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枕草子

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あかつきに帰らむ人は~第六三段

 あかつきに帰らむ人は、装束(さうぞく)などいみじううるはしう、烏帽子の緒(を)、元結(もとゆひ)かためずともありなむとこそ、覚ゆれ。いみじくしどけなく、かたくなしく、直衣(なほし)、狩衣(かりぎぬ)などゆがめたりとも、誰(たれ)か見知りて笑ひそしりもせむ。

 人はなほ、暁(あかつき)の有様こそ、をかしうもあるべけれ。わりなくしぶしぶに起きがたげなるを、強(し)ひてそそのかし、「明けすぎぬ。あな見苦し」など言はれて、うち嘆くけしきも、げに飽かず物憂くもあらむかし、と見ゆ。指貫(さしぬき)なども、居ながら着もやらず、まづさし寄りて、夜言ひつることの名残、女の耳に言ひ入れて、何わざすともなきやうなれど、帯など結ふやうなり。格子(かうし)押し上げ、妻戸(つまど)ある所は、やがてもろともに率(ゐ)て行きて、昼のほどのおぼつかならむことなども、言ひ出でにすべり出でなむは、見送られて、名残もをかしかりなむ。

 思ひ出で所ありて、いときはやかに起きて、ひろめきたちて、指貫(さしぬき)の腰ごそごそとかはは結ひ、直衣(なほし)、上のきぬ、狩衣も、袖かいまくりて、よろとさし入れ、帯いとしたたかに結ひ果てて、つい居て、烏帽子の緒、きと強げに結ひ入れて、かいすふる音して、扇、畳紙(たたうがみ)など、昨夜(よべ)枕上(まくらがみ)に置きしかど、おのづから引かれ散りにけるを求むるに、暗ければ、いかでかは見えむ。「いづら、いづら」と叩きわたし、見出でて、扇ふたふたと使ひ、懐紙(ふところがみ)さし入れて、「まかりなむ」とばかり言ふらめ。

【現代語訳】
 明け方に女の所から帰ろうとする男は、服装などえらくきちんとして、烏帽子の緒や髪の元結を固く結ばなくてもよさそうに思える。かなりだらしなく、ぶざまに、直衣や狩衣などがゆがんでいても、誰が見知って笑ったり悪口を言ったりしようか。

 男は、やはり、明け方の別れの有様こそが風流であるべきだ。やたらしぶって起きにくそうにしているのを、女が無理に急かし、「明るくなり過ぎましたよ。まあ、みっともない」などと言われて、ため息をつく様子も、本当に名残惜しくて別れが辛いのだろうと見える。指貫なども、座ったままで着ようともせず、まずは女に近寄って、夜の話の続きを耳元にささやき、特に何をするふうでもなく、帯などを結んでいるようだ。格子を上げたり、妻戸のある所に、そのまま女を一緒に連れて行き、昼間の待ち遠しいことなども言いながら、そっと出て行く様子は、女も自然に見送ることになって、名残も趣きがあるものだ。


 かたや、思い出す所があり、たいそうさっぱりと起き出し、ばたばたと動き回り、指貫の腰紐をがさがさと結び直し、袍や狩衣も袖をまくり上げて、さっさと腕を通し、帯をとても強く結んで、ひざまずいて烏帽子の緒をきゅっと強めに結び、かき寄せる音がして、扇・畳紙など昨夜枕元に置いて自然に散らかったのを探すのだが、暗いので見えはしない。どこだどこだと探し回って、やっと探し出し、扇をぱたぱたと使い、懐紙を懐中に入れながら、「帰るよ」とだけ言うような男もいる。

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草の花は~第六七段

 草の花は、撫子(なでしこ)、唐(から)のはさらなり、大和のも、いとめでたし。女郎花(をみなえし)。桔梗(ききやう)。朝顔。刈萱(かるかや)。菊。壺(つぼ)すみれ。

 竜胆(りんだう)は、枝ざしなどもむつかしけれど、異花(ことはな)どもの皆霜枯れたるに、いと花やかなる色あひにてさし出でたる、いとをかし。

 また、わざと、取り立てて、人めかすべくもあらぬさまなれど、かまつかの花、らうたげなり。名ぞうたてあなる。雁(かり)の来る花とぞ、文字には書きたる。かにひの花、色は濃からねど、藤の花にいとよく似て、春秋と咲くがをかしきなり。

 萩(はぎ)、いと色深う、枝たをやかに咲きたるが、朝露に濡れてなよなよと広(ひろ)ごり伏したる。さ牡鹿(をしか)のわきて立ち馴らすらむも、心異なり。八重山吹(やへやまぶき)

 夕顔は、花の形も朝顔に似て、言ひ続けたるにいとをかしかりぬべき花の姿に、実(み)の有様こそ、いとくちをしけれ。などて、さはた生(お)ひ出でけむ。ぬかづきといふ物のやうにだにあれかし。されどなほ夕顔といふ名ばかりは、をかし。しもつけの花。蘆(あし)の花。

 これに薄(すすき)を入れぬ、いみじうあやしと、人言ふめり。秋の野のおしなべたるをかしさは、薄こそあれ。穂先の蘇枋(すはう)にいと濃きが、朝霧に濡れてうちなびきたるは、さばかりの物やはある。秋の果てぞ、いと見所なき。色々に乱れ咲きたりし花の、かたもなく散りたるに、冬の末まで頭の白くおほどれたるも知らず、昔思ひいで顔に風になびきてかひろぎ立てる、人にこそいみじう似たれ。よそふる心ありて、それをしもこそ、あはれと思ふべけれ。

【現代語訳】
 草の花は、撫子、唐のものは言うまでもなく、大和のも、とても立派である。女郎花。桔梗。朝顔。刈萱。菊。壺すみれ。

 竜胆は、枝の張り具合などがむさくるしいが、他の花々がみな霜にやられて枯れてしまった中で、たいそう派手な色合いで顔を覗かせているのは、たいへん風情がある。

 また、敢えて取り上げて扱うほどではないが、かまつか(雁来花)の花は可愛らしい。名前がちょっと嫌な感じだが。雁の来る花と、漢字ではしゃれた名前がついている。かにひ(雁緋)の花は、色はそれほど濃くないが、藤の花にとてもよく似ていて、春と秋に花を咲かせるのが素敵である。

 萩、とても色が濃く、枝もしなやかな感じで咲いているのが、朝露に濡れてなよなよと広がって伏している。歌で、牡鹿が好んで立ち寄るとされているのも、やはり格別な感じがする。八重山吹もいい。

 夕顔は花の形も朝顔に似て、朝顔、夕顔と並べ称してもおかしくない花の姿であるのに、実の様子がとても情けない。どうしてあのような不格好な実がなるようになったのだろうか。せめてホオヅキくらいであって欲しいと思う。そうはいっても、やはり夕顔という名前だけは風情がある。シモツケの花。アシの花もいい。

 この中にススキを入れないのは、とても納得できないという人もいるだろう。大体が、秋の野の風情というのは、ススキあってのものだ。穂先が赤らんだのが、朝露に濡れて風になびく姿は、他にこれほどの物があろうかと思えるほど。とはいえ、秋も終わりになると、全く見所のないものになる。色とりどりに咲き乱れていた秋草の花が跡形もなく散ってしまった後、ススキは冬の終わりまで、頭がもう真っ白に覆われているのも知らずに、昔の盛りを思い出しているかのように、風に吹かれてゆらゆらと立っているのは、人の一生にとても似ている。それに寄り添うような心になって、それを哀れと思うのだろう。

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ありがたきもの~第七五段

 舅(しうと)にほめらるる婿。また、姑(しうとめ)に思はるる嫁の君。毛のよく抜くる銀(しろがね)の毛抜き。主(しゆう)そしらぬ従者(ずさ)。つゆの癖なき。かたち、心、有様すぐれ、世に経(ふ)るほど、いささかの疵(きず)なき。同じ所に住む人の、かたみに恥ぢかはし、いささかのひまなく用意したりと思ふが、つひに見えぬこそ、難(かた)けれ。物語、集など書き写すに、本に墨つけぬ。よき草子などは、いみじう心して書けど、必ずこそきたなげになるめれ。男、女をば言はじ、女どちも、契り深くてかたらふ人の、末まで仲よきこと、難し。

【現代語訳】
 
めったにないもの。舅にほめられる婿。また、姑にかわいがられるお嫁さん。毛がよく抜ける銀の毛抜き。主人のことを悪く言わない従者。少しも癖のない人。容姿や気立て、態度が秀でており、世間を過ごす間に、少しも非難を受けない人。同じ所に奉公住みしている人で、互いに気兼ねしてほんの少しも油断なく心遣いしていると思う人が、最後まで人に隙を見られないというのは滅多にない。物語や歌集を書き写す時、元の本に墨をつけない人。価値のある本などは、たいそう気を使って書き写すのだが、必ず汚れてしまうようだ。男女の仲については言うまでもないが、女同士でも、行く末長くと約束して付き合っている人で、最後まで仲の良い人というのは、滅多にない。

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内裏の局は~第七六段

(一)
 内裏(うち)の局(つぼね)は、細殿(ほそどの)いみじうをかし。上(かみ)の蔀(しとみ)上げたれば、風いみじう吹き入れて、夏もいみじう涼し。冬は、雪、霰(あられ)などの、風にたぐひて降り入りたるも、いとをかし。狭(せば)くて、童(わらはべ)などののぼりぬるぞ、あしけれども、屏風のうちに隠し据ゑたれば、異所(ことどころ)の局のやうに声高くゑ笑ひなどもせで、いとよし。

