平安時代の学校制度としては、国家の役人を養成する学校として、中央(京都)に大学、地方に国学がありました。いずれも大宝律令の定めによって設立されたもので、大学は式部省(現在の人事院に相当)が直轄、経学の学問である明経道、法律学である明法道、漢詩文や歴史を学ぶ文章道、数学である算道の4つが教科とされ、それぞれに博士、助教などの教師がおかれました。学生たちは基本的に学内の寄宿舎で暮らし、そこで授業を受けていました。
大学の学生となったのは、おもに五位以上の貴族の子弟で、八位までの子弟も志願すれば入学を許可されました。また少数ながら、姓を有しない庶民の子弟であっても入学が許された例もあったようです。大学の最終試験に合格した者は国家試験を受け、その成績と科目に応じて位階を授けられ、役人になることができました。また、学生の一部には、得業生(大学院生に相当)となって大学に残り博士を目指す者もいました。
一方、国ごとにおかれた国学では、郡司の子弟が儒学などを学んでいました。各国の国府に1校の併設が義務付けられましたが、諸国すべてに国学があったかどうかは定かではありません。中でも大宰府の政庁に隣接してたてられた国学(府学という)は、かなり盛況を極めた様子がうかがわれています。また、各氏族は、それぞれの氏族出身の子弟のために、勉強所と寄宿舎を兼ねた私設の学校をつくっていました。和気氏の弘文院、藤原氏の勧学院、橘氏の学館院などが有名で、これらは後に大学の付属機関として公認されました。
ことさように、この時代の学校はもっぱら上級貴族のためのものでしたが、空海が828年に京都九条の邸宅に開設した綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)は一般民衆のための学校でした。身分上の制限から当時の大学・国学で学ぶことのできない庶民のため、公卿の藤原三守から提供された敷地内に開設されたものです。綜芸とは顕教、密教、儒教をいい、種智とは菩提心のことです。各種の学芸を融合して、大日如来(にょらい)の仏智を広めようとの意志が込められています。しかし、空海が没し、次いで三守が亡くなると、後継者がなくてやがて廃止されてしまいました。残念というよりほかありません。
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