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日本史の要点と重要語句

先土器時代〜弥生時代 / 古墳時代飛鳥時代奈良時代平安時代鎌倉時代室町時代安土桃山時代江戸時代明治時代大正時代昭和時代

 日本史の要点と重要語句

先土器時代〜弥生時代

日本列島のなりたち

1万年以上前の日本列島は、大陸と陸続きだった。
野尻湖(長野県)からナウマン象の化石。
今から約1万年前に大陸から切り離され、現在の日本列島のようになった。

先土器時代

今から約1万年前までの、おもに打製石器が使われていたので、この時代を旧石器時代という。
土器を使ったあとが見られないので、先土器時代ともいわれる。

岩宿遺跡

1949年、相沢忠洋が群馬県の関東ローム層から打製石器を発見した。
日本にも旧石器(先土器)時代があったことがわかった。

縄文時代

約1万年前〜紀元前3世紀ごろまでの約8000年間の時代。
縄文土器磨製石器の使用→新石器時代狩り、採集のくらし。

縄文土器

縄目もようをつけたものが多く、厚手で黒かっ色低温で焼かれたため、こわれやすい。北海道から九州まで広く分布。

貝塚

大むかしの人々が食べた貝のからなどが積もっているごみすて場。動物の骨、土器や石器なども出てくる。
大森貝塚(東京都)・・・1877年、日本で最初にアメリカの動物学者モースが発見。そのほか鳥浜貝塚(福井県)、加曽利貝塚(千葉県)が有名。

縄文時代

約1万年前〜紀元前3世紀ごろまでの約8000年間の時代。
縄文土器磨製石器の使用→新石器時代狩り、採集のくらし。

骨角器

動物の骨や角でつくった、やじり・つり針・もりなど。

竪穴住居

縄文〜奈良時代にかけて人が住んでいた住居。地面を50cmほど掘り下げて床をつくり、柱を立てて草ぶきの屋根でおおったもの。4〜8人くらいずつで住み、10数戸で集落をつくっていた。

土偶

縄文時代につくられた20cmくらいの土の人形。家族の繁栄やえものがとれるように祈ったりするための、まじないに使われたと考えられている。女性の像が多い。

縄文時代の社会

共同でえものをとり、平等に分けた。→貧富の差や身分の差がなかった

弥生時代

紀元前3世紀〜紀元3世紀の約600年間の時代。
北九州から米づくりが始まり、弥生土器金属器を使用した。

弥生土器

縄文土器よりうすく赤かっ色をした土器。高温で焼かれたため、固い。もようがない、または簡単な幾何学的なもようがある。

米づくりの始まり

2300年ほど前の紀元前300年ごろ(もっと早い時期だったとする説が強まっている)、中国の南部・中部から朝鮮半島を経て北九州に伝わった。

登呂遺跡

静岡県にある弥生時代の代表的な遺跡。竪穴住居・高床式倉庫などの集落あとで、水田・あぜ道・水路・木製農具などが発見された。

石包丁

稲の穂をつみとるための石器。長さ15cmくらい。

青銅器

弥生時代に、鉄器とほぼ同時に大陸から伝わった。
青銅器は、おもに祭りの道具として使われ、銅剣・銅ほこ・銅鏡・銅たくなどがつくられた。

鉄器

木製農具をつくる工具として使われ、弥生時代後期には鉄の刃先をつけたくわすきがつくられた。また、戦いのための武器にも使用され始めた。

木製農具

鉄器は貴重品だったため、多くの人は木製のくわすきで土地を耕し、木製のきねなどで脱穀した。田では、しずまないように田下駄を使用した。

銅たく

つりがね型の青銅器。高さは、10cm〜1m。面に狩り・もみつき・家などの絵が描かれているものがあるが、何に使われたものかよくわかっていない。

弥生時代の社会

稲作が進むと、くらしが安定し、むらの人口は増えたが、たくわえの多い少ないによって貧富の差や身分の別があらわれた。むらには、農作業を指図する指導者(支配者)があらわれた。