 昼なども、たゆまず心づかひせらる。夜は、まいて、うちとくべきやうもなきが、いとをかしきなり。沓(くつ)の音、夜一夜(よひとよ)聞ゆるが、とどまりて、ただ指一つして叩くが、その人ななりと、ふと聞ゆるこそをかしけれ。いと久しう叩くに、音もせねば、寝入りたりとや思ふらむと、ねたくて、すこしうちみじろく衣(きぬ)のけはひ、さななりと思ふらむかし。冬は、火桶にやをら立つる箸(はし)の音も、忍びたりと聞ゆるを、いとど叩きはらへば、声にても言ふに、かげながらすべり寄りて聞く時もあり。

 また、あまたの声して、詩 誦(ず)じ、歌など歌ふには、叩かねどまづあけたれば、此処(ここ)へとしも思はざりける人も、立ち止まりぬ。居るべきやうもなくて、立ち明すも、なほをかし。御簾(みす)のいと青くをかしげなるに、几帳のかたびらいとあざやかに、裾(すそ)のつまうち重なりて見えたるに、直衣(なほし)の後にほころび絶えすきたる君たち、六位の蔵人(くらうど)の青色など着て、うけばりて遣戸(やりど)のもとなどに、そば寄せてはえ立たで、塀の方(かた)に後ろおして、袖うち合せて立ちたるこそ、をかしけれ。

 また、指貫(さしぬき)いと濃う、直衣あざやかにて、色々の衣(きぬ)どもこぼし出でたる人の、簾(す)を押し入れて、なから入りたるやうなるも、外(と)より見るはいとをかしからむを、きよげなる硯(すずり)引き寄せて文(ふみ)書き、もしは鏡乞ひて鬢(びん)かき直しなどしたるも、すべてをかし。

【現代語訳】
 宮中にある女房の局の中では、細殿にたいそう趣がある。上の蔀(格子戸)を上げてしまえば、風が強く吹き込んできて、夏でもとても涼しい。冬は、雪や霰などが風と一緒に降り込んでくるのも、とても風情がある。狭くて、里から子供などがやって来るには具合が悪いが、屏風の中に隠して座らせておくと、他の場所の局のように大声で笑い声を立てたりしないのも、たいそう具合がよい。

 昼間でも、ずっと油断できず気を使っていなければならない。まして夜は、のんびりと眠ることができないが、それがとてもよい。行き交う人の沓の音が一晩中聞こえ、その中の一つがふと止まって、ただ指一本で戸を叩く。あ、あの人だなとすぐに分かるから面白い。ずいぶん長い間叩いているのに、こちらが応答しないので、相手の男は、もう寝てしまったかと思うかもしれない。それも癪だから、わざと少し身動きして衣擦れの音を立てる。男も、まだ起きているのかと思うだろう。冬は、火鉢にそっと突き刺す火箸の音も聞こえないように用心しているのに、いよいよ強く叩き、声も出して呼ぶのを、物陰から静かに近寄って、じっと耳を澄ますこともある。

 また、大勢の声で漢詩を朗読したり和歌を歌ったりする時は、戸を叩かないでもこちらから遣戸を開けるので、ここを訪ねようと思っていなかった人も立ち止まる。座る場所がなくて、外に立ったままの男が夜を明かすのも、また面白くて情趣がある。局の御簾は真っ青で風情があり、几帳の帳(とばり)も色鮮やかで、女房の衣装の裾先が重なって見えているような所に、直衣の後ろの綻びが裂けて下着が透いて見える貴公子たち、また青色の上着を着た六位の蔵人がやって来て、遣戸の所に身を寄せて立ったりできずに、塀に背をもたれて袖を合わせて立っている姿が、いかにもしゃれている。

 また、指貫の濃い紫に直衣の色合いが鮮やかに映え、色々な色の下着を直衣の下から出した人が、戸口の簾を中に押し入れて、半身だけ部屋の中に入ったような姿も、外から見れば面白いが、そんな人が、綺麗な硯を引き寄せて手紙を書いたり、あるいは鏡を借りて鬢のほつれを直している姿など、細殿は、すべてにおいて趣深い。

(注)細殿・・・宮中の渡り廊下のような所で、そこを仕切って女房たちの局にあてていた。

(二)
 三尺の几帳を立てたるも、帽額(もかう)の下にただすこしぞある、外に立てる人と内にゐたる人と、もの言ふが、顔のもとにいとよくあたりたるこそ、をかしけれ。たけの高く短からむ人などや、いかがあらむ、なほ世の常の人は、さのみあらむ。

 まいて臨時の祭の調楽(てうがく)などは、いみじうをかし。主殿寮(とのもり)の官人(くわんにん)の長き松を高くともして、頸(くび)は引き入れて行けば、さきはさしつけつばかりなるに、をかしう遊び、笛吹き立てて、心ことに思ひたるに、君たちの、日の装束して立ち止まり、もの言ひなどするに、供の随身(ずいじん)どもの、前駆(さき)を忍びやかに短う、おのが君たちの料に追ひたるも、遊びに交りて常に似ずをかしう聞ゆ。

 なほあけながら帰るを待つに、君たちの声にて、「荒田(あらた)に生(お)ふるとみ草の花」と歌ひたる、このたびは今少しをかしきに、いかなるまめ人にかあらむ、すくすくしうさし歩みて出でぬるもあれば、笑ふを、「暫(しば)しや、『など、さ、世を捨てて急ぎ給ふ』とあり」など言へど、心地などやあしからむ、倒れぬばかり、もし人などや追ひて捕ふると見ゆるまで、まどひ出づるもあめり。

【現代語訳】
 戸口には三尺の几帳が立ててあるが、簾の帽額の下と几帳の間に少しだけ隙間がある。外に立っている男と室内の女房とが話をする時、この隙間がちょうど二人の顔のところに当たっているのが面白い。背が高過ぎたり低過ぎたりすれば、上手くいかないかもしれないが、大半の人は上手くいっているようだ。

 さらに、賀茂の臨時のお祭りの調楽の時などは、とても面白い。主殿寮の役人が長い松明を高く掲げて、寒そうに首を襟の中に引っ込めて歩くので、松明の先が物に突き当りそうになる。楽を奏し、笛を吹いて、いつも以上に浮かれている貴公子たちが、束帯に威儀を正した正装で、局の前で立ち止まって女房たちに話しかけていて、お供の随身たちが、声をひそめて短く、それぞれの主人のために先払いの声を掛けているのも、楽の音に混じり、いつもとは違って面白く聞こえる。

 遣戸を開けたまま、その帰りを待っていると、先ほどの貴公子たちの声で、「荒田に生ふる富草の花」と歌っている。今度は今少し趣深く、どういう真面目な人なのか、局の前をさっさと素通りしてしまう人がいて、それを笑うと、貴公子の誰かが、「しばらく、しばらく。『どうしてそう世を捨ててお急ぎになるのか』と女房たちが言っていますよ」などと言えば、その人は気分でも悪いのか、今にも倒れんばかりに誰かが追いかけて捕まえるのかと思われるほど、急いで遠ざかっていく人もいるようだ。

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頭の中将の~第八二段

(一)
 頭の中将の、すずろなるそらごとを聞きて、いみじう言ひ落とし、「何しに人とほめけむ」など、殿上(てんじやう)にていみじうなむのたまふと聞くにも、恥づかしけれど、「まことならばこそあらめ、おのづから聞き直したまひてむ」と笑ひてあるに、黒戸の前など渡るにも、声などするをりは、袖をふたぎて、つゆ見おこせず、いみじう憎みたまへば、ともかうも言はず、見も入れで過ぐすに、二月(きさらぎ)つごもり方、いみじう雨降りてつれづれなるに、御物忌みに籠(こも)りて、「『さすがにさうざうしくこそあれ。物や言ひやらまし』となむ、のたまふ」と人々語れど、「世にあらじ」など答(いら)へてあるに、日一日(ひとひ)、下(しも)にゐ暮らして参りたれば、夜の御殿(おとど)に入らせたまひにけり。

 長押(なげし)の下(しも)に火近く取り寄せて、さしつどひて扁(へん)をぞつく。「あなうれし。とくおはせ」など、見つけて言へど、すさまじき心地して、何しに上(のぼ)りつらむと覚ゆ。炭櫃(すびつ)のもとに居たれば、そこにまたあまた居て、物など言ふに、「なにがしさぶらふ」と、いとはなやかに言ふ。「あやし、いづれの間に、何事のあるぞ」と問はすれば、主殿司(とのもりづかさ)なりけり。「ただここもとに、人づてならで申すべきこと」など言へば、さし出でて問ふに、「これ、頭(とう)の殿の奉らせたまふ。御返りごと、とく」と言ふ。

