(め)の童(わらは)のよめる、
 
 わたつみのちふりの神に手向けする 幣の追風やまず吹かなむ
 
とぞ詠める。この間に、風のよければ、楫取りいたく誇りて、船に帆上げなど喜ぶ。その音を聞きて童も嫗(おむな)も、いつしかとし思へばにやあらむ、いたく喜ぶ。この中に、淡路の専女(たうめ)といふ人のよめる歌、
 
 追風の吹きぬる時はゆく船の 帆手打ちてこそうれしかりけれ
 
 とぞ。天気(ていけ)のことにつけて祈る。

【現代語訳】
 (正月)二十三日。日が照って後、曇った。「このあたりは、海賊の心配がある」というので、神や仏に祈った。
 
 二十四日。きのうと同じ所だ。
 
 二十五日。船頭らが「北風がよくない」と言うので、船を出さない。海賊が追いかけてくるといううわさが、絶えず聞こえてくる。
 
 二十六日。本当なのだろうか、「海賊が追ってくる」というので、夜中から船を出して漕ぎ進む。その途中に安全祈願をする場所がある。船頭に命じて幣を奉らせると、幣が東に散ってしまったので、船頭が「この幣の散る方角に、船を速やかに漕がせたほうがよいでしょう」と言った。これを聞いて、ある女の子が詠んだ、
 
 
海路をお守りくださる「ちふりの神」にお供えする幣に吹く風よ、止まないで吹いておくれ。
 
 この間に風がよい具合となったので、船頭は大いに得意がって、船に帆上げなどして喜んだ。その音を聞いて子どもも老女も、早く帰りたいと思うからだろうか、とても喜んだ。この中にいた淡路の専女という人が詠んだ歌、
 
 
追い風が吹き出すと、帆布をはたはたと打ち鳴らす。その音を聞けば、私たちも手を打つほどにうれしい。

と。天気がよければよいで、悪ければ悪いで、様々に祈った。
 
(注)幣・・・神に祈りのしるしとして供えるもの。 

(二)
 二十七日。風吹き、波荒ければ、船出ださず。これかれ、かしこく嘆く。男たちの心慰めに、漢詩(からうた)に「日を望めば、都遠し」などいふなる言(こと)の様(さま)を聞きて、ある女の詠める歌、

 日をだにも天雲(あまぐも)近く見るものをみやこへと思ふ道の遥(はる)けさ

また、ある人の詠める、

 吹く風の絶へぬ限りし立ち来れば波路(なみぢ)はいとど遥(はる)けかりけり

 日(ひ)一日(ひとひ)、風やまず。爪弾(つまはじ)きして寝(ね)ぬ。

 二十八日。夜もすがら、雨やまず。今朝も。

【現代語訳】
 (正月)二十七日。風が吹いて波が荒いので、船を出さない。船中の誰もかれも、やたらにため息をつく。男たちが気晴らしに漢詩をあれこれ朗吟するなかに、「あの遥かな大空の太陽は見えるのに、都はなお遠くして窺うこともできぬ」というようなのを聞き、ある女が詠んだ歌は、

 
お日様でさえ、空の雲の近くに見えるのに、ここから都までの旅路の、遥かに遠いことよ。

また、ある人が詠んだ。

 
吹く風が絶えてしまわぬ限り、波は無限に立ち来る。その無限の波を越えて行く旅の、まだまだ先の遠いことだね。

 この日は一日中、風が止まなかった。おまじないの爪弾きをして寝てしまった。

 二十八日。夜通し雨が止まなかった。今朝もである。

(注)爪弾き・・・指の爪をはじいて悪いことを避けるおまじない。密教の作法。 

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子の日の歌

 二十九日(はつかあまりここぬか)。船いだして行く。うらうらと照りて、こぎ行く。爪(つめ)のいと長くなりにたるを見て、日を数ふれば、けふは子(ね)の日なりければ、切らず。正月(むつき)なれば、京の子(ね)の日のこと言ひいでて、「小松もがな」と言へど、海中(うみなか)なれば、難(かた)しかし。ある女の書きていだせる歌、
 
 おぼつかな今日は子の日かあまならば 海松(うみまつ)をだに引かましものを
 
とぞ言へる。海にて子(ね)の日の歌にては、いかがあらむ。また、ある人のよめる歌、
 
 今日なれど若菜も摘まず春日野(かすがの)のわがこぎ渡る浦になければ
 
 かく言ひつつ漕ぎ行く。おもしろき所に船を寄せて、「ここやいどこ」と問ひければ、「土佐の泊(とまり)」と言ひけり。昔、土佐といひける所に住みける女、この船に交じれりけり。そが言ひけらく、「昔、しばしありし所のなくひにぞあなる。あはれ」と言ひて、よめる歌、
 
 年ごろを住みし所の名にし負へば来(き)寄る波をもあはれとぞ見る
 
とぞ言へる。

【現代語訳】
 (正月)二十九日。船を出して行く。日がうららかに照り、その中を漕ぎ行く。爪がとても長くなっているのを見て、日を数えたら、今日は子(ね)の日だったので切らないことにした。正月なので、京の子の日のことを思い出して、「小松がほしいなあ」と言うものの、海上なのでできないことだ。ある女が書いて示した歌、
 
 
気にかかりますね、今日は子の日なのでしょうか。もし私が海女(あま)だったなら、小松の代わりに海の松(みる)なりとも引いたでしょうに。
 
と言った。海で詠んだ子の日の歌にしては、まずまずと思うがいかがだろう。また、ある人が詠んだ歌。
 
 
子の日は今日だけど、小松を引かないばかりか若菜も摘まない。私が漕ぎ渡るこの浦には春日野がないので。
 
 このように言いつつ漕いで行く。風情のある場所に船を近づけて、「ここはどこか」と問えば、「土佐の泊」と言う。昔、土佐という所に住んでいた女がこの船に乗り込んでいた。その女が「昔、しばらく住んでいた所と同じ名です。何となつかしい」と言って詠んだ歌、
 
