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日本史年表

先土器時代縄文時代弥生時代古墳時代飛鳥時代奈良時代平安時代鎌倉時代室町時代安土桃山時代江戸時代明治時代大正時代昭和時代平成時代

鎌倉時代

1192 頼朝が征夷大将軍となり鎌倉幕府を開く
  • 頼朝は、おもに関東の武士を家来とし、武士の政府をつくっていった。頼朝の家来になった武士を御家人という →御恩と奉公。封建制度
1199 頼朝が亡くなり、子の頼家が2代将軍に。実権が北条氏に移る
1203 源実朝が3代将軍となる
運慶快慶らが東大寺の南大門金剛力士像をつくる
このころ執権政治が始まる。・・・初代執権は北条時政
1205 藤原定家らが「新古今和歌集」を編さんする
1212 鴨長明が「方丈記」を著す
1219 実朝が暗殺され、源氏が3代で絶える
北条政子が政治の実権をにぎる。→「尼将軍」
1221 承久の乱
  • このあと、京都に六波羅探題をおく。→朝廷や西国の武士を監視
1224 親鸞浄土真宗を広める
1227 道元が宋から帰り、曹洞宗を伝える
1232 御成敗式目(貞永式目)がつくられる
  • 第3代執権北条泰時がつくった最初の武士による法律(全51か条)
1235 このころ「平家物語」「小倉百人一首」「源平盛衰記」などが著される
1249 引付衆を置く
1252 鎌倉に大仏ができる
1253 日蓮法華経(日蓮宗)を広める
1260 日蓮が「立正安国論」を著し、翌年、伊豆に流される
1268 北条時宗が執権となり、元の使者を追い返す
1274  文永の役
  • 元の大軍が来攻、対馬・壱岐、次いで博多付近に上陸したが、暴風雨によって引き上げた。元寇
1275 異国警固番役を定める
1281  弘安の役
  • 元が再度博多に来襲。14万の大軍で迫ったが、日本軍の応戦と暴風のために壊滅した
1284 北条貞時が執権になる
1293 鎮西探題が設置される
1297 幕府が徳政令を出し、御家人の困窮を救う(永仁の徳政令
1318 後醍醐天皇が即位
1321 後醍醐天皇が親政を開始する
1324 正中の変
1331 元弘の変
  • 後醍醐天皇が鎌倉幕府を討とうとしたが、失敗
  このころ吉田兼好の「徒然草」なる
1332 後醍醐天皇が隠岐に流される 
1333 鎌倉幕府が滅びる
  • 楠正成新田義貞足利尊氏らが後醍醐天皇に味方
1334 建武の新政
  • 後醍醐天皇が、公家と武士を統一して天皇中心の政治を始める。しかし、その政治は貴族(公家)を重んじ、武士への恩賞も少なかったので、武士の間に天皇の政治への不満が高まった
1335 足利尊氏が挙兵
1336 足利尊氏が建武式目を制定
1336 南北朝の対立
  • 南朝・・・後醍醐天皇は吉野にのがれ、そこで政治を続けようとした
  • 北朝・・・京都に入った足利尊氏は、新しい天皇をむかえた

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室町時代

1338 足利尊氏が征夷大将軍に任ぜられ、京都に室町幕府を開く
1341 天竜寺船を元に送る
1349 関東管領をおき、足利基氏がこれに任じる
このころ倭寇が中国の沿岸を荒らす
1359 このころ「太平記」「増鏡」が著される
1367 高麗が倭寇の禁止を要請する
1368 足利義満が3代将軍になる
1369 明の洪武帝が倭寇の禁止を要請する
1374 観阿弥・世阿弥が新熊野神社で猿楽を上演する
1378 足利義満が室町邸(花の御所)に移る
1392 南北朝の合一
  • しだいに北朝・幕府側の力が強まり、南朝側の武士は少なくなった。1392年、3代将軍足利義満は南朝と講和して京都で一つの朝廷になるようにした
1394 義満が将軍職を足利義持に譲る
1397 足利義満が京都の北山に金閣寺を建てる。→北山文化
1399 大内義弘が幕府にそむく(応永の乱)
1401 足利義満が明と貿易を始め、倭寇の取りしまりを約する
1402 世阿弥が『風姿花伝』を著す
1404 勘合貿易が始まる。
  • 倭寇と区別するために正式の貿易船に勘合という割札をもたせた
このころ永楽銭が国内で流通する
1428 正長の土一揆が起こる
  • 近江国の馬借が徳政令を要求して起こした。大規模な一揆の最初
1439 上杉憲実が足利学校を再興する
1441 嘉吉の土一揆が起こる
1443 足利義政が8代将軍となる
1450 このころ能楽・狂言が栄え、茶の湯・生け花・連歌などが流行する
このころ勘合貿易がさかんに行われ、明銭が輸入される
1467 応仁の乱がおこる
このころ公家や僧侶が戦乱をのがれて地方に下り、京都文化が地方に広がる
1477 応仁の乱が終わって武将が帰国し、戦乱が地方に広がる
  • 下剋上 →戦国時代
1485 山城の国一揆が起こる
  • 山城国(京都府)で土着の武士と農民が、国内で争っていた守護大名を追い出し、8年間自治を行った
1488 加賀の一向一揆が起こる
  • 加賀国(石川県)で一向宗門徒が、守護の富樫氏を追い出し、約100年間にわたって自治を行った
1489 足利義政が京都東山に銀閣寺を建てる →東山文化
1493 北条早雲が伊豆に進出
1500 このころ朝廷がおとろえ、公家・貴族などが多く地方に下る
1543 ポルトガル人が九州の種子島鉄砲を伝える
1549 フランシスコ・ザビエルが鹿児島に来て、キリスト教を伝える
1555 川中島の合戦
  • 上杉謙信と武田信玄が信州(長野県)の川中島で戦った
1560 桶狭間の戦い
  • 織田信長が今川義元を滅ぼす
1565 将軍・義輝が三好義継・松永久秀らに殺される
1568 織田信長が足利義昭を迎え、入京。義昭が将軍となる
1571 織田信長が比叡山延暦寺の焼き討ちを行い、一向一揆をしずめる
1573 室町幕府の滅亡
  • 信長が足利義昭を追放