【現代語訳】
 頭の中将が、私についてのとりとめもない噂を聞いて、私をひどくけなし、「どうして清少納言を人並みに褒めたのだろう」などと、殿上の間でひどくおっしゃる、と聞くにつけ、恥ずかしいけれども、「事実ならしようがないが、間違いなのだからそのうちきっと誤解を解かれるだろう」と笑っていたが、頭の中将は黒戸の前などを通る時も、私の声がすれば、袖で顔を隠して少しもこちらを見ず、ひどく憎んでいらっしゃる。私は何も言わず、気にもしないで過ごしているうち、二月の末ごろ、ひどく雨が降って退屈なときに、頭の中将が御物忌みに籠っていて、「『やはり何だか物足りない。清少納言に何か言ってやろうか』とおっしゃっている」と人々が私に話すが、「そんなことはよもやないでしょう」などと答え、一日中自分の部屋にいて、夜になって中宮様の所に参上したところ、中宮様はもう御寝所にお入りになっていた。


 下長押の近くに、宿直の女房たちが灯灯りを引き寄せて、扁つきをしている。「まあ、よいところにいらしたわ。早くお入りなさい」などと、私を見つけて言うけれど、つまらない気がして、お寝みになられたのに、どうして伺候したのかと悔やまれる。炭櫃の近くに座っていると、そこに女房たちが大勢寄ってきて、おしゃべりなどしていると、「誰それはいらっしゃるか」と、よく透る声で取次ぎを頼む者がいる。「おかしいわ。いつの間にか何かあったのか」と侍女に尋ねさせると主殿司であった。「直接ご本人に、人を介せず申し上げたいことがございます」と言うので、出て行って聞くと、「これは頭の殿からあなたに差し上げるお手紙です。すぐにお返事を下さい」と言う。
 
(注)頭の中将・・・藤原斉信(ただのぶ)。後に四納言の一人に数えられた貴公子。
(注)扁つき・・・漢字の扁を示してつくりを付ける、またはその逆のことをする遊び。

(二)
 いみじく憎みたまふに、いかなる文(ふみ)ならむと思へど、ただ今、急ぎ見るべきにもあらねば、「往(い)ね。今聞こえむ」とて、ふところに引き入れて入りぬ。なほ人の物言ふ、聞きなどする、すなはち立ち帰り来て、「『さらば、そのありつる御文を賜はりて来(こ)』となむ仰せらるる。とくとく」と言ふが、あやしう、いせの物語なりやとて、見れば、青き薄様(うすやう)に、いと清げに書きたまへり。心ときめきしつるさまにもあらざりけり。

 蘭(らん) 省ノ 花ノ 時 錦 帳ノ 下

と書きて、「末はいかに、末はいかに」とあるを、いかにかはすべからむ、御前(ごぜん)おはしまさば、御覧ぜさすべきを、これが末を知り顔に、たどたどしき真名(まんな)に書きたらむも、いと見苦しと、思ひまはすほどもなく責め惑はせば、ただその奥に、炭櫃に消えたる炭のあるして、

 草の庵(いほり)を誰(たれ)か尋ねむ

と書きつけて、取らせつれど、また返りごとも言はず。

【現代語訳】
 とても憎んでおられるはずなのに、どんな手紙なのだろうと思うが、今すぐに急いで見るほどでもないから、「行ってください。すぐお返事を申し上げます」と言って、手紙を懐に入れて中に入った。そのまま女房たちが話しているのを聞いたりしていると、主殿司がすぐに引き返してきて、「『それなら、さっきのお手紙をいただいて来い』とおっしゃっています。お返事を早く早く」と言うが、どうもおかしいので、伊勢物語のようだと思って見ると、青い薄手の紙に、小ぎれいに書いていらっしゃる。どんな文かと胸がときめいたが、それほどのものではなかった。


 蘭省の花の時錦帳の下

と書いて、「この後の句はどうか、どうだったか」とあるのを、どうしたらよいものか、中宮様がいらっしゃれば御覧に入れることもできるのに、この下の句を知ったかぶりに、おぼつかない漢字で書くのも、さぞ見苦しいと思うが、思案する暇もなくしきりに急き立てるので、その手紙の余白に、炭櫃に消えている炭があるのを使い、

 草の庵をたれかたづねむ

と書きつけて渡したが、頭の中将から再びの返事はない。

(三)
 皆寝て、つとめて、いととく局(つぼね)に下(お)りたれば、源中将の声にて、「ここに草の庵やある」と、おどろおどろしく言へば、「あやし。などてか、人げなきものはあらむ。玉の台(うてな)と求めたまはましかば、答(いら)へてまし」と言ふ。「あなうれし。下(しも)にありけるよ。上にてたづねむとしつるを」とて、昨夜(よべ)ありしやう、「頭の中将の宿直所(とのゐどころ)に、少し人々しき限り、六位まで集まりて、よろづの人の上、昔、今と語りいでて言ひしついでに、『なほこの者、むげに絶え果てて後こそ、さすがにえあらね。もし言ひいづることもやと待てど、いささかなにとも思ひたらず、つれなきもいとねたきを、今宵(こよひ)(あ)しともよしとも定めきりてやみなむかし』とて、皆言ひ合はせたりしことを、『ただ今は見るまじ、とて入りぬ』と、主殿司(とのもづかさ)が言ひしかば、また追ひ返して、『ただ、袖を捕らへて、東西せさせず乞ひ取りて、持て来ずは、文を返し取れ』と戒めて、さばかり降る雨の盛りにやりたるに、いととく帰りたりき。『これ』とて、さし出でたるが、ありつる文なれば、返してけるかとて、うち見たるに、あはせてをめけば、『あやし。いかなることぞ』と、皆寄りて見るに、『いみじき盗人(ぬすびと)を。なほ、えこそ捨つまじけれ』とて見騒ぎて、『これが本(もと)、つけてやらむ。源中将、付けよ』など、夜ふくるまで付けわづらひてやみにしことは、行く先も必ず語り伝ふべきことなり、などなむ、皆定めし」など、いみじうかたはらいたきまで言ひ聞かせて、「今は、御名をば、草の庵(いほり)となむ、付けたる」とて、急ぎ立ちたまひぬれば、「いとわろき名の、末の世まであらむこそ、口惜しかなれ」と言ふほどに、修理(すり)の亮則光(すけのりみつ)、「いみじき喜び申しになむ、上にやとて、参りたりつる」と言へば、「なんぞ、司召(つかさめし)なども聞こえぬを、何になりたまへるぞ」と問へば、「いな、まことにいみじううれしきことの、昨夜(よべ)はべりしを、心もとなく思ひ明かしてなむ。かばかり面目(めいぼく)なることなかりき」とて、初めありけることども、中将の語りたまひつる、同じことを言ひて、

【現代語訳】
 みんな寝て、翌朝、自分の部屋にたいそう早く下がっていると、源中将(源宣方)の声で、「ここに草の庵はいらっしゃいますか」と仰々しく言うので、「変ですね。どうしてそのような人間らしくない名前の者がおりましょうか。玉の台とお尋ねでしたら、お返事もいたしましょうに」と言った。源中将は、「ああ嬉しい、下の局にいたのですね。上の局に尋ねようとしていました」と言って、昨夜あったことを語った、「頭の中将の宿直所に、少し身分のある者が皆、六位の蔵人までが集まって、色々な人の昔や今の噂を語り、頭の中将があなたのことを『やはりこの人は、まったく絶交したものの、そのまま放ってはおけない。ひょっとして向こうから言い出すかと待っているが、少しも気にかけず平気でいるのもずいぶんしゃくなので、今夜、良かれ悪しかれ、どうするか決めてしまおう』と言って、皆で相談して遣ったあの手紙を、『今すぐは見ないといって引っ込んだ』と主殿司が伝えたので、また追い返して、『とにかく袖をつかまえてでも、有無を言わさず返事をもらって来い。そうでなければ手紙を取り返せ』と強く言いつけて、ひどい雨の中に遣ったところ、えらく早く帰ってきた。『これです』と言って差し出したのがさっきの手紙で、返事が来たのだなと思い、頭の中将がちらっと見たと同時に叫び声をあげた、『おや、どうしたのか』と皆でそばに寄って見ると、頭の中将が『大した奴よ。やはりあの女を捨て置くことはできない』と言うので、皆が手紙を見て騒ぎ、『これ(草の庵をたれかたづねむ)の上の句をつけて贈ろう。源中将つけてみろ』などと、夜が更けるまで悩んだあげく、つけることができずに終わってしまい、将来にきっと語り伝えるべき話だ、などと皆で評定しましたよ」などと、ずいぶんきまりが悪くなるほど私に言い聞かせ、「あなたのお名前を、今では草の庵とつけています」と言って、急ぎ立ってしまわれた。私は「とてもみっともない名が後世まで伝わるのは残念」と言っていると、修理の亮則光が「すばらしいお祝いを申し上げるために、上の御局におられるかと思って参上していました」と言うので、「何ですか。司召の除目などがあったとも聞きませんが、何におなりになったのですか」と尋ねると、「いやもう、まことに心底から嬉しいことが昨夜ありましたので、早くお知らせしたいと待ち遠しく夜を明かしましたよ。あれほど名誉なことはありませんでした」と言って、最初からのいきさつを、源中将がお話になったのと同じことを言い、
 
(注)修理の亮則光・・・橘則光。清少納言の夫で、日ごろ兄妹と呼び合っていた。長徳2年に修理亮(修理職の次官)となる。長男の則長は清少納言との間にできた子といわれる。 