 
長年住んだ所と同じ名がついているので、寄せ来る波もしみじみと懐かしく見られる。
と言った。
 

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阿波の水門

 三十日(みそか)。雨風吹かず。海賊(かいぞく)は、夜、歩きせざなりと聞きて、夜中ばかりに船をいだして、阿波(あは)の水門(みと)を渡る。夜中なれば、西東(にしひむがし)も見えず。男女(をとこをんな)、辛く神仏(かみほとけ)を祈りて、この水門を渡りぬ。寅卯(とらう)の時ばかりに、沼島(ぬしま)といふ所を過ぎて多奈川(たなかは)といふ所を渡る。からく急ぎて、和泉(いづみ)の灘(なだ)といふ所に至りぬ。今日、海に波に似たるものなし。神仏の恵みかうぶれるに似たり。今日、船に乗りし日より数ふれば、三十日(みそか)余り九日(ここぬか)になりにけり。今は和泉の国に来ぬれば、海賊ものならず。

【現代語訳】
 (正月)三十日。雨も降らず風も吹かない。海賊は夜は徘徊しないのだと聞いて、夜中に船を出して阿波の水門(海峡)を渡った。夜中なので西も東も分からない。男も女も、必死になって神仏に祈りながら、この海峡を渡った。日の出の一時間ほど前のころに沼島という所を過ぎて、多奈川という所を渡った。大急ぎで和泉の灘という所にたどり着いた。今日は海に波らしい波はない。神仏のお恵みがあったようだ。今日、船に乗った日から数えてみると、何と三十九日になってしまっている。今はもう和泉の国に来てしまったから、海賊などは問題ではない。
 

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黒崎の松原

 二月(きさらぎ)一日。あしたの間(ま)、雨降る。午刻(むまとき)ばかりにやみぬれば、和泉(いづみ)の灘(なだ)といふ所よりいでて漕ぎ行く。海の上、きのふのごとくに、風波(かぜなみ)見えず。黒崎の松原を経て行く。所の名は黒く、松の色は青く、磯の波は雪のごとくに、貝の色は蘇芳(すはう)に、五色(ごしき)にいま一色(ひといろ)ぞ足らぬ。この間に、今日(けふ)は箱(はこ)の浦といふ所より綱手(つなで)引きて行く。かく行く間に、ある人のよめる歌、
 
 玉匣(たまくしげ)箱の浦波立たぬ日は海を鏡とたれか見ざらむ
 
 また、船君(ふなぎみ)のいはく、「この月までなりぬること」と嘆きて、苦しきに耐へずして、人も言ふこととて、心やりに言へる、
 
 引く船の綱手の長き春の日を四十日(よそか)五十日(いか)までわれは経にけり
 
 聞く人の思へるやう、「なぞ、ただごとなる」と、密(ひそ)かに言ふべし。「船君の辛くひねり出(い)だして、よしと思へる言(こと)を、ゑじもこそしたべ」とて、つつめきてやみぬ。にはかに風波高ければ、とどまりぬ。

 二日。雨風やまず。日(ひ)一日(ひとひ)、夜(よ)もすがら、神仏(かみほとけ)を祈る。

 三日(みか)。海の上、昨日(きのふ)のやうなれば、船出ださず。風の吹くことやまねば、岸の波立ち返る。これにつけてよめる歌、

 緒(を)を撚(よ)りてかひなきものは落ち積もる涙の珠(たま)を貫(ぬ)かぬなりけり

 かくて、今日暮れぬ。

【現代語訳】
 二月一日。朝早くに雨が降る。正午ごろに止んだので、和泉のなだという所から出発して漕ぎ行く。海の上は昨日と同じに風も波もない。黒崎の松原を経て行く。場所の名は黒だが、松の色は青く、磯の波は雪のようであり、貝の色は暗紅色で、五色にあと一つの色が足りない。ところで、今日は箱の浦という所から引き綱を引いて行く。そうして行く間に、ある人が詠んだ歌、
 
 
箱の浦に波が立たない日は、誰がこの海を鏡と見ないだろうか、誰もが鏡と見るだろう。
 
 また、船君(貫之)が言うには、「もうこの月(二月)になってしまったよ」と嘆いて、苦しさに耐え切れず、人も詠んでいるからと気晴らしに詠んだのは、
 
 
引いて行く船の引き綱のように長い春の日を、四十日五十日も私は過ごしてきたよ。
 
 それを聞いた人は、「何とも平凡な歌だろう」と思い、ひそかに言ったようだ。「船君がやっとひねり出して上手くできたと思っているのに、怨まれてはたいへんだ」と、仲間だけでひそひそささやいて終わった。急に風が出て波が高くなったので、その地に停泊した。
 
 二日。雨風止まず。日がな一日、そして夜もすがら、ひたすら神仏を祈る。

 三日。海の上が昨日と同じく荒れているので、船を出さない。風が吹き止まないので、岸の波が寄せては返る。これにつけて詠んだ歌、

 
糸を撚って紡いでも紡いでも甲斐がないのは、こぼれてたまる旅の苦しみの涙の珠を貫くことができないからだ。

 こうして、今日も一日暮れてしまった。
 
(注)玉匣・・・「箱」の枕詞。
 

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忘れ貝

 四日。楫(かぢ)取り、「けふ、風(かぜ)雲の気色(けしき)はなはだ悪(あ)し」と言ひて、船いださずなりぬ。しかれども、ひねもすに波風立たず。この楫取りは、日もえ測(はか)らぬかたゐなりけり。この泊(とまり)の浜には、くさぐさのうるはしき貝・石など多かり。かかれば、ただ昔の人をのみ恋ひつつ、船なる人の詠める、
 