板付遺跡

福岡県にある、縄文時代後期〜弥生時代初期の遺跡。日本最古の米づくりの遺跡で、石包丁やもみなどが出土した。

唐古遺跡

奈良県にある、弥生時代の遺跡。

むらからくにへ

米づくりが広がると、日本列島の各地に大きなむらができてきた。むらとむらは、土地や用水をめぐって争い、力の強いむらは力の弱いむらをしたがえていった。大きなむらは、やがて小さなくににまとまっていった。力のあるむらのかしらは、豪族となってくにを支配した。

金印

中国の歴史書『後漢書』に、57年、倭の奴国が使者を送ってきたので、中国(後漢)の皇帝が金印をさずけたことが書かれている。江戸時代に志賀島(福岡県)で発見され、「漢委奴国王」と刻まれている。

邪馬台国

中国の歴史書『魏志倭人伝』に、3世紀ごろ、倭から30の国が中国に使者を送ってきていること、そのなかに卑弥呼という女王が治めている邪馬台国があって、30ほどのくにをしたがえていたことが書かれている。
身分の差があり、どれい(生口・奴婢)がいて、租税のしくみや市場もあった。
邪馬台国の位置については、北九州説畿内説がある。

卑弥呼

239年、中国のに使いを送り、皇帝から「親魏倭王」の称号と、金印、銅鏡などをあたえられた。
うらないまじない(呪術)で政治を行った。

吉野ケ里遺跡

佐賀県にある弥生時代の遺跡。この地域の小さなくにの中心だったと考えられている。
周りを大きな堀で囲み、多くの竪穴住居・高床式倉庫や墓地がある。物見やぐらで見張りをした。

『漢書』地理志

中国の前漢の歴史書で、紀元前1世紀ごろ、日本(倭)は100余りのくにに分かれていたことが書かれている。

中国の動き

前漢(紀元前202年)⇒後漢(25年)⇒三国時代(220年〜。魏・呉・蜀)

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古墳時代

大和朝廷(大和政権)