(四)
 「『ただ、この返りごとに従ひて、こかけをしふみし、すべて、さる者ありきとだに思はじ』と、頭の中将のたまへば、ある限りかうやうしてやりたまひしに、ただに来たりしは、なかなかよかりき。持て来たりしたびは、いかならむと胸つぶれて、まことに悪からむは、せうとのためにも悪かるべしと思ひしに、なのめにだにあらず、そこらの人のほめ感じて、『せうと、こち来(き)。これ聞け』とのたまひしかば、下ごこちはいとうれしけれど、『さやうの方(かた)に、さらにえさぶらふまじき身になむ』と申ししかば、『言(こと)加へよ、聞き知れとにはあらず。ただ、人に語れとて聞かするぞ』とのたまひしなむ、少し口惜しきせうとの覚えにはべりしかども、本(もと)付けこころみるに、言ふべきやうなし。『ことに、またこれが返しをやすべき』など言ひ合はせ、『悪しと言はれては、なかなかねたかるべし』とて、夜中までおはせし。これは身のため、人のためも、いみじき喜びにははべらずや。司召に少々の司(つかさ)得てはべらむは、何とも覚ゆまじくなむ」と言へば、げにあまたしてさることあらむとも知らで、ねたうもあるべかりけるかなと、これになむ胸つぶれて覚えし。このいもうと、せうとといふことは、上まで皆しろしめし、殿上にも、司の名をば言はで、せうととぞ付けられたる。

 物語などしてゐたるほどに、「まづ」と、召したれば、参りたるに、このこと仰せられむとなりけり。上(うへ)渡らせたまひて、語り聞こえさせたまひて、男(をのこ)ども皆、扇に書きつけてなむ持たる、など仰せらるるにこそ、あさましう、何の言はせけるにか、と覚えしか。

 さて後(のち)ぞ、そでの几帳(きちやう)など取り捨てて、思ひ直りたまふめりし。

【現代語訳】
 「『この返事の次第によっては、今後きっぱりと相手をしないことにする。そんな者がいたとも思うまい』と頭の中将がおっしゃるので、そこにいた皆で考えて手紙をおやりになったのだが、使者が手ぶらで帰ってきたのは、かえってよかった。二度目に返事を持ってきた時はどうなることかと胸がどきどきして、本当に出来が悪かったら、この兄にとっても不面目になると思ったが、並々どころでなく大勢の人が褒めて感心し、『兄貴よ、こっちへ来い。これを聞け』とおっしゃったので、内心はとても嬉しくも、『そうした詩歌のほうは、一向にお相手できるほどの身ではございません』と申し上げたところ、『批評しろとか理解しろというのではない。ただ、当人に話せというので聞かせるのだ』とおっしゃり、兄としてちょっと情けない思われ方だったが、皆さんが上の句をつけようとしても適当な文句が見つからない。『ことさらに、またこの句の返事をすべきだろうか』などと話し合い、『つまらない返事だと言われては、かえって無念だ』などと、夜中まで思案していらっしゃった。この一件は私にとってもあなたにとっても大変な祝い事ではないか。司召に少しばかりの官職を得たとしても、これに比べれば何とも思われない」と言う。なるほど大勢でそんな計画があったとも知らず、下手な返事をしていたらさぞ恥をかくところだったと、今更ながらに胸がどきどきした。この私と則光を兄妹と呼ぶのは、主上(一条天皇)まですっかりご存知で、殿上でも、則光は官名ではなく「せうと」とあだ名されていた。


 則光と色々話しているうちに、中宮様が「ちょっと」とお召しになったので参上したところ、この一件についてお話下さろうというのだった。主上が中宮様の所においでになってお話しあそばし、殿上人たちは皆、あの句のやり取りを扇に書きつけて持っているとのことで、あきれて、あの時、何が私にあの句を言わせたのかしらと思われた。

 それから後は、頭の中将も、袖で几帳のように顔を隠すのをやめて、機嫌をお直しになったようだった。

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里にまかでたるに~第八四段

 里にまかでたるに、殿上人などの来るをも、やすからずぞ、人々言ひなすなる。いと有心(うしん)に、引き入りたるおぼえ、はた、なければ、さ言はむもにくかるまじ。また、昼も夜も来る人を、なにしにかは、「なし」とも、かがやき帰さむ。まことにむつましうなどあらぬも、さこそは来(く)めれ。あまりうるさくもあれば、このたび出でたる所をば、いづくとなべてには知らせず。左中将 経房(つねふさ)の君、済政(なりまさ)の君などばかりぞ、知り給へる。

 左衛門(さゑもん)の尉(じよう)則光(のりみつ)が来て、物語などするに、「昨日宰相の中将の参り給ひて、『いもうとのあらむ所、さりとも知らぬやうあらじ。言へ』と、いみじう問ひ給ひしに、さらに知らぬよしを申ししに、あやにくに強(し)ひ給ひしこと」など言ひて、「あることあらがふは、いとわびしくこそありけれ。ほとほと笑(ゑ)みぬべかりしに、左の中将の、いとつれなく知らず顔にて居給へりしを、かの君に見だにあはせば、笑ひぬべかりしに、わびて、台盤(だいばん)の上に布(め)のありしを取りて、ただ食ひに食ひまぎらはししかば、中間(ちゆうげん)にあやしの食ひ物やと、人々見けむかし。されど、かしこう、それにてなむ、そことは申さずなりにし。笑ひなましかば、不用ぞかし。まことに知らぬなめりと思したりしも、をかしくこそ」など語れば、「さらに、な聞こえ給ひそ」など言ひて、日ごろ久しうなりぬ。

 夜いたくふけて、門(かど)をいたうおどろおどろしう叩けば、なにのかう心もなう、遠からぬ門を高く叩くらむと聞きて、問はすれば、瀧口(たきぐち)なりけり。「左衛門の尉の」とて、文(ふみ)を持て来たり。みな寝たるに、火取り寄せて見れば、「明日、御読経(みどきやう)の結願(けちぐわん)にて、宰相の中将、御物忌(ものいみ)に籠り給へり。『いもうとのあり所申せ、いもうとのあり所申せ』と責めらるるに、ずちなし。さらにえ隠し申すまじ。さなむとや聞かせ奉るべき。いかに。仰せに従はむ」と言ひたる返りごとは書かで、布を一寸ばかり紙に包みてやりつ。

 さて後、来て、「一夜(ひとよ)は責めたてられて、すずろなる所々になむ、率(ゐ)てありき奉りし。まめやかにさいなむに、いとからし。さて、など、ともかくも御返りはなくて、すずろなむ布の端(はし)をば包みて賜へりしぞ。あやしの包み物や。人のもとに、さる物包みておくるやうやはある。とりたがへたるか」と言ふ。いささか心も得ざりけると見るがにくければ、物も言はで、硯(すずり)にある紙の端に、

 かづきするあまのすみかをそことだにゆめ言ふなとやめを食はせけむ

と書きてさし出でたれば、「歌詠ませ給へるか。さらに見侍らじ」とて、扇(あふぎ)返して逃げて去(い)ぬ。

 かう語らひ、かたみの後見(うしろみ)などするうちに、なにともなくて、すこし仲あしうなりたるころ、文おこせたり。「便(びん)なきことなど侍りとも、なほ契り聞こえし方(かた)は忘れ給はで、よそにても、さぞとは見給へ、となむ思ふ」と言ひたり。常に言ふことは、「おのれを思さむ人は、歌をなむ詠みて得さすまじき。すべて仇敵(あたかたき)となむ思ふ。今は限りありて絶えむと思はむ時にを、さることは言へ」など言ひしかば、この返りごとに、

 崩れ寄る妹背(いもせ)の山の中なればさらに吉野の川とだに見じ
 
と言ひやりしも、まことに見ずやなりけむ、返しもせずなりにき。さて、かうぶり得て、遠江(とほたあふみ)の介(すけ)といひしかば、にくくてこそやみにしか。

【現代語訳】
 里に退出していると、殿上人などが訪れて来るのを、何かと穏やかでない噂を人々は言い立てるもののようだ。でも私は、かなり慎重に行動しており、やたら引きこもっている女だという評判もないから、そんな風に言われても、特段腹は立たない。それに、昼も夜も尋ねて来る人を、どうしてそうそう「不在です」などと言って、恥をかかせて帰らせることができようか。それほど親しくない人でも、そんなふうにしょちゅう尋ねて来る。あまりにも煩わしくもあるので、この度の退出では、どこにいるとは広く知らせずに、左中将の源経房の君、済政の君といった人たちだけがご存じだった。

 そこで、左衛門の尉の橘則光が尋ねて来て、世間話などをしていたら、「昨日、宰相の中将(藤原斉信)がおいでになって、『妹の居所を、いくら何でもお前が知らぬはずはあるまい。教えよ』と、しつこく聞いてこられたが、全く存じませんと申し上げたのに、無理やり白状させようとなさるので、困ってしまった」などと言い、「知っていることを隠し立てするのは、とても苦しいことでした。もうちょっとで笑いそうになりましたが、左の中将(源経房)が澄ました顔で素知らぬふりをしておられたので、もしあの方と目が合ったらそれだけで吹き出してしまうところでした。台盤(食卓)の上に海藻があったのを掴み取ってむしゃむしゃ食べてごまかしたものだから、食事時でもないのに変な物を食べていると、他の人は見ていたことでしょう。でも、そのおかげで、あなたの居場所を白状せずにすみました。あそこで吹き出していたら、全くのぶち壊しでしたよ。本当に知らないのだとうまく信じ込ませられたのは、愉快でした」などと話すので、「絶対に話さないで下さい」と念押しをしてから、数日が経った。