 寄する波うちも寄せなむわが恋ふる人忘れ貝降りて拾はむ
 
と言へれば、ある人の耐へずして、船の心やりによめる、
 
 忘れ貝拾ひしもせじ白珠(しらたま)を 恋ふるをだにも形見と思はむ
 
となむ言へる。女児(をんなご)のためには、親、幼くなりぬべし。「珠ならずもありけむを」と人言はむや。されども、「死し子、顔よかりき」と言ふやうもあり。なほ同じ所に日を経(ふ)ることを嘆きて、ある女のよめる歌、
 
 手を漬(ひ)でて寒さも知らぬ泉にぞ くむとはなしに日ごろ経にける

【現代語訳】
 (二月)四日。船頭は、「今日は風や雲のようすがひどく悪い」と言って、船を出さずじまいになった。それなのに、一日中、波も風も立たない。この船頭は天気も予測できない役立たずであることよ。この泊の浜にはいろいろの美しい貝や石などがたくさんある。それだから、ただ死んだ女の子のことばかりを恋しがり、船にいる人が詠んで、
 
 
打ち寄せる波よ、どうか忘れ貝を打ち寄せておくれ、死んだあの子を忘れるために浜に降りて拾うから。
 
と言ったので、ある人がこらえきれなくなって船旅の気晴らしに詠んで、
 
 
忘れ貝は拾うまい。せめてあの子のような白珠を恋しく思い、それだけでもあの子の形見と思おう。
 
と言った。死んだ女の子に対しては、親は子どものようになってしまうようだ。「珠ほどでもなかっただろうに」と人は言うだろうか。それでも「死んだ子は、顔がよかった」(当時のことわざ?)と言うこともある。やはり、同じ場所で日を過ごすことを嘆いて、ある女が詠んだ歌、
 
 
手をつけても冷たさを感じられない泉、その和泉の国で、水をくむでもなく日を過ごしてしまった。 

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住 吉

(一)
 五日。今日、辛くして、和泉(いづみ)の灘より小津(をづ)の泊(とまり)を追ふ。松原、目もはるばるなり。これかれ、苦しければよめる歌、
 
 行けどなほ行きやられぬは妹(いも)がうむ小津の浦なる岸の松原
 
 かく言ひつつ来る程に、「船とくこげ。日のよきに」と催(もよほ)せば、楫(かぢ)取り、船子(ふなこ)どもにいはく、「御船(みふね)より仰(おほ)せたぶなり。朝北(あさぎた)のいで来ぬ先に、綱手(つなで)(はや)引け」と言ふ。この詞(ことば)の歌のやうなるは、楫取りのおのづからの詞(ことば)なり。楫取りは、うつたへに、われ歌のやうなること言ふとにもあらず。聞く人の、「あやしく歌めきても言ひつるかな」とて、書き出(い)だせれば、げに三十文字(みそもじ)余りなりけり。「今日(けふ)、波な立ちそ」と、人々ひねもすに祈るしるしありて、風波(かぜなみ)立たず。今し、鴎(かもめ)群れゐて遊ぶ所あり。京の近づく喜びのあまりに、ある童(わらは)のよめる歌、
 
 祈り来る風間(かざま)と思(も)ふをあやなくも鴎さへだに波と見ゆらむ
 
と言ひて行く間に、石津(いしづ)といふ所の松原おもしろくて、浜べ遠し。また、住吉のわたりを漕ぎ行く。ある人の詠める歌、
 
 今見てぞ身をば知りぬる住(すみ)の江の松より先にわれは経にけり
 
 ここに昔へ人の母、一日(ひとひ)片時も忘れねばよめる、
 
 住の江に船さし寄せよ忘れ草しるしありやと摘みて行くべく
 
となむ。うつたへに忘れなむとにはあらで、恋しき心地しばし休めて、また恋ふる力にせむとなるべし。

【現代語訳】
 (二月)五日。今日は、やっとのことで和泉のなだから小津の泊を目指して出発した。松原が目に見える限り続いている。誰も彼もがやりきれなくなって詠んだ歌、
 
 
行けども行けども行き過ぎることができないのは、愛しい女が長く長く紡ぎ出す糸の麻(お)、その名がついた小津の浦の岸の果てしない松原であるよ。
 
 こう言いつつやって来るうち、「船を早く漕げ。天気がよいので」とせきたてると、船頭が水夫たちに、「御船より命令をいただいた。朝北の風がやってこないうちに、綱を早く引け」と言った。このことばが歌のようであるのは、船頭が偶然口にしたことばだった。船頭は、必ずしも自分が歌のようなことを言ったつもりはない。聞いた人は、「妙に歌らしく言ったものだ」と思い、紙に書き出したところ、ほんとうに三十文字と一文字であった。「今日は波が立つなよ」と、人々が終日祈ったおかげで、風も波もない。ちょうどその時、かもめが群れ集まって遊んでいる所があった。京が近づく喜びのあまり、ある子どもが詠んだ歌、
 