4世紀の中ごろ、大和(奈良県)の豪族が連合して大きな国になり、5世紀ごろに九州地方から東北地方南部までを統一した。大王を中心とした政治が行われた。

国の統一と神話

日本の国ができるようすは、『古事記』『日本書紀』に神話として記されている。ヤマトタケルノミコトの話が特に有名。

豪族

その地方に土着し、富と力をたくわえた者が支配者となり、やがて豪族となった。大和朝廷にしたがった豪族は、朝廷の役人として働いた。

大王

大和朝廷の支配者となった、最大の権力を持つ豪族。7世紀ごろから、天皇の称号が使われるようになった。

氏姓制度

・・・血縁で結ばれた豪族の一族。
・・・家がらや朝廷での地位を表し、氏にあたえられた。
大和朝廷の政治や社会のしくみを氏姓制度という。

倭の五王

倭(大和朝廷)の讃・珍・済・興・武の5人の王。
中国の歴史書『宋書』に、5世紀に、倭の5人の王がつぎつぎに使者を送ってきたことが書かれている。

古墳

4〜6世紀にかけて、大王や豪族の大きな墓がさかんにつくられた。この約300年間を古墳時代という。大和でつくり始められた前方後円墳のほか、円墳・方墳などがある。

埴輪

古墳の上やまわりにならべられた素焼きの土器。筒(つつ)型や、人物・動物・家・船などの形をしたものがある。

副葬品

玉・鏡・首かざり・武器など、古墳の埋葬者にそえておさめたもの。副葬品から、当時の人々の風俗や生活のようすがわかる。

大山古墳

大阪府堺市にある、わが国最大の古墳(墓としての面積は世界最大)。5世紀ごろにつくられた代表的な前方後円墳で、仁徳天皇の墓といわれている。

五色塚古墳

兵庫県にある、4世紀につくられた前方後円墳。まわりをふき石でかため、円筒埴輪がおかれている。

藤ノ木古墳

奈良県斑鳩にある6世紀後半につくられた円墳。玉、銅鏡、装身具など多くの副葬品が発見された。

高松塚古墳

奈良県明日香村にある7世紀末〜8世紀はじめにつくられた円墳。人物や青竜、白虎などをえがいた壁画が発見された。

漢字と儒教の伝来

5世紀ごろ、大陸から漢字儒教が伝えられた。埼玉県の稲荷山古墳から、漢字が刻まれた鉄剣が出土した。

渡来人

農業・養さん・機織り・焼き物などの大陸の進んだ技術が、渡来人によって伝えられた。

好太王碑

朝鮮(高句麗)の好太王(広開土王)の業績を記した記念碑。4世紀末に、(大和朝廷)が朝鮮に出兵し、高句麗と戦ってやぶれたことが記されている。

朝鮮半島の動き

4世紀、朝鮮半島では高句麗・新羅・百済の3国が対立していた。
このころ、大和朝廷は朝鮮半島南部に進出し、加羅(任那)を支配し、高句麗などと争った。

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飛鳥〜白鳳時代

聖徳太子

593年、おばの推古天皇摂政となり、蘇我馬子と協力して天皇中心の政治をめざした。
十七条の憲法・冠位十二階を制定し、遣隋使を送り、仏教をあつく保護した。

摂政

天皇が幼いときや女性のとき(女帝)などに、天皇に代わって政治を行う役。聖徳太子がはじめてなった。

冠位十二階

聖徳太子は、603年、冠位十二階を定め、役人にその位によって12に分けた冠位をあたえた。家がらに関係なく、才能や手がらのある人を朝廷の役人にとりたてようとした。

十七条の憲法

聖徳太子は、604年、十七条の憲法をつくり、朝廷につかえる役人の心がまえを示した。和の尊重、仏教の重視などにより、天皇中心のしくみを整えようとした。

遣隋使

聖徳太子は、607年、の進んだ政治や文化を取り入れるために、小野妹子らをつかわした。隋と対等な国交を開こうとした。

蘇我氏

大臣として財政をつかさどり、大連の物部氏と対立して勝利した。蘇我馬子・蝦夷・入鹿の3代が活躍した。

法隆寺

聖徳太子が、奈良盆地の北西部の斑鳩の地に建てた、現存する世界最古の木造建築。金堂・五重塔・講堂などの建物がある。金堂の柱は中央がふくらみ、エンタシスというギリシアの建築様式が取り入れられている。

飛鳥文化

6世紀末〜7世紀前半に、飛鳥地方(奈良県)を中心に栄えた最初の仏教文化。多くの寺院や仏像がつくられた。中国、ギリシア、ペルシア、インドなどの影響をうけた国際的な文化。
寺院・・・法隆寺四天王寺、飛鳥寺
仏像・・・釈迦三尊像百済観音像弥勒菩薩像
工芸・・・玉虫厨子

中国と朝鮮の動き

・・・589年に中国統一。
新羅
・・・日本が支配していた加羅(任那)をほろぼした。

大化の改新

聖徳太子の死後、朝廷では蘇我氏が権勢をふるった。
645年、中大兄皇子中臣鎌足らが、蘇我蝦夷・入鹿親子をたおして政治の実権をにぎった。
唐にならい、はじめて年号を定め、大化とした。
中大兄皇子は皇太子となって、天皇中心の国家をつくろうとした。

改新の詔

646年、新しい政府は4つの政治方針を示した。
@公地公民・・・皇族や豪族のもっていた土地と人民をすべて朝廷(国)のものとした。
A全国を国・郡・里に分け、国司・郡司・里長の役人をおいた。
B班田収受の法・・・戸籍をつくり、6歳以上の人民に口分田をあたえた。男子(良民)は2反、女子(良民)はその3分の2。
C租・庸・調などの新しい税をもうけた。

中大兄皇子(天智天皇)

大化の改新後、孝徳天皇・斉明天皇の皇太子として、政治の改革を行った。
白村江の戦い
唐・新羅と戦ってやぶれた後、都を近江(滋賀県)に移し、天智天皇に即位した。
わが国最初の令とされる近江令やわが国最初の戸籍(庚午年籍)をつくった。