 夜がたいそう更けてから、門をとても強く叩く者があるので、いったい何者がこうも不遠慮に、広くもない屋敷の門を音高く叩くのだろうと思い、人をやって聞きに行かせたら、滝口の武士だった。「左衛門の尉(橘則光)からです」と言って手紙を持って来ている。もう皆寝てしまった中で、灯りを取り寄せて見ると、「明日は御読経の結願の日ということで、そのために宰相の中将(藤原斉信)が宮中の物忌みで籠ってらっしゃる。『妹の居場所を言え、妹の居場所を言え』と、きつく責められるので、どうしようもありません。もうこれ以上は隠し通せないので、どこにいるかお教えしてもよいでしょうか。如何ですか。仰せの通りにします」とあった。その手紙には返事は書かず、布(昆布)を一寸ほど紙に包んで持たせた。

 後日、則光が来て、「あの日の晩は、宰相の中将に責め立てられ、でたらめな場所へお連れして回りましたら、本気になって私をお叱りになるので、ひどい目にあいました。ところで、なぜあの時どうせよというお返事はなくて、あんな布(昆布)の切れ端なんかを包んで送ってきたのですか。妙な包み物もあったものです。人にあんな物を包んで送るということがありますか。何かの間違いでしたか」と言う。全くこちらの意図が伝わらなかったのかと憎らしく思い、返事もせず、硯箱の中にあった紙の端に、

「海に潜る海女のように姿を隠してる私の住みかを、そこだと絶対に言わないでと目配せ(布を食わせ)したのに」

と書いて差し出したら、「歌をお詠みになったのですか。絶対に拝見しませんよ」と言って、その紙を扇で扇ぎ返して帰ってしまった。

 このように語り合い、お互いに世話を焼いたりしているうちに、何がきっかけというでもなく少し仲が悪くなった頃に、則光が手紙をよこして来た。「不都合なことなどありましても、夫婦の約束を交わしたことは忘れないで、別の場所に離れていても、ああ、あれが則光だなと思うくらいには思っていただきたいものです」と。いつも則光は、「私を思ってくれるなら、どうか歌だけは詠んで寄こさないでいただきたい。歌を寄こしたら、すべて仇敵だと思います。もうこれが最後だと思った時なら、その時こそ歌を詠んで寄こしたらいいでしょう」などと言ってきたから、この返事に、

「崩れてしまって妹背山の間を流れる吉野川は川に見えなくなってしまう、これと同じに、壊れた妹と兄の私たちだから、もはや、川を見ることなんてできません」

と詠み送ったのだが、それも見ないでしまったのか、とうとう返事もしてこなかった。そうしてこの後、則光は五位に叙爵して遠江の介になったので、会う機会もなく、仲違いのままになってしまった。

(注)橘則光・・・清少納言の夫。周りの人々は、兄・妹と呼んでいた。
 

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なまめかしきもの~第八九段

 なまめかしきもの。ほそやかに清げなる君達の直衣(なほし)姿。をかしげなる童女(どうぢよ)の表(うへ)の袴(はかま)などわざとにはあらで、ほころびがちなる汗衫(かざみ)ばかり着て、卯槌(うづち)薬玉(くすだま)など長くつけて、高欄のもとに、扇(あふぎ)さし隠して居たる。

 薄様(うすやう)の草子。柳の萌(も)えいでたるに、青き薄様に書きたる文(ふみ)付けたる。三重(みへ)がさねの扇。五重(いつへ)はあまり厚くなりて、もとなどにくげなり。いと新しからず、いたうもの古(ふ)りぬ檜皮葺(ひはだぶき)の屋に、長き菖蒲(さうぶ)うるはしう葺きわたしたる。青やかなる簾(す)の下より、几帳(きちやう)の朽木形(くちきがた)いとつややかにて、紐(ひも)の吹きなびかされたる、いとをかし。

 白き組の細き。帽額(もかう)のあざやかなる。簾(す)の外(と)、高欄に、いとをかしげなる猫の、赤き首綱(くびつな)に白き札(ふだ)つきて、いかりの緒(を)、組の長きなどつけて引きありくも、をかしうなまめきたり。

 五月の節(せち)の菖蒲(あやめ)の蔵人(くらうど)。菖蒲(さうぶ)のかづら、赤紐(あかひも)の色にはあらぬを、領巾(ひれ)、裙帯(くたい)などして、薬玉(くすだま)、親王(みこ)、上達部(かむだちめ)の立ち並みたまへるに奉れる、いみじうなまめかし。取りて、腰にひきつけつつ、舞踏(ぶたふ)し、拝したまふも、いとめでたし。

 紫の紙を包み文にて、房(ふさ)長き藤に付けたる、小忌(をみ)の君たちも、いとなまめかし。

【現代語訳】
 優雅なもの ほっそりと痩せている貴公子の直衣姿。可愛らしげな童女が、表の袴などをことさらには着けないで、縫い合わせの少ない汗衫(かざみ)だけを着て、卯槌や薬玉の飾り糸を長くして身につけて、簀子(すのこ)の高欄のもとに、扇で顔を隠して座っている様子。

 薄い紙で作った草子。柳の芽吹いた枝に、青い薄紙に書いた手紙を付けたの。三重がさねの扇。五重になると厚くなり過ぎて、手元の所が格好悪い。新し過ぎず古ぼけてもいない檜皮葺の家に、長い菖蒲をきれいに葺き揃えた様。青々とした簾の下から、几帳の帷子(かたびら)の朽木形の模様がつやつやと覗き、紐が風に吹かれてなびいてる様は、たいそう美しい。

 白い組糸の細いの。帽額(もこう)が色鮮やかなの。御簾の外、高欄のあたりに、たいそう可愛らしげな猫が、赤い首輪に白い札をつけて、重りの紐や組糸の長いのをつけて引きずって歩くのも可愛らしく優美だ。

 五月の端午の節句の菖蒲の蔵人。菖蒲の鬘を髪につけて、赤紐の地味な色なのをつけて、領布や裙帯ねどを身にまとい、薬玉を、親王や上達部が立ち並んでいらっしゃるのに献上する様子は、とても優雅で上品に思われる。薬玉を受け取り、その緒を腰に巻いて、舞いを舞って拝礼される作法も、素晴らしい限りだ。

 紫の紙を使って包み文にして、房の長い藤の枝につけたもの。小忌役の貴公子方が、これまたたいそう優美だ。

(注)汗衫・・・衵(あこめ:束帯や女房装束に用いられた下着の一種)の上に着る童女の服。
(注)帽額・・・簾の上辺に横につけた布。
(注)領布・・・正装の時、肩にかける装飾用の帯状の布。
(注)裙帯・・・腰に結び垂らす紐。
(注)小忌の君・・・新嘗祭や豊明節会の神事に奉仕する。

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無名と言ふ琵琶の御琴を~第九三段

 無名(むみやう)といふ琵琶(びは)の御琴(おんこと)を、上の持て渡らせ給へるに、見などしてかき鳴らしなどいへば、弾くにはあらで、緒(を)などを手まさぐりにして、「これが名よ、いかにとか」と聞こえさするに、「ただいとはかなく、名もなし」と、宣(のたま)はせたるは、なほいとめでたしとこそ覚えしか。

 淑景舎(しげいさ)などわたり給ひて、御物語のついでに、「まろが元に、いとをかしげなる笙(しやう)の笛こそあれ。故殿(ことの)の得させ給へりし」と宣ふを、僧都(そうづ)の君、「それは隆円(りゆうゑん)に賜(たま)へ。おのが元に、めでたき琴(きん)侍り。それに換へさせ給へ」と申し給ふを、聞きも入れ給はで、異事(ことこと)を宣ふに、答(いら)へせ奉らむと、あまたたび聞こえ給ふに、なほものも宣はねば、宮の御前(おまへ)の、「いな、換へじ、とおぼしたるものを」と、宣はせたる御気色(みけしき)の、いみじうをかしきことぞ限りなき。

 この御笛(おんふえ)の名を、僧都の君もえ知り給はざりければ、ただ恨めしうおぼいためる。これは、職(しき)の御曹司(みざうし)におはしまいしほどのことなめり。上の御前(おまへ)に、「いなかへじ」と言ふ御笛も、候(さぶら)ふなり。

 御前(ごぜん)に候ふものは、御琴も御笛も、みな珍しき名つきてぞある。

 玄上(げんじやう)、牧馬(ぼくば)、井手(ゐで)、渭橋(ゐけう)、無名(むみょう)など。また和琴(わごん)なども、朽目(くちめ)、塩釜(しほがま)、二貫(ふたぬき)などぞ聞こゆる。水竜(すいろう)、小水竜(こすいろう)、宇多(うだ)の法師、釘打(くぎうち)、葉二(はふたつ)、なにくれなど多く聞きしかど、忘れにけり。

 「宜陽殿(ぎやうでん)の一の棚(たな)に」といふ言(こと)くさは、頭(とう)の中将こそし給ひしか。

【現代語訳】
 無名(むみょう)という名の琵琶を、帝がお持ちになり中宮様のお部屋にいらしゃったので、女房たちが拝見して、弾くわけではなく、弦をいじって遊んで、「この琵琶の名は、何というのでしょう」と申し上げると、中宮様は「ただ、何ということもなく、名もないのよ」とお答えになられたのは、さすがに素晴らしく思われた。