 
祈りながらやって来て、その風が凪(な)いだと思うのに、どうして白いかもめまで波に見えてしまうのだろう。
 
と言って、行くうちに、石津という所の松原がすばらしく、浜辺がずっと遠くまで続いている。また、住吉の辺りをこいで行く。ある人が詠んだ歌、
 
 
今見て初めてわが身を知った。住の江のあの老いた松より先に、私は老いてしまっていたのだ。
 
 そこで、亡き子どもの母親は、一日半時もわが子を忘れられずに詠んだのは、
 
 
住の江に船をさし寄せておくれ。恋しい思いを忘れさせてくれる効き目があるかと、忘れ草を摘んでいきたいので。
 
と。すっかり忘れようというのではなく、恋しい気持ちを少しの間休めて、また恋い慕う力にしようというのだろう。
 

(二)
 かく言ひてながめつつ来る間に、ゆくりなく風吹きて、こげどもこげども、後(しり)へしぞきにしぞきて、ほとほとしくうちはめつべし。楫取りのいはく、「この住吉の明神は、例の神ぞかし。ほしき物ぞおはすらむ」とは、今めくものか。さて、「幣(ぬさ)を奉りたまへ」と言ふに従ひて、幣たいまつる。かくたいまつれれども、もはら風やまで、いや吹きに、いや立ちに、風波の危(あや)ふければ、楫取りまたいはく、「幣には御心のいかねば、御船(みふね)も行かぬなり。なほうれしと思ひたぶべき物たいまつりたべ」と言ふ。また、言ふに従ひて、「いかがはせむ」とて、「眼(まなこ)もこそ二つあれ、ただ一つある鏡をたいまつる」とて、海にうちはめつれば、いと口惜し。されば、うちつけに、海は鏡の面(おもて)のごとなりぬれば、ある人のよめる歌、
 
 ちはやぶる神の心を荒るる海に鏡を入れてかつ見つるかな
 
 いたく、住の江の忘れ草、岸の姫松などいふ神にはあらずかし。目もうつらうつら、鏡に神の心をこそ見つれ。楫取りの心は、神の御心なりけり。

【現代語訳】
 このように言って、物思いにふけりつつぼんやり眺めながらやって来るうち、急に風が吹き出して、漕いでも漕いでも後ろに下がるばかりで、危うく沈没しそうになった。船頭が言う、「この住吉の明神は例の神だ。欲しい物がおありなのだろう」とは、何と当世風であることよ。そして「幣を奉納されよ」と言う。船頭の言うのに従い、幣を奉った。けれども、少しも風は止まず、いっそう強く吹きだし、波もいよいよ立ちに立って危険になってきたので、船頭がまた言うには、「幣では御得心ならないから、船も進まないのだ。やはり神がうれしく思われるような物を奉納なされよ」。再び言うのに従い、「どうしようか」ということで、結局、「眼だって二つあるのに、たった一つしかない鏡を奉納する」と言って、その鏡を海に投げ込んだものの、何とも残念だ。すると途端に海は鏡の表面のようになめらかになり、ある人が詠んだ歌、
 
 
荒れ狂う海に鏡を投げ入れて、海をたちまち静める神の威力と同時に、神の欲深な本心まで見てしまったよ。
 
 ごたいそうに、住の江、忘れ草、岸の姫松などというほどに優美ばかりの神ではないようだ。目にもまざまざと、鏡に紛れもない神の心を見てしまった。船頭の心は、神の御心だったのだ。
 

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淀 川

 六日(むゆか)。澪標(みをつくし)のもとよりいでて、難波(なには)に着きて、河尻(かはじり)に入る。皆人々、媼(おむな)・翁(おきな)、額に手を当てて喜ぶこと二つなし。かの船酔(ふなゑ)ひの淡路の島の大御(おほいご)、都近くなりぬといふを喜びて、船底より頭(かしら)をもたげて、かくぞ言へる。
 
 いつしかといぶせかりつる難波潟(なにはがた)葦(あし)こぎそけて御船来にけり
 
 いと思ひのほかなる人の言へれば、人々怪しがる。これが中に、ここち悩む船君、いたく愛(め)でて、「船酔ひしたうべりし御顔(みかほ)には、似ずもあるかな」と言ひける。
 
 七日。今日(けふ)は河尻(かはじり)に船入り立ちて漕ぎ上るに、川の水ひて、悩みわづらふ。船の上ることいと難し。かかる間に、船君の病者(ばうざ)、もとよりこちごちしき人にて、かうやうのこと、さらに知らざりけり。かかれども、淡路(あはじ)専女(たうめ)の歌にめでて、都誇りにもやあらむ。からくして、あやしき歌ひねりいだせり。その歌は、
 
 来(き)と来ては川上り路(じ)の水を浅み船もわが身もなづむけふかな
 
 これは、病をすればよめるなるべし。一歌(ひとうた)にことの飽かねば、今ひとつ、
 
 とくと思ふ船なやますはわがために水の心の浅きなりけり
 
 この歌は、都近くなりぬるよろこびに堪へずして、言へるなるべし。淡路の御(ご)の歌に劣れり。「ねたき。言はざらましものを」と、悔しがるうちに、夜になりて寝にけり。

【現代語訳】
 (二月)六日。澪標のところから出発して、難波に着いて、淀川の河口に入った。人々はみんな、とくに老女や老人は額に手を当てて喜ぶことこの上ない。例の船酔いの淡路の島の老女は、都が近くなったと聞いて喜び、船底から頭をもたげてこのように言った。
 
 
いつ帰り着けるのかと待ち焦がれて、心の晴れずにいた難波潟に、葦をこぎ分けてようやく船はやって来たことだ。
 
 とても意外な人が歌を詠んだので、みんな不思議がった。その人たちの中でやはり、気分がおかしくなっていた船君(貫之)はこの歌をたいそうほめて、「船酔いされていた方に似つかわしくない歌だ」と言った。
 
 七日。今日は河口の中に船が入って漕いで上るが、川の水が減っていて、さんざん苦労する。船が川を上るのはとても難儀だ。船君である病人(貫之のこと)はもともと無風流で、一向に我関せずの体であった。しかし、淡路の専女の歌に感心して、都が近くなって気持ちが高まったせいだろうか、ようやくへんてこな歌をひねりだした。その歌は、
 
