多くの側室を抱えながら、なかなか子宝に恵まれなかった豊臣秀吉ですが、1588年に秀吉の側室となった淀君が、翌年に第1子となる捨(鶴松)を産みます。しかし、鶴松はわずか2歳で早世。悲嘆に暮れる秀吉でしたが、1593年に再び淀君が懐妊し、拾(後の秀頼)が生まれます。すでに50歳を超えていた秀吉は喜びも一入(ひとしお)でしたが、実は「秀頼は秀吉のほんとうの子ではなかった」というウワサがあります。
秀吉が亡くなったのは、秀頼がまだ6歳のときで、その後の秀頼は、小柄だった秀吉とは似ても似つかない身長2m近い大男に成長しました。人々は「あれは太閤の子ではない」とウワサし合いました。もし秀吉がそのころまで生きていたら、彼にもおそらく大きな疑心暗鬼を生じたことでしょう。
本当の父親ではないかと疑われている男は何人かいますが、その筆頭は、秀吉側近の大野治長です。彼は淀君付の乳母の子で、淀君の推薦で秀吉の側近となった人物です。かなりの美男子で、淀君や奥女中らに茶道の手ほどきをしたといいます。淀君も彼を近くにおき、片時も離さなかったようです。そして、大坂夏の陣では、治長は秀頼の側近として殉死しています。最期まで秀頼に従ったのは、もしかして親子の情によるものだったのでしょうか。
と、ここまではよく聞かされるお話だと思います。しかし、実はもっと深い闇に包まれたお話があるのです。秀吉は自分に子ができないのを自覚しており、鶴松もそうですが、秀頼が自分の子ではないのはとうに承知していたというんです。端的にいえば、ある「手続き」によって敢えて他人の”種”を借りて懐妊した。ただ、秀頼のときは、秀吉と淀君との間に、懐妊に至るまでの意思疎通?に齟齬があって一悶着が・・・・・・。
どういうことかというと、秀吉が長期不在の間に、淀君が勝手に、秀吉も了解していた前回の手続き(鶴松のとき)と同じ方法で、他人の種を借りて懐妊してしまったのです。これを知った秀吉は激高したものの、やむなく事後的に認めざるを得ませんでした。このへんはかなりドロドロした話になるのでこれ以上は触れませんが、要するに秀吉は、秀頼が実子でないのを承知で、あえて後継者にしようとしたわけです。
そして、関白・秀次が秀吉に背いたのは、自分の地位が危うくなったからというより、そのことに猛反発したためではないかといわれます。さらに、関が原の戦いで、多くの豊臣恩顧の大名たちが、いとも簡単に徳川家康側の東軍に寝返ったのも、同じ理由が大きく影響しているのではないか、って。いやーまさに戦国の闇、タブーといってよい、おぞましいお話が隠されているのであります。
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