 中宮様の妹君の淑景舎の方がいらっしゃって、お話のついでに、「私のところにとてもよい笙(しょう)の笛があります。亡くなったお父様が下さったものなのです」とおっしゃるのを、中宮様の弟君の隆円僧都が、「それを私に下さいませんか。私のところに素晴らしい琴がございます。それと交換してください」と申し上げたが、淑景舎の方は全くお聞きにならなずに違う話をなさるのを、隆円様は何とか承知いただこうと、何回も申し上げるのだが、それでも返事をなさらないので、中宮様が、「いなかへじ(交換したくありません)、とお思いになっておられるので」と、代わりにおっしゃってあげた。その才気に溢れるご様子は、たいへん素晴らしいものだった。

 その御笛の名を、隆円様もお知りでなかったので、ただ恨めしくお思いであったようだ。これは、確か中宮の職の御曹司がご滞在中のことだったように記憶する。帝のお手元には、「いなかへじ」という名の御笛があったのである。

 帝がお持ちの楽器には、御琴にも御笛にも、みな珍しい名前がついている。玄上(げんじょう)、牧馬(ぼくば)、井手(いで)、渭橋(いきょう)、無名(むみょう)など。また、和琴にも、朽目(くちめ)、塩釜(しおがま)、二貫(ふたぬき)など。水龍(すいろう)、小水龍(こすいろう)、宇多の法師、釘打(くぎうち)、葉二(はふたつ)など、他にも色々聞いたけれど、忘れてしまった。

 楽器をほめて、「それは宜陽殿の第一の棚に置くべき名器だ」というのは、頭の中将(藤原斉信)の口癖だった。
 

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ねたきもの~第九五段

 ねたきもの。人のもとにこれより遣るも、人の返りごとも、書きてやりつる後、文字一つ二つ思ひ直したる。

 とみの物縫ふに、かしこう縫ひつと思ふに、針を引き抜きつれば、はやく後(しり)を結ばざりけり。また、かへさまに縫ひたるも、ねたし。

 南の院におはします頃、「とみの御物なり。誰も誰も、時かはさず。あまたして縫ひてまゐらせよ」とて、賜はせたるに、南面(みなみおもて)に集まり、御衣(ぞ)の片身づつ、誰かとく縫ふと、近くも向かはず縫ふさまも、いと物苦ほし。命婦(みやうぶ)の乳母(めのと)、いととく縫ひ果ててうち置きつる、ゆだけの片の身を縫ひつるが、そむきざまなるを見つけで、とぢめもしあへず、まどひ置きて立ちぬるが、御背(せ)合はすれば、はやく違(たが)ひたりけり。笑ひののしりて、「早くこれ縫ひ直せ」と言ふを、「誰(たれ)、あしう縫ひたりと知りてか直さむ。綾(あや)などならばこそ、裏を見ざらむ人も、げにと直さめ、無紋(むもん)の御衣なれば、何をしるしにてか、直す人誰もあらむ。まだ縫ひ給はぬ人に直させよ」とて、聞かねば、「さ言ひてあらむや」とて、源少納言、中納言の君などいふ人達、もの憂げに取り寄せてて縫ひ給ひしを、見やりてゐたりしこそ、をかしかしりか。

 面白き萩、薄(すすき)などを植ゑて見るほどに、長櫃(ながびつ)持たる者、鋤(すき)など引き下げて、ただ掘りに掘りて去(い)ぬるこそ、わびしうねたけれ。よろしき人などのある時は、さもせぬものを、いみじう制すれども、「ただすこし」など、うちいひて去ぬる、言ふかひなくねたし。

 受領(ずりやう)などの家にも、もののしもべなどの来て、なめげに言ひ、さりとて我をばいかがせむ、など思ひたる、いとねたげなり。

 見まほしき文(ふみ)などを、人の取りて、庭に下りて見たる、いとわびしくねたく、追ひて行けど、簾(す)のもとにとまりて見たる心地こそ、飛びも出でぬべき心地すれ。

【現代語訳】
 しゃくなもの。こちらから書いた手紙でも返事でも、書き終えて使いに持たせた後で、言葉一つ二つを書き直したくなった時。

 急いで着物を縫うのに、うまく縫えたと思って針を引き抜いたら、糸の尻を結んでおらず、糸がすっぽ抜けた時。また、裏返しに縫ってしまった時もしゃくだ。

 中宮様が、ご実家の南の院にご滞在の頃、「急ぎのお召し物があります。女房たち皆で手分けして、すぐに縫って差し上げよ」とのことで、切地をお下げ渡しになったので、南の明るい部屋に集まって、お召し物の片身ずつを誰が早く縫い終わるかと競争で、互いに向き合うこともなく離れ離れになって縫う様子はどうかしている。命婦の乳母がいち早く縫い終わったのは、裄の長い方の片身だった。裏表を間違えたのに気づかず、糸留めをする間も惜しんで慌しく置いて立ったのはよいけれど、背中を合わせてみたら見事に食い違っている。女房一同、大笑いして騒ぎ立て、「早く縫い直して下さい」と言ったが、乳母は、「誰が間違いに気づくといって直すのです。綾織りなど模様があれば、裏を見なくてもおかしいと分かるので直すでしょう。でも、このお召し物は無文(柄なし)なのだから、何を目印にして直せというのです。まだ縫っていない人に直させたらいいでしょう」と言って聞く耳を持たない。「そんなことを言ってすまされましょうか」と、源少納言、中納言の君といった女房たちが、渋々、お召し物を引き寄せて縫い直している光景は、何とも面白いやり取りだった。

 風情のある萩や薄などを庭に植えて眺めていると、あらかじめ用意した長櫃を持った者が鋤などを引き下げて現れ、あれよあれよという間に堀り取って去っていくのは、しゃくににさわる。男がその場にいればそんな無茶はしないくせに、女だけだと侮って、厳しく咎めても、「少しだけですから」となどと言い、堀り取っていくのは、どうにも手のうちようがなく、しゃくにさわる。

 受領の家などに、立派な家の下僕らがやって来て、無礼な口をきき、腹を立ててもどうすることができるかと、高をくくっているのは、ひどくしゃくにさわるものだ。

 今すぐ読みたいと思っている手紙などを、人が横取りして、庭に降りて読んでいるのは、ひどく情けなく、しゃくで、追いかけたくても、御簾の所に立ち止まって見ていることしかできない。今にでも飛び出して行きたいのに。

(注)受領・・・地方の長官。

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かたはらいたきもの~第九六段

 かたはらいたきもの。客人(まらうと)などに会ひてもの言ふに、奥の方(かた)にうちとけ言(ごと)など言ふを、えは制せで聞く心地。思ふ人のいたく酔(ゑ)ひて、同じ言(こと)したる。聞き居たりけるを知らで、人の上(うへ)言ひたる。それは、名にばかりならねど、使ふ人などだに、いとかたはらいたし。旅立ちたる所にて、下衆(げす)どもの戯(ざ)れ居たる。

 憎げなる児(ちご)を、おのが心地の愛(かな)しきままに、うつくしみ愛(かな)しがり、これが声のままに、言ひたることなど語りたる。才(ざえ)ある人の前にて、才なき人の、ものおぼえ声に人の名など言ひたる。ことによしともおぼえぬわが歌を人に語りて、人の褒めなどしたるよし言ふも、かたはらいたし。

【現代語訳】
 はらはらして困るもの。お客などと会って話をしている時に、奥の部屋で内輪の話などするのを、止めるに止められないで聞いている気持ち。好きな男がひどく酔って、同じことばかり何度もしゃべること。本人が聞いているのを知らずに、その人の噂話をした時。それは、その人が大した身分の人でなくても、使用人などでさえ、とてもいたたまれなくなる。外泊した先で、そこの下男たちがふざけているの。

 可愛げもない幼児を、親だけは可愛く思うものだから、さも愛しくてたまらないふうに、その子の声をまねて、言ったことなどを口真似するの。学問のある人の前で、無学な人が、物知り顔に古人の名などを挙げるの。特によいとも思われない自分の歌を披露し、人が褒めたなどという話をするのも、聞いていていらいらする。

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あさましきもの~第九七段

 あさましきもの。指櫛(さしぐし)すりて磨くほどに、物に突き障(さ)へて折りたる心地。車のうちかへりたる。さるおほのかなる物は、所(ところ)(せ)くやあらむと思ひしに、ただ夢の心地して、あさましうあへなし。

 人のために、はづかしうあしきことを、つつみもなく言ひゐたる。かならず来(き)なむと思ふ人を、夜一夜(ひとよ)起き明かし待ちて、暁がたに、いささかうち忘れて寝入りにけるに、烏(からす)のいと近く、かかと鳴くに、うち見上げたれば、昼になりにける、いみじうあさまし。

 見すまじき人に、ほかへ持て行く文(ふみ)見せたる。むげに知らず見ぬことを、人のさし向かひて、争(あらが)はすべくもあらず言ひたる。ものうちこぼしたる心地、いとあさまし。

【現代語訳】
 驚きあきれるもの。指櫛をこすって磨くうち、物にぶつかって折れた時の気持ち。牛車がひっくり返ったの。あんな大きな物は、どっしりしているだろうと思っていたのに、ただ夢のような気がして、驚きあきれる。