 
どんどん進んできたが、さかのぼる川の水が浅いので、船も滞り、私の身も病んで動けない今日の日よ。
 
 これは病気ゆえの歌だったのだろう。一言では言いたいことが言い尽くせなかったので、もう一首、
 
 
早く行こうと思っている船が滞るのは、私のためを思う水の心が浅いせいなのだ。
 
 この歌は、都が近づいた喜びに我慢しきれずに言ったものだろう。淡路の御の歌より劣っている。「悔しい。言わなければよかった」と悔しがっているうちに、夜になり、寝てしまった。
 
(注)澪標・・・水路を知らせる標識。
(注)淡路の島の大御・・・一月二十六日の「淡路の専女」と同一人物。
 

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渚の院・山崎

(一)
 八日。なほ、川上りになづみて、鳥飼(とりかい)の御牧(みまき)といふほとりに泊まる。今宵(こよひ)、船君(ふなぎみ)、例の病おこりて、いたく悩む。ある人、鮮(あざ)らかなる物持て来たり。米(よね)して返り事(ごと)す。男ども、密(ひそ)かに言ふなり。「飯粒(いひぼ)して鮅(もつ)(つ)る」とや。かうやうのこと、所々(ところどころ)にあり。今日(けふ)、節忌(せちみ)すれば、魚(いを)用ゐず。

 九日。心もとなさに、明けぬから、船を引きつつ上れども、川の水なければ、ゐざりにのみぞゐざる。この間に、和田の泊(とまり)のあかれの所といふ所あり。米(よね)・魚(いを)など請へば、行なひつ。かくて船引き上るに、渚(なぎさ)の院といふ所を見つつ行く。その院、昔を思ひやりて見れば、おもしろかりける所なり。後方(しりへ)なる丘には、松の木どもあり。中の庭には、梅の花咲けり。ここに人々のいはく、「これ、昔名高く聞こえたる所なり。故(こ)惟喬親王(これたかのみこ)の御供(おほんとも)に、故(こ)在原業平(ありはらのなりひら)の中将の、
 
 世の中に絶えて桜の咲かざらば春の心はのどけからまし
 
といふ歌よめる所なりけり」。今、けふある人、所に似たる歌よめり。
 
 千代(ちよ)経たる松にはあれどいにしへの 声の寒さは変はらざりけり
 
また、ある人のよめる、
 
 君恋ひて世をふる宿の梅の花 昔の香にぞなほにほひける
 
と言ひつつぞ、都の近づくを喜びつつ上る。

【現代語訳】
(二月)八日。なお川上りに難渋して、鳥飼の御牧のほとりに停泊。今夜、船君(貫之)は、いつもの病が起こってひどく苦しむ。ある人が鮮魚を持ってきた。お返しに米を持たせた。男たちが陰口を言う。「あれでは飯粒でムツを釣るというやつだね」と。このようなこと(対等ではない物々交換)は、旅の途中、所々であった。けれども今日は節日の物忌みの日なので、生臭(なまぐさ)物の魚は不用だったのである。

 九日。じれったさに、夜明け前から船を曳いては上るけれども、川の水がないので、全くひざで歩くようにしか進まない。この間に和田の泊の分れのという所がある。そこの土地の人たちが米や魚などを乞うので、ふるまった。こうして船を曳き上るうちに、渚の院という所を見ながら行く。その院は、昔をしのびながら見ていると何とも風情のある場所だ。背後の丘には松の木などがある。中の庭には梅の花が咲いている。そこで人々が言うには、「ここは、昔有名だった所だ。故惟喬親王のお供に、故在原業平の中将が、『この世にまったく桜の花が咲かなければ、春の心はさぞかしのどかだったろうに』という歌を詠んだ所だ」。そして今、今日ここにいる人たちが、この場所にふさわしい歌を詠んだ。
 
 
千年もの時を経た松ながら、松風の音が身にしみる寒々とした響きは、昔から変わらないのだろう。
 
 また、ある人は、 
 
昔の主人を恋い慕いながら年を経て、この院の梅の花は、やはり昔のままの香りに匂っていることだ。
 
と言いつつも、都が近づく喜びに満ちて上っていく。
 

(二)
 かく上(のぼ)る人々の中に、京より下りし時に、みな人、子どもなかりき、到(いた)れりし国にてぞ、子生める者ども、ありあへる。人みな、船の泊(とま)る所に、子を抱(いだ)きつつ降り乗りす。これを見て、昔の子の母、悲しきに堪(た)へずして、

 なかりしもありつつ帰る人の子をありしもなくて来るがかなしさ

と言ひてぞ泣きける。父もこれを聞きて、いかがあらむ。かうやうのことも、歌も、好むとてあるにもあらざるべし。唐土(もろこし)も、ここも、思ふことに堪へぬ時のわざとか。今宵(こよひ)、鵜殿(うどの)といふ所に泊(とま)る。

 十日。さはることありて、上らず。

 十一日。雨いささかに降りて、やみぬ。かくてさし上(のぼ)るに、東(ひむがし)の方(かた)に、山の横をれるを見て、人に問へば、「八幡(やはた)の宮」と言ふ。これを聞きて、喜びて、人々拝(をが)み奉(たてまつ)る。

 山崎(やまざき)の橋見ゆ。嬉(うれ)しきこと限りなし。ここに、相応寺(さうおうじ)のほとりに、しばし船を留(とど)めて、とかく定(さだ)むることあり。この寺の岸ほとりに、柳多くあり。ある人、この柳の影の川の底に映れるを見て、よめる歌、