中臣鎌足

新政府の中心になって中大兄皇子を助けた。中大兄皇子が天智天皇になってから、藤原の姓をあたえられた。
藤原不比等
は鎌足の子で、その子孫は平安時代の有力な貴族になった。

壬申の乱

天智天皇の死後、弟の大海人皇子と子の大友皇子の間で皇位をめぐる争いがおこった。
672年、大海人皇子が大友皇子をやぶり、天武天皇となった。都を近江から飛鳥に移し、法典の編さんをすすめた。

持統天皇

天智天皇の娘で、天武天皇の皇后。天武天皇の死後、即位し、日本で最初の本格的な都・藤原京をつくった。

大宝律令

701年、文武天皇のときに完成した法典。「律」は今日の刑法、「令」は今日の行政法にあたる。藤原不比等らが、の律令を手本に編さんした。

中国と朝鮮の動き

中国では618年に隋がほろび、が中国を統一した。
朝鮮では676年、新羅が朝鮮半島を統一した。

大宰府

九州の政治・外交・防衛をつかさどる役所。防人を管理し、白村江の戦い後に水城がつくられた。

白鳳文化

大化の改新から平城京に移るころまでに栄えた、律令国家建設期の明るく力強い仏教文化
法隆寺金堂の壁画・薬師寺東塔

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奈良時代

平城京

710年、元明天皇が唐の長安にならって、奈良盆地の北部に平城京をつくり、都を移した。

聖武天皇

仏教の力で、乱れた世の中の不安をしずめ国を治めようとした。
国ごとに国分寺国分尼寺を建て、奈良には東大寺を建てさせた。
752年、東大寺に金銅の大仏を完成させた。

行基

渡来人の子孫で、諸国をまわり仏教を広め、東大寺の大仏づくりに協力した。各地にため池や橋をつくり、農民にしたわれた。

光明皇后

聖武天皇の皇后。仏教をあつく信じ、悲田院施薬院を建てた。

遣唐使

630年に第1回の遣唐使として、犬上御田鍬らが派けんされた。一行は多いときは大使・留学生ら4隻500人にもおよんだ。894年に、菅原道真の意見で停止されるまで15回派けんされた。

鑑真

唐の高僧。朝廷の招きで日本に来るのに5度も失敗して失明、6度目に成功した。唐招提寺を建て、律宗を伝えた。

阿倍仲麻呂

遣唐使の留学生として唐にわたり、唐の朝廷の役人になった。日本に帰ることができず、長安で死んだ。

和同開珎

708年につくられた日本最初の貨幣。武蔵国の秩父から銅がとどけられたことがきっかけで、年号を和銅に改めた。

三世一身の法

開こんを奨励(しょうれい)するため、723年、新しく開こんした土地は本人・子・孫の3世まで所有を認めた。古い施設を利用して開こんした土地は、本人1代の私有を認めた。

墾田永年私財法

743年、開こんした土地(墾田)は、永久に私有することを認めた。貴族や寺社が私有地(荘園)をふやし、公地公民制がくずれていった。

天平文化

聖武天皇の天平年間にもっとも栄えた、貴族中心の仏教文化。唐や西アジア・インドの文化の影響を受け、国際色豊か。

正倉院

東大寺にあり、聖武天皇の遺品などが保存されている倉庫。校倉造

古事記

太安万侶が、稗田阿礼が暗記していた神代から推古天皇までの天皇系譜や皇室の伝承をまとめたもの。712年に元明天皇に献上された。

日本書紀

720年に完成した、神代から持統天皇に至る天皇中心の国家成立史。舎人親王・太安万侶らが中心になって編さんした。

風土記

713年、天皇が諸国に命じて、その国の地名の由来、伝説、特産物などを記録させたもの。現存するのは、常陸・出雲・播磨・豊後・肥前の5つの風土記。

万葉集

大伴家持が編者といわれる日本最古の歌集。山上憶良・柿本人麻呂などの歌人のほか、天皇から農民にいたるまで、約4500首の歌がおさめられている。

貧窮問答歌

山上憶良がつくった歌で、「万葉集」にある。律令制度下の、貧しく苦しい農民の生活をうたっている。

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平安時代

平安京

奈良時代の末期には、貴族や僧の争いがはげしくなり政治が乱れた。794年、桓武天皇は京都の平安京に都を移し、天皇中心の政治を立て直そうとした。

最澄(伝教大師)