 当人にとって、恥ずかしく具合の悪いことを、遠慮もなく言っているの。必ず来るだろうと思う男を、一晩中起きて待っていて、明け方につい気が緩んで寝入ってしまい、烏がすぐ近くで「かあかあ」と鳴くので、ふと見上げたら、昼になってしまっているのは、たいそう驚きあきれる。

 見せてはならない人に、他へ持って行く手紙を見せてしまったの。こちらが全く知らず見もしないことを、人が面と向かって、反論もできないほど一方的にしゃべること。何かをひっくり返してこぼした時の気持ち、たいそうがっかりする。

(注)指櫛・・・端午の節会のときにかんざしのように頭に挿す菖蒲。

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くちをしきもの~第九八段

 くちをしきもの。五節(ごせち)、御仏名(おぶつみやう)に雪降らで、雨のかきくらし降りたる。節会(せちゑ)などに、さるべき御物忌(ものいみ)のありたる。いとなみ、いつしかと待つことの、さはりあり、にはかにとまりぬる。遊びをもし、見すべきことありて、呼びにやりたる人の来ぬ、いとくちをし。

 男も女も、法師も、宮仕へ所などより、同じやうなる人もろともに、寺へ詣で、ものへも行くに、好ましうこぼれ出で、用意よくいはばけしからず、あまり見苦しとも見つくべくぞあるに、さるべき人の、馬にても車にても行きあひ、見ずなりぬる、いとくちをし。わびては、好き好きしき下衆(げす)などの、人などに語りつべからむをがな、と思ふも、いとけしからず。

【現代語訳】
 残念でならないもの。五節や御仏名の時に、雪が降らないで、雨がうっとうしく降った時。節会などに、しかるべき宮中の物忌みが重なった時。せっせと準備して、今か今かと待ってた催しが、支障があって急に中止になった時。一緒に遊びたかったり、または見せたい物があって呼びにやった人が来ないのは、とても残念だ。

 男も女も僧侶でも、宮仕え所などから、同僚と一緒にお寺参りをしたり何処かに出かけて行くのに、牛車から衣装の裾がこぼれ出るほどに趣向を凝らし、というより度が過ぎて見苦しく見えそうなのに、風流の分かりそうな人に、馬ででも牛車ででも出会うことなく、見られないままで終わってしまうのは、全く残念だ。情けなくなった挙句に、物好きな下層の者でも、人にその噂話をするようなのに行き合わないかな、と思うのも、かなり異常だ。

(注)御仏名・・・罪障消滅の法会。

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二月つごもりごろに~第一〇六段

 二月(きさらぎ)つごもりごろに、風いたう吹きて空いみじう黒きに、雲少しうち散りたるほど、黒戸(くろと)に主殿司(とのもづかさ)来て、「かうてあぶらふ」と言へば、寄りたるに、「これ、公任(きんたふ)の宰相殿の」とてあるを見れば、懐紙(ふところがみ)に、

 少し春あるここちこそすれ

とあるは、げに、今日(けふ)のけしきにいとよう合ひたるも、これが本(もと)はいかでかつくべからむ、と思ひわづらひぬ。「誰(たれ)たれか」と問へば、「それそれ」と言ふ。皆いと恥づかしき中に、宰相の御答(いら)へを、いかで事なしびに言ひいでむ、と心一つに苦しきを、御前に御覧ぜさせむとすれど、上のおはしまして大殿(おほとの)籠りたり。主殿司(とのもづかさ)は、「とくとく」と言ふ。げに、遅うさへあらむは、いと取り所なければ、さはれとて、

 空寒み花にまがへて散る雪に

と、わななくわななく書きて取らせて、いかに思ふらむと、わびし。これがことを聞かばやと思ふに、そしられたらば聞かじと覚ゆるを、「俊賢(としかた)の宰相など、『なほ内侍(ないし)に奏してなさむ』となむ定め給ひし」とばかりぞ、左兵衛(さひやうゑ)の督(かみ)の中将におはせし、語り給ひし。

【現代語訳】
 二月の末ごろ、風がひどく吹いて空がとても黒く、そのうえ雪が少し散らついている時に、黒戸に主殿司が来て、「ごめんください」と言うので、近寄れば、「これは、公任の宰相殿からです」と差し出すのを見ると、懐紙に「少し春になった趣ですね」と書いてあり、いかにも今日の天気に合っているので、この歌の上の句はどう付けたらよいかと思い悩んだ。「殿上の間にはどなた方がいらっしゃるの」と尋ねると、「誰それです」と言う。どなたも皆こちらがたいそう気後れするような立派な方なので、宰相へのお返事は通りいっぺんのものにはできないと、自分だけでは苦しいので中宮様にお目を通していただこうとするが、中宮様は主上がおいでになってお休みになっていらっしゃる。主殿司は「早く早く」と言う。たしかに返事まで遅くては、いかにも取り柄がないので、どうにもなれと思い、「空が寒いので、花に似せて散る雪に」と、震え震えして書いて渡したが、どう思われるかと情けなくなる。このお返事の批評を聞きたいと思うが、もしけなされているなら聞きたくないと思っていると、「俊賢の宰相などが、『やはり主上に奏上してあなたを内侍にしたい』と批評しておられた」とだけ、左兵衛の督の中将だった方が話してくださった。
 

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(注)現代語訳は、現代文としての不自然さをなくすため、必ずしも直訳ではない箇所があります。

古典に親しむ

万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。

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中宮定子について

中宮(皇后と並ぶ天皇の后の最高位)定子(ていし/さだこ)は、中関白と称せられた藤原道隆(ふじわらのみちたか)を父とし、漢詩人として名高い高階貴子(たかしなのきし/たかこ)を母として誕生。正暦元年(990年)2月、一条天皇の後宮に女御として入内し、同年10月に中宮となった。(この時、天皇11歳、定子15歳)
 
清少納言が始めて出仕したとされる正暦4年のころは、中関白家が栄華を極めていた時期で、定子の宮廷生活も華やかに賑わい立つ日々だった。定子は生来のすぐれた資質に加え、父の明るい性格や母の学才を受けついで、周囲の人間をひきつけずにはおかない人柄だった。その並びない才色で、一条天皇の寵愛を一身に受けた。
 
しかし、長徳元年(995年)に道隆が死去、次いで定子の叔父の道兼が急死すると、その栄華は一転した。政権を掌握した道長の圧迫を受けて、兄の伊周(これちか)や弟の隆家(たかいえ)は失脚させられた。伊周が大宰権師として京を下るに際し、定子はみずから髪を下ろして尼となった。さらにその年に母も亡くなり、身辺は失意と悲しみに包まれた。それでも天皇のご寵愛は続き再び参内、内親王と親王を出産した。
 
長保2年(1000年)に道長の娘・章子が中宮に冊立されたため、定子は皇后となったが、2人目の内親王を出産した翌日、後産のため24歳の若さで死去した。その後、道隆の中関白家は没落の一途をたどり、定子の生んだ 敦康(あつやす)親王は、后腹の第一皇子でありながら即位できなかった。


 

 

後宮について

後宮
皇后や妃などや、その子、またそれらに仕える女官たちが住まう宮中奥向きの宮殿。一般的に、後宮は男子禁制というイメージがあるが、日本の内裏では必ずしもそうではなかった。後宮の女性の人数は全部で数百人、多い時には千人を越えた。

皇后
今上天皇の正妻。「きさき」または「きさきのみや」とも呼ぶ。もとは皇族から立たれていたが、奈良時代の光明皇后の時から人臣から出るようになった。
 
中宮
皇后と同資格をもつ后。皇后が二人立てられたときの名残の異称で、2番目以降の者をさす場合が多かった。「中宮」の本来の意味は「皇后の住居」。転じて、そこに住む皇后その人を指して中宮と呼ぶようになった。
 
女御
「皇后」「中宮」に次ぐ地位で、「更衣」の上位。 摂政・関白・大臣の娘から出るのがふつうだった。 桓武天皇のときに始まり、初めは地位が低かったが、次第に高くなり、醍醐天皇の女御の藤原穏子(ふじわらのおんし)以後は、女御から皇后にあがるようになった。
 
更衣
もとは天皇の着替えの役目をもつ女官の職名だったが、後に天皇の妻の呼称となる。大納言およびそれ以下の家柄の出身の女で、女御に次ぐ地位。ふつう四、五位だったが、後に女御に進む者も出た。
 
御息所
女御・更衣を漠然とした言い方。また皇太子妃を指す場合もある。

女官・女房
尚侍(ないしのかみ)
後宮の役所である内侍司の長官。のちに女御、更衣に準じる后妃的な存在になった。摂関家の娘などがなる。
典侍(ないしのすけ)
内侍司の次官。尚侍の后妃化にともない実質的に長官の役割を担うようになった。
掌侍(ないしのじょう)
内侍司の三等官で、その長を勾当掌侍(こうとうのないし)という。命婦や女孺らを指揮して内裏内や儀礼の事務処理をした。
命婦(みょうぶ)
尚侍・典侍・内侍侍に次ぐ、五位以上の位階を有する中級の女官。
女孺(にょじゅ)
内侍司に属し、掃除や照明をともすなどの雑務に従事した下級女官。
その他
紫式部や清少納言は、こうした女官ではなく、后に仕える女房だった。 上級の者には「房(ぼう)」と呼ばれる部屋が与えられたため、そこからそうした女性を「女房」と呼ぶようになった。女房たちは、後宮内での接待や取次、主への御進講(学問の講義)などの仕事のほか、主の話相手になり、身の回りの世話もした。ただし、后や天皇に仕える女房たちが「官人」だったかどうかは定かでなく、后妃が私的に主従関係を結んでいたとする説もある。