 さざれ波寄するあやをば青柳の影の糸して織るかとぞ見る

 十二日。山崎に泊れり。

 十三日。なほ、山崎に。

 十四日。雨降る。今日、車(くるま)、京へとりにやる。

 十五日。今日、車(くるま)(ゐ)て来たり。船のむつかしさに、船より人の家に移る。この人の家、喜べるやうにて、饗応(あるじ)したり。この主人(あるじ)の、また、饗応(あるじ)のよきを見るに、うたて思ほゆ。いろいろに返り事(ごと)す。家の人の出(い)で入り、にくげならず、ゐややかなり。

【現代語訳】
この船で上京する人々の中には、京から任国に下った時には誰もみな子供はいなかったのだが、任国(土佐の国)で子供を儲けた人たちが何人か乗り合わせていた。この人たちはみな、船が泊まるところで、子を抱きながら乗り降りする。これを見て、今は亡き子の母親が悲しさに堪えかねて、

 
行くときは子供のなかった人たちも、今は子供を連れて帰るのに、子供と一緒に行った私は亡くして帰ってくる。その悲しさよ

と言いながら泣き崩れる。その子の父も、この歌を聞いてどんな思いであろうか。思うに、このような悲嘆の情も、その心を歌う歌も、ただ好きだからとて得られるものでもなかろう。唐土でも我が国でも原理は同じで、堪えきれぬ思いが湧き出でてのことである。今夜は鵜殿というところに泊まる。

 十日。支障があって上らない。

 十一日。雨が少しばかり降って止んだ。こうして、棹をさしながら上って行くと、東の方に山が横たわっているのが見え、人に問うと、「八幡の宮(石清水八幡宮)」だと言う。これを聞いて、喜んで、人々はみな拝み奉る。

 そこに山崎の橋も見える。嬉しくて仕方がない。そこで、相応寺のほとりにしばらく船を停めて、いろいろと相談して定めることがある。この寺の岸あたりには柳がたくさん植わっている。ある人が、柳の影が川底に映っているのを見てよんだ歌、

 
さざ波が描き出す水面の模様は、青柳の枝葉を糸として織り出しているかのように見えるよ

 十二日。山崎に泊まった。

 十三日。なお山崎に。

 十四日。雨が降る。今日、牛車を取りに、京へ使いを出した。

 十五日。今日、車を曳いて使いが戻ってきた。狭い船中の生活に嫌気がさしていたので、船を降りてある人の家に移る。この人の家では、いかにも大喜びの体でもてなしてくれる。しかし、この家の主人のもてなしの過度の愛想よさを見るにつけ、何となくいやな気持ちがしてくる。しょうがないので、いろいろと返礼をする。とはいえ、この家の人たちの立ち居振る舞いは、上品で礼儀正しい。

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帰 京

(一)
 十六日(とをかあまりむゆか)。けふのようさりつ方、京へ上るついでに見れば、山崎の小櫃(こひつ)の絵も、曲(まがり)のおほぢの形も、変はらざりけり。「売り人の心をぞ知らぬ」とぞ言ふなる。かくて京へ行くに、島坂にて、人あるじしたり。必ずしもあるまじきわざなり。立ちて行きし時よりは、来る時ぞ人はとかくありける。これにも返り事す。
 
  夜になして京には入らむと思へば、急ぎしもせぬ程に、月いでぬ。桂川(かつらがは)、月のあかきにぞ渡る。人々のいはく、「この川、飛鳥川(あすかがは)にあらねば、淵瀬(ふちせ)さらに変はらざりけり」と言ひて、ある人のよめる歌、
 
 ひさかたの月におひたる桂川 底なる影も変はらざりけり
 
 また、ある人の言へる、
 
 天雲(あまぐも)のはるかなりつる桂川 袖をひでても渡りぬるかな
 

 また、ある人よめり。

 桂川わが心にも通はねど 同じ深さに流るべらなり
 
京のうれしきあまりに、歌もあまりぞ多かる。

【現代語訳】
 (二月)十六日。今日の夕方、京に上る折に見れば、山崎にある店屋の看板の小櫃の絵も、曲にある大きな釣り針の看板の形も、昔と変わっていない。「売る人の心はどうだろう」と言っている人がいる。このように京へ近づくと、島坂で、ある人が歓迎の接待をしてくれた。そんなのは必ずしもしなくてよいことだ。京を出立した時より、帰って来る時に、とかく人はあれこれするものだ。この人にもお礼をした。
 
 夜を待って京に入ろうと思い、ゆっくりしていると、月が出てきた。桂川を、ちょうど月の明るい時に渡った。人々が「この川は、飛鳥川でないので、淵も瀬も少しも変わっていない」と言い、ある人が詠んだ歌、
 
 
月に生えているという桂の木。その名と同じ桂川は、底に映る月の光までも変わっていない。

 また、ある人が言うのは、 
 
土佐では空の雲のようにはるかに遠かった桂川。その川を今、袖を濡らしながら渡ったことよ。

また、ある人が詠んだ。 
 
桂川は、私の心に通じてはいないけれど、私が今日を懐かしむ心と同じ深さで流れているようだ。
 
京にたどり着いたうれしさのあまり、歌の数もあまりにも多いことだ。
 

(二) 
 夜ふけて来れば、所々も見えず。京に入り立ちてうれし。家に至りて、門(かど)に入るに、月明かければ、いとよくありさま見ゆ。聞きしよりもまして、言ふかひなくぞこぼれ破れたる。家に預けたりつる人の心も、荒れたるなりけり。中垣こそあれ、一つ家のやうなれば、望みて預かれるなり。さるは、便りごとに物も絶えず得させたり。今宵、かかることと、声高にものも言はせず。いとはつらく見ゆれど、志はせむとす。
 