中国にわたって新しい仏教を学び、帰国後、天台宗を開き、比叡山(滋賀県)に延暦寺を建てた。

空海(弘法大師)

中国にわたって新しい仏教を学び、帰国後、真言宗を開き、高野山に金剛峰寺を建てた。

荘園の広がり

743年に出された墾田永年私財法で、開こんした土地の私有が認められたので、有力な貴族や寺社は私有地(荘園)をふやした。地方の豪族たちは、有力な貴族や寺社に荘園を寄進して保護を受けた。

不輸・不入の権

不輸の権・・・荘園の税を朝廷に納めなくてもよい権利。
不入の権
・・・荘園に国司が入るのをこばむことができる権利。

摂関政治

藤原鎌足の子孫で律令政治の立て直しのなかで力をつけてきた藤原氏は、天皇が幼いときは摂政、成人すると関白になって政治の実権をにぎった。→摂関政治
摂関政治は、11世紀後半の藤原道長・頼通親子の時代に最も栄えた。

平等院鳳凰堂

藤原頼通が宇治に建てた阿弥陀堂。本尊の阿弥陀如来像は、定朝作の平安時代を代表する彫刻。

国風文化

894年に遣唐使が停止されると、藤原氏らの貴族の生活から日本風の文化が発達した。
寝殿造・・・貴族が住んだ日本風の屋敷。
かな文学
・・・竹取物語・源氏物語・枕草子・古今和歌集
大和絵・絵巻物

菅原道真

唐がおとろえ、学ぶべきことがなくなったことを理由に、遣唐使停止の意見をのべた。
天神様として天満宮にまつられている。

竹取物語

9世紀末〜10世紀の初めごろに、かな文字で書かれた最初の物語。作者は不明。「かぐや姫」をめぐる伝説で、当時の貴族のようすがわかる。

源氏物語

11世紀初めに、紫式部が書いた長編小説。「光源氏」を主人公に、藤原氏全盛期の貴族社会を描写したもの。

枕草子

11世紀初めに、清少納言が書いた随筆。宮中の生活や自然のようすを、するどい感覚で細やかに表現した。

古今和歌集

10世紀初め、紀貫之らが編集した、わが国最初の勅撰和歌集。

中尊寺金色堂

12世紀初め、奥州藤原氏平泉(岩手県)に建てた、阿弥陀堂建築物。

武士の起こり

私有地を広げていった豪族や有力な名主は、自分の土地や財産を守るため、家来に武芸を習わせた。やがて、地方に住みついた貴族などと主従関係を結び、武士団を形成していった。

僧兵

大きな寺院では、僧が武装して寺や荘園を守った。
延暦寺・東大寺・興福寺
などの僧兵が、暴力で要求を通そうとした。これをおさえるために朝廷も武士をたよるようになった。

院政

藤原氏と関係のなかった後三条天皇は、朝廷の力を強めようとした。次の白河天皇は、1086年に上皇となってで政治を行った。→摂政・関白は無力に。
上皇
・・・太上天皇の略で、退位後のよび名。
法皇・・・出家した上皇。
院政はその後、鳥羽上皇・後白河上皇と続き、藤原氏はおとろえた。

源氏と平氏

皇族出身の源氏平氏が武士団の棟りょうになった。源氏は清和天皇の子孫、平氏は桓武天皇の子孫。

平将門の乱

935年、平将門が関東で反乱をおこし、平貞盛らに平定された。

藤原純友の乱

939年、藤原純友が瀬戸内海で反乱をおこしたが、平定された。

前九年の役・後三年の役

前九年の役・・・1051年、陸奥(東北)の豪族安倍氏が反乱。
後三年の役
・・・1083年、出羽(秋田・山形県)の豪族清原氏の一族内の争い。
いずれの乱も、源頼義・義家が平定し、これによって源氏関東に勢力を強めた。