『枕草子』の各段②

  1. いみじう心づきなきもの
  2. わびしげに見ゆるもの
  3. 暑げなるもの
  4. はづかしきもの
  5. 無徳なるもの
  6. 修法は
  7. はしたなきもの
  8. 八幡の行幸のかへらせ給ふに
  9. 関白殿、黒戸より出でさせ給ふ
  10. 九月ばかり、夜一夜
  11. 七日の日の若菜を
  12. 二月、官の司に
  13. 頭の弁の御もとより
  14. などて、官得はじめたる
  15. 故殿の御ために
  16. 頭の弁の、職にまゐり給ひて
  17. 五月ばかり、月もなういとくらきに
  18. 円融院の御はての年
  19. つれづれなるもの
  20. つれづれなぐさむもの
  21. とり所なきもの
  22. なほめでたきこと
  23. 殿などのおはしまさで後
  24. 正月十よ日のほど
  25. きよげなる男の
  26. 碁を、やむごとなき人のうつとて
  27. おそろしげなるもの
  28. きよしと見ゆるもの
  29. いやしげなるもの
  30. 胸つぶるるもの
  31. うつくしきもの
  32. 人ばへするもの
  33. 名おそろしきもの
  34. 見るにことなることなきものの
  35. むつかしげなるもの
  36. えせものの所得るをり
  37. 苦しげなるもの
  38. うらやましげなるもの
  39. とくゆかしきもの
  40. 心もとなきもの
  41. 故殿の御服のころ
  42. 弘徽殿とは
  43. むかしおぼえて不用なるもの
  44. たのもしげなきもの
  45. 読経は
  46. 近うて遠きもの
  47. 遠くて近きもの
  48. 井は
  49. 野は
  50. 上達部は
  51. 君達は
  52. 受領は
  53. 権の守は
  54. 大夫は
  55. 法師は
  56. 女は
  57. 六位の蔵人などは
  58. 女の一人住む所は
  59. 宮仕へ人の里なども
  60. ある所になにの君とかや
  61. 雪のいと高うはあらで
  62. 村上の前帝の御時に
  63. 御形の宣旨の
  64. 宮に初めて参りたるころ
  65. したり顔なるもの
  66. 位こそ猶めでたき物はあれ
  67. かしこきものは
  68. 病は
  69. 十八九ばかりの人の
  70. 八月ばかりに、白き単
  71. すきずきしくて
  72. いみじう暑き昼中に
  73. 南ならずは東の
  74. 大路近なる所にて聞けば
  75. ふと心おとりとかするものは
  76. 宮仕人のもとに
  77. 風は
  78. 八九月ばかりに雨にまじりて
  79. 九月つごおり、十月のころ
  80. 野分のまたの日こそ
  81. 心にくきもの
  82. 五月の長雨のころ
  83. ことにきらきらしからぬ男の
  84. 島は
  85. 浜は
  86. 浦は
  87. 森は
  88. 寺は
  89. 経は
  90. 仏は
  91. 書は
  92. 物語は
  93. 陀羅尼はあかつき
  94. あそびは秋
  95. あそびわざは
  96. 舞は
  97. 弾くものは
  98. 笛は
  99. 見ものは
  100. 賀茂の臨時の祭
  101. 行幸にならぶものは
  102. 祭のかへさ
  103. 五月ばかりなどに山里にありく
  104. いみじう暑きころ
  105. 五月四日の夕つかた
  106. 賀茂へまゐる道に
  107. 八月つごもり
  108. 九月廿日あまりのほど
  109. 清水などにまゐりて
  110. 五月の菖蒲の

※底本は、三巻本に属する柳原紀光自筆本による。本によって章段の分量や順序が異なっている。

おもな登場人物

一条天皇(いちじょうてんのう)
第66代天皇。円融天皇の第一皇子。7歳で即位し、外祖父の藤原兼家が摂政を務め、その後も兼家の息子の道隆や道兼が相次いで摂政・関白を、道長が内覧を務めるなど、藤原氏が全盛へと向かう時期を過ごした。

右近内侍(うこんのないし)
伝不詳。一条天皇に仕えた女房で、藤原定子との関りも深かったらしく、定子のもとによく出入りしていたことが確認できる。

小兵衛(こひょうえ)
清少納言と同じく定子に仕えていた女房。清少納言は小兵衛のことを「年若き人」と書いており、定子に仕えて間もない10代半ばから後半くらいの新米女房だったのではないかと見られている。

宰相の君(さいしょうのきみ)
藤原重輔の娘。位の高い女房(上臈)だった人物。『枕草子』では、教養に優れ、字の美しい女性として描かれている。

橘則光(たちばなののりみつ)
清少納言の初婚の相手。陸奥守などを務めた。性格の不一致から離婚したが、その後も兄妹のような関係が続いた。

中納言の君
藤原定子の父・道隆の叔父の娘。位の高い女房(上臈)だった人物。小柄で太っていたという。

藤原原子(ふじわらのげんし)
定子の妹。『枕草子』では「淑景舎(しげいしゃ)」や「中の姫君」という呼称で登場する。一条天皇の東宮・居貞親王(のちの三条天皇)の妃となった。

藤原伊周(ふじわらのこれちか)
定子の兄。父の道隆が亡くなった後、叔父の道長との政争に敗れ、京から追放される。翌年には帰京したが、政治的に力を得ることはできなかった。

藤原隆家(ふじわらのたかいえ)
定子と伊周の弟。武勇に優れた人物として知られる。花山上皇を矢で射ろうとしたという事件により、兄・伊周とともに配流されたが、のちに帰京して中納言までのぼった。

藤原斉信(ふじわらのただのぶ)
漢詩や和歌に精通した人物で、政務にも優れた有能な人物だった。藤原道長の信頼厚く、一条天皇期の四納言に挙げられる。

藤原定子(ふじわらのていし)
藤原道隆と高階貴子の娘。兄に伊周、弟に隆家がいる。一条天皇に入内し、藤原道長の娘・彰子が中宮となったときに、自身は中宮から皇后になった。中関白家の不遇後も天皇の寵愛は続いたが、2人目の内親王を出産した翌日、後産のため24歳の若さで死去した。なお、『枕草子』には、定子の身辺について詳しく記しているものの、定子の不遇に関しては、ほとんど触れていない。

藤原道隆(ふじわらのみちたか)
藤原兼家と時姫の息子。同母の兄妹に道兼・道長・超子・詮子がいる。子に道頼・伊周・定子・隆家・原子など。一条天皇が即位し、父・兼家が権力を握ると、自らも昇進を重ね、父の死後、摂政に就き、のちに関白になった。娘の定子を一条天皇に、原子を三条天皇に入内させるなど、中関白家の栄華を築いた。病気になり、関白の位を伊周に譲ろうとしたが、果たせぬまま亡くなった。

藤原行成(ふじわらのゆきなり)
一条天皇や藤原道長からの信頼も厚く、四納言に挙げられる。能筆で知られ、「三蹟」の一人。清少納言とも親しかった。

御匣殿(みくしげどの)
藤原道隆の四女。実名は不詳。母を同じくする長姉の定子に御匣殿(裁縫する場所)別当として仕える。

隆円(りゅうえん)
伊周・定子・隆家の弟。「隆円」は出家後の名で、実名は不詳。『枕草子』には「僧都の君」の名で登場する。権大僧都までのぼった。

三大随筆の比較

枕草子
 
1002年に成立。作者は清少納言。「山は」「川は」などの類聚的な段、自然と人事についての随想的な段、宮仕え中に体験・見聞した日記・自伝的な段などの諸段からなる。自然や人生の美をとらえようとする精神にあふれ、「をかし」の文学と呼ばれる。体言止め・連体形止め・省略などを用いた簡潔な文章で、ほぼ300段からなっている。
 
方丈記
 1212年に成立。作者は鴨長明。前半は、作者の体験した安元の大火・治承の大風、同年の福原遷都・養和から寿永と続いた飢饉・元暦の大地震などの天災地変について記し、後半は自身の閲歴を述べ、続いて草庵での閑寂生活を綴っている。全編を通じて無常観と隠者としての厭世思想が主軸となっている。簡潔な和漢混交文。『枕草子』や『徒然草』のように分段形式はとらず、一貫して流れる筋を一気呵成に展開させている。
 
徒然草
 1330年に成立。作者は兼好法師(吉田兼好)。200数十段からなり、多種多様の随想・見聞を綴っている。有職故実の知識や深い学問教養に基づく趣味論や、無常観に根ざす人生論、また仏教的思想の叙述や過去の回想的記述もある。無常観を基盤に鋭い批判をこめた、さまざまな文体からなっている。

参考文献

新明解古典シリーズ 枕草子
~桑原博史/三省堂

新版 枕草子(上・下)
~石田穣二/角川ソフィア文庫

枕草子
~池田亀鑑/岩波文庫

ビギナーズ・クラシックス日本の古典 枕草子
~角川書店

ヘタな人生論より枕草子
~萩野文子/河出文庫

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