 さて、池めいてくぼまり、水漬ける所あり。ほとりに松もありき。五年(いつとせ)六年(むとせ)のうちに、千年(ちとせ)や過ぎにけむ、かた枝はなくなりにけり。今生ひたるぞ交じれる。大方(おほかた)のみな荒れにたれば、「あはれ。」とぞ人々言ふ。思ひ出でぬことなく、思ひ恋しきがうちに、この家にて生まれし女子(おむなご)の、もろともに帰らねば、いかがは悲しき。船人(ふなびと)もみな、子たかりてののしる。かかるうちに、なほ悲しきに堪へずして、ひそかに心知れる人と言へりける歌、
 
 生まれしも帰らぬものをわが宿に小松のあるを見るが悲しさ
 
とぞ言へる。なほ飽かずやあらむ、また、かくなむ。
 
 見し人の松の千年に見ましかば遠く悲しき別れせましや
 
 忘れがたく、口惜しきこと多かれど、え尽くさず。とまれかうまれ、とく破りてむ。

【現代語訳】
 夜が更けてやって来たので、途中のあちこちが見えない。都の町なかに入ってうれしい。家にたどり着いて、門に入ると、月が明るいのでとてもよく状態が見える。人から聞いていた以上に、家はどうしようもなく傷んでいる。家を預けていた人の心も荒れていたのだろう。仕切りの垣はあるにはあるが、一つの家のようなので、先方が進んで預かってくれたのだ。それでもついでがあるたびに付け届けも絶えずしていた。今夜は、「こんなにひどいとは」などと従者たちに大声で言わせたりしない。たいそうひどいとは思うが、お礼はしようと思う。
 
 さて、池のようにくぼんで、水に浸かっているところがある。側に松もあった。五、六年のうちに千年も過ぎたのだろうか、半分がなくなっている。新しく生えた松が混じっている。ほとんどみな荒れ果てているので、「大変だ」と人々が言う。思い出さないことは何一つなく、恋しく思うなかでも、この家で生まれた女の子がいっしょに帰らないのがどれほど悲しいことか。同じ船で帰京した人たちはみな子どもに囲まれて大騒ぎしている。そうこうしているうち、やはり悲しさに堪えられず、ひっそりと気心が知れている人と詠んだ歌、
 
 
ここで生まれたあの子も帰ってこないのに、わが家の庭に小松が生えているのを見ると、子どもが思い出されて悲しい。
 
と言ったことだ。それでもまだ満足できないのか、またこう詠んだ。
 
 
亡くなったあの子が、松のように千年も見ることができたら、永遠の悲しい別れなどすることもなかったのに。
 
 忘れられず心残りなことが多いけれども、全部を書き尽くせない。まあともかく、こんなものは早く破いてしまおう。
 

(注)現代語訳は、現代文としての不自然さをなくすため、必ずしも直訳ではない箇所があります。

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「土佐日記」のあらまし

貫之が土佐守として任国に赴いたのは延長8年(930年)の秋8月ごろだったとされ、4年半の任期を終え、承平4年(934年)12月21日に土佐の館を門出、翌年2月16日に京の自邸に戻った。『土佐日記』は、この間55日間にわたる船旅の記録。中心として記述されているのは土佐国で亡くなった愛娘を思う心情と行程の遅れによる帰京をはやる思いであり、多様な諧謔にも溢れている。
 
出発前の盛大な送別の宴を終え、多くの人々に見送られながら、実質的に船出したのは12月27日、土佐で亡くした女の子をしのびながらの出発だった。
 
浦戸、大湊、奈半、室津を経て、室戸岬をまわり、四国の海岸沿いを北上、海賊のうわさに追い立てられるように鳴門を渡り、淡路島の南側を伝って和泉の国に着き、一安心。それから大阪湾を陸地に沿って難波を目指し、淀川をさかのぼって京に入った。
 
途中、荒天のため幾日も停泊を余儀なくされたり、海の旅の危険、海賊の恐れなどで、一行の統率者・船君の頭髪も真っ白になるほどだった。そんな旅でも、美しい景色や温かい人情に触れ、心が和むこともあった。宇多の松原、暁月夜、海上への月の出など、心をのべ、感興のあまり歌を詠みあったりした。
 
京に近づくにつれ、出迎える人も多くなるが、その人たちのせちがらい姿が目につき、批判の目を向ける。その最たる場面が自邸にたどり着いた時の落胆である。ひどく荒廃した庭を目の当たりにして、隣人の薄情な仕打ちへの腹立ちや、亡児追慕の情の暗いトーンで、この日記は閉じられる。