保元の乱

1156年、天皇と上皇の対立が藤原氏の内部争いに結びついて、武士をまきこんだ。天皇側が勝ち、味方をした平清盛・源義朝は力をみとめられた。

平治の乱

1159年、平清盛源義朝が対立し、平清盛が勝った。義朝の子頼朝は、伊豆に流された。

平清盛

保元の乱・平治の乱に勝利して勢力をのばした。武士で最初の太政大臣となり、武士としてはじめて政治をとった。 平氏一族は全国の半分を支配。藤原氏の政治をまねて貴族的な政治を行った。
大輪田泊
(今の神戸)を整え、日宋貿易を進めた。航海の安全を祈るため安芸に厳島神社を建てた。

日宋貿易

輸入品・・・宋銭、書物、陶磁器、絹織物
輸出品・・・金、硫黄、刀剣、漆器

名主

有力な農民は,、土地に自分の名前をつけ(名田)、その所有者となった(名主)。小農民を支配して豪族に成長する者もあった。

武士団

一族を中心とした武士の集団で、10〜11世紀ごろに成長した。小さな武士団は、本家を棟りょうとして大きな武士団を形成していった。

がんばれ中学受験生!

中学受験をめざす小学生のためのページです。

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三内丸山遺跡

青森県青森市にある三内丸山遺跡は、およそ5500年前から4000年ほど前までの約1500年間続いた縄文時代を代表する遺跡。約40ヘクタールの広大な範囲に広がっており、掘立て柱の建物跡、竪穴住居、墓、貝塚やクリなどを栽培した跡などが発見された。

また、おびただしい数の出土品があり、石器と土器に加え、刃物に加工しやすい黒曜石、飾りに使う琥珀(こはく)、ヒスイなども出土している。ヒスイは当時は新潟県の糸魚川でしか採れなかったため、交易があったことが分かる。最盛期には、500人ほどが定住していたと推測されている。

この遺跡の発掘により、縄文時代の文化が、従来考えられていたものより進んでいたことが分かった。ただし、遺跡は他の近くの遺跡に繋がっている可能性があり、未だに全容は把握しきれていない。また、これほどの集落がなぜ終焉を迎えたのかは謎とされている。

中国の文献と日本

『漢書』地理志
 『漢書』は、中国の前漢の歴史書で、「地理志」の部分に日本についての記述がある。「紀元前1世紀ごろ、倭人(わじん:日本人のこと)が100余りの小国をつくり、一部の国が朝鮮半島の楽浪(らくろう)郡に使いを送っていた」と書かれている。

『後漢書』東夷伝
 『後漢書』は、中国の後漢の歴史書で、「東夷伝」の部分に当時の日本についての記述がある。「1世紀の半ば、倭の奴国(なこく/なのくに)の王が漢(後漢)に使いを送り、皇帝から金印を授けられた」と書かれている。

『魏志』倭人伝
 中国の三国時代のことを書いた「三国志」のうち魏(ぎ)の歴史を書いたものが「魏志」で、「倭人伝」の部分に当時の日本についての記述がある。邪馬台国や卑弥呼について書かれており、「239年から卑弥呼がたびたび魏に使いを送り,魏の皇帝から親魏倭王の称号と,銅鏡100枚などを授けられた」とある。

『宋書』倭国伝
 中国南朝の宋の歴史書で、その中の条「倭国伝」に、宋と日本の交渉についての記述がある。5世紀に、朝鮮半島で優位に立つため、倭の五王(讃、珍、済、興、武)が宋に使いを送ったことが記されている。 