「土佐日記」の行程

12月21日
国司交替の事務を終え、午後8時、大津に向け官舎を出発
 
12月22日
海上平穏を祈願
 
12月23~24日
餞別があり、送別の宴が続く
 
12月25日
後任の国司の招待を受け国府に出向く
 
12月26日
守の官舎で宴を催す
宴が終わり、大津に向かう
 
12月27日
浦戸に向けて船を漕ぎ出す
土佐国で急逝した女児を恋い悲しむ
途中、鹿児崎で新任の国守の兄弟らが送別の宴を催す
 
12月28日
大湊へ
前の国守の子から差し入れを受ける

12月29日
土佐国の官医から差し入れを受ける
 
1月1日
以後8日まで風波が強く出航できない

1月7日
七種の節句を行う
 
1月9日
早朝、人々と別れを惜しみ、大湊から奈半の港に向かう
宇多の松原を通過
 
1月11日
室津に向かう
羽根という土地のことを尋ねた子どもにつけても、亡き女児を思い悲しむ
 
1月15・16日
風波やまず
 
1月17日
出航するが、雨が降り出し、引き返す
天候が悪く、20日まで船を出せず
 
1月20日
月を見て、阿倍仲麻呂の歌をしのぶ
 
1月21日
午前6時ごろ船を出す
 
1月22日
海は荒れ模様
 
1月23日
海賊の心配があるので、神仏に祈る
 
1月26日
夜中ごろから船を漕ぎ出す
 
1月27~28日
風波が強い
 
1月29日
都の行事をなつかしく思い出す
土佐の泊
 
1月30日
海賊を避けて夜中ごろ船を出す。神仏を祈りつつ阿波の海峡を渡る
和泉の灘に到着
 
2月1日
海岸沿いに北上
黒崎の松原
箱の浦
風波が高く泊まる
 
2月4日
美しい貝や石を見て亡き女児を追慕
 
2月5日
石津
住吉の松を見て女児を追慕
 
2月6日
難波に着き、河口に入る。人々は都が近いと喜ぶ
 
2月7日
河口を上るが水が少なく苦労する

2月8日
鳥飼の御牧
 
2月9日
船上から渚の院を眺め、昔をしのぶ
鵜殿に泊まる
 
2月11日
山崎に到る
石清水八幡宮
13日まで山崎に泊まる
 
2月14日
京に車を取りに人を出す
 
2月15日
船からある人の家に移る
 
2月16日
島坂
夜になるのを待って京に入る

『土佐日記』の和歌一覧

12月
都出でて君にあはんと来しものを来し甲斐もなく別れぬるかな

白妙の浪路を遠く行きかひて我に似べきは誰ならなくに

都へと思ふをものの悲しきは帰らぬ人のあればなりけり

あるものと忘れつつなほ亡き人をいつらと問ふぞ悲しかりける

惜しと思ふ人やとまると葦鴨のうち群れてこそ我は来にけれ

棹させど底ひも知らぬわたつみの深き心を君に見るかな

1月
浅茅生の野辺にしあれば水も無き池に摘みつる若菜なりけり

行く先に立つ白波の声よりもおくれてなかむわれやまさらん

行く人も留まるも袖の涙かは汀のみこそ濡れまさりけれ

照る月の流るる見れば天の川出づる水門は海に然りける

思ひやる心は海を渡れどもふみしなければしらすやあるらん

見渡せば松のうれことに住む鶴は千代のどちとぞ思ふべらなる

まことにて名に聞く所羽根ならば飛ぶがごとくに都へもがな

世の中に思ひやれども子を恋ふる思ひにまさる思ひなきかな

雲もみな波とぞ見ゆるあまもがないつれか海と問ひて知るべく

立てば立つ居ればまた居る吹く風と波とは思ふどちにやあるらん

霜だにもおかぬ潟ぞといふなれど波の中には雪ぞ降りける

水底の月の上より漕ぐ船の棹に障るは桂なるらし

影見れば波の底なるひさかたの空漕ぎわたるわれぞ侘びしき

磯振りの寄する磯には年月もいつともわかぬ雪のみぞ降る

風に寄る波の磯には鴬も春もえ知らぬ花のみぞ咲く

立つ波を雪か花かと吹く風ぞ寄せつつ人を謀るべらなる

青海原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも

都にて山の端に見し月なれど波より出でて波にこそ入れ

なほこそ国の方は見やらるれわが父母ありとし思へば帰らばや

わが髪の雪と磯辺の白波といづれまされり沖つ島守

漕ぎて行く船にて見ればあしひきの山さへ行くを松は知らずや

波とのみひとつに聞けど色見れば雪と花とに紛ひけるかな

わたつみの千振の神に手向けする幣の追ひ風止まず吹かなん

追ひ風の吹きぬる時はゆく船の帆手打ちてこそうれしかりけれ

陽をだにも雨雲近く見るものを都へと思ふ道の遙けさ

吹く風の絶えぬる限りし立ちくれば波路はいとど遙けかりけり

おぼつかな今日は子の日か海人ならば海松をだに引かましものを

今日なれど若菜も摘まず春日野のわが漕ぎわたる浦に無ければ

年来を住みし所の名にし負へば来寄る波をもあはれとぞ見る

2月
玉櫛笥箱のうらなみ立たぬ日は海を鏡と誰か見ざらん

引く船の綱手や長き春の日を四十日五十日までわれは経にけり

緒を縒りて甲斐なきものはおちつもるなみたの珠を貫かぬなりけり

寄する波うちも寄せなむわか恋ふる人忘れ貝おりて拾はん

忘れ貝拾ひしもせじ白玉を恋ふるをだにも形見と思はん

手をひてて寒さも知らぬいづみにぞ汲むとはなしに日来経にける

行けどなほ行きやられぬは妹か績む小津の浦なる岸の松原

祈りくる風間ともふをあやなくも鴎さへだに波と見ゆらん

今見てぞ水脈走りぬる住の江の松よりさきにわれは経にけり

住の江に船さし寄せよ忘れ草験ありやと摘みてゆくべく

千早振る神の心を荒るる海に鏡を入れてかつ見つるかな

いつしかといぶせかりつる難波潟葦漕ぎそけて御船来にけり

きと来ては川上り路の水を浅み船もわが身もなづむ今日かな

とくと思ふ船悩ますはわかために水の心の浅きなりけり

世の中にたへて桜の咲かざらば春の心はのとけからまし

千代経たる松にはあれどいにしへの声の寒さは変はらざりけり

君恋ひて世を経る宿の梅の花昔の香にぞなほ匂ひける

無かりしもありつつ帰る人の子をありしも無くて来るが悲しさ

さざれ波寄する綾をば青柳の影の糸して織るかとぞ見る

ひさかたの月に生ひたる桂川底なる影も変らざりけり

天雲のはるかなりつる桂川袖を漬てても渡りぬるかな

桂川わが心にも通はねど同じ深さに流るべらなり

生まれしも帰らぬものをわが宿に小松のあるを見るが悲しさ

見し人の松の千歳に見ましかば遠く悲しき別れせましや

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