日本文化史

飛鳥文化
中国の六朝文化やギリシャ・インドの影響もみられる。わが国の仏教芸術の始まり。

白鳳文化
遣唐使によって唐の文化がもたらされる。生命力、創造力の充実した文化。

天平文化
唐文化の影響や仏教的性格が顕著。律令政治を背景にした貴族文化。古典的様式の完成。

国風文化
遣唐使が廃止され、日本独自の貴族文化が誕生。仮名文学、寝殿造、大和絵、浄土教美術など。

鎌倉文化
武家政権の成立により、それまでの優雅な公家文化と素朴で力強い武家文化が共存して新しい文化が発展。

北山文化
禅宗を背景とした武家文化と公家文化が融合。足利義満の時代に開花。水墨画、能など。

東山文化
武家文化と公家文化の融合に加え、文化の地方への普及。足利義政の時代。わび、さびという新しい美意識。

桃山文化
南蛮文化の影響が加わった自由清新な文化。振興の権力者や豪商が担い手。現実色が強く、豪放、絢爛。

元禄文化
上方の富裕な町人を中心とした、現実主義的で儒教的道徳に束縛されない自由な文化。

化政文化
江戸の町人を中心とした文化。刹那的、退廃的な色合いが強い。粋、通がもてはやされた。

日本文学(上代〜江戸)

古事記
太安万侶・撰。皇室の系譜を中心とした神話集。
 
日本書紀
舎人親王ら・撰。神代の伝承・神武天皇から持統天皇までの歴史が編年体(時系列で記事を編さんする方法)で記された正史。
 
万葉集
大伴家持ら編。わが国最古の和歌集。代表的歌人は柿本人麻呂・山部赤人・山上憶良。万葉仮名が使われている。
 
竹取物語
作者不明。最古の物語。
 
古今和歌集
紀貫之ら撰。わが国最初の勅撰和歌集。代表的歌人は小野小町・在原業平・遍昭など。
古今集以後、『後撰和歌集』・『拾遺和歌集』・『後拾遺和歌集』・『金葉和歌集』・『詞花和歌集』・『千載和歌集』の順に勅撰和歌集が続く。
 
伊勢物語
作者不明。当世一の美男子といわれた在原業平を主人公とした和歌にまつわる短編歌物語集。
 
源氏物語
作者・紫式部。54帖からなる長編物語。主人公光源氏の女性遍歴を描く。
 
枕草子
一条天皇の皇后・定子に仕えた清少納言による随筆集。
 
土佐日記
作者・紀貫之。仮名書きの旅日記。
 
更級日記
作者・菅原孝標女。13歳で父の任地・上総から帰京する旅に始まり、宮仕え、結婚など一生の回想録。
 
大鏡
作者不明。藤原道長の権勢とその由来を描いた歴史物語。
 
今昔物語集
作者不明。千余りの話からなる日本・インド・中国の仏教・民間説話集。
 
新古今和歌集
藤原定家ら撰。代表的歌人は後鳥羽院・西行・慈円・藤原俊成女など。
 
方丈記
作者・鴨長明。かなと漢字の混ざった和漢混交文で書かれた随筆集。
 
平家物語
作者不明。平家一門の栄枯盛衰を描いた軍記物語。
 
小倉百人一首
藤原定家が撰集。100人の歌人の歌を一首ずつ収めている。
 
徒然草
作者・吉田兼好。無常観を根底に描かれた随筆集。
 
風姿花伝
作者・世阿弥元清。能楽論。世阿弥は足利義満の後見を受け、能を大成した。
 
好色一代男
作者・井原西鶴。浮世草子(風俗小説)。主人公。世之介の好色生活。
 
奥の細道
作者・松尾芭蕉。俳諧紀行文。
 
曽根崎心中
作者・近松門左衛門。浄瑠璃。
 
雨月物語
作者・上田秋成。九編の怪奇話からなる短編集。
 
南総里見八犬伝
作者・滝沢馬琴。八犬士が活躍する物語。
 
古事記伝
作者・本居宣長。
 
東海道中膝栗毛
作者・十返舎一九。弥次喜多の道中記。
 
おらが春
作者・小林一茶。句文集。

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