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安土桃山時代

1575 長篠の戦い
  • 織田信長が武田勝頼をやぶる(足軽の鉄砲隊が活躍)
1576 信長が安土城(滋賀県)を築く
1577 信長が安土に楽市の制をしく
1582 本能寺の変
  • 信長が京都の本能寺で明智光秀におそわれ、自刃
1582 山崎の戦い
  • 羽柴秀吉が明智光秀をやぶる
1582 秀吉が山城(京都府)で検地を行う
1582 大友・有馬・大村ら九州のキリシタン大名が少年使節をローマに送る
1583 秀吉が賤ケ嶽の戦いで柴田勝家をやぶる
秀吉が大阪城を築く
1585 秀吉が関白となる。五奉行をおく
1586 秀吉が太政大臣になり、豊臣の姓を与えられる
1587 秀吉が島津氏を討って九州を従える
秀吉がキリスト教を禁止する 
秀吉が京都に聚楽第をつくり、北野で大茶会を催す
1588 秀吉が刀狩りを行う
  • 農民から刀・やり・鉄砲などの武器を取り上げ、農民が武器を持つことを禁止する
1590 秀吉が全国統一
  • 小田原の北条氏をやぶる
1592 秀吉が朝鮮出兵を命ずる(文禄の役
貿易船に朱印状を渡し、貿易をすすめる(朱印船
1594 秀吉が全国にわたり検地を行う(太閤検地
  • 村ごとに田畑のよしあしや面積・収穫高、耕作をして年貢を納める農民を調べ、それを検地帳に記入。検地と刀狩りによって、農村に住む農民と城下町に住む武士の身分の区別がはっきりした
1597 秀吉が再び朝鮮に出兵する(慶長の役
1598 秀吉が醍醐の花見を行う
秀吉が死去
1600 関ヶ原の戦い
  • 豊臣秀吉が死ぬと、徳川家康の勢いが強まった。
    1600年に、家康は石田三成らの豊臣方の軍を関ヶ原(岐阜県)にやぶって、全国の大名を従えた。
    天下分け目の戦い 関ヶ原の戦いには、全国のほとんどの大名が徳川方(東軍)と豊臣方(西軍)に分かれて戦った
1603 出雲(島根県)の阿国が歌舞伎踊りを始める

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江戸時代

1603 徳川家康が征夷大将軍となり、江戸幕府を開く
1605 家康が、将軍職を秀忠にゆずる
1607 朝鮮使節(朝鮮通信使)が来日
1609 オランダの商館を平戸(長崎県)におき、オランダと貿易を始める
1612 徳川幕府が直轄領に禁教令を出す
1613 伊達政宗が支倉常長をヨーロッパに派遣する
徳川幕府が禁教令を全国に広げる
1614 大阪冬の陣
  • 家康が大阪城の豊臣秀頼を攻める
1615 大阪夏の陣
  • 豊臣氏が徳川氏に滅ぼされる
徳川幕府が武家諸法度禁中並公家諸法度を定める
1616 ヨーロッパ船の来航を平戸と長崎に制限する
家康が死去
1621 このころ、シャム、インドシナ、ルソンなどに日本人町が栄える
1623 家光が3代将軍となる
1624 スペイン船の来航を禁止する
1625 関所・駅伝の制を定める
1629 幕府がキリスト教徒の発見に踏み絵を用いる
1634 長崎に出島が築かれる
1635 日本人の海外渡航を禁じ、御朱印船を廃止する
大名の参勤交代が制度化される
  • 3代将軍家光のとき。大名は1年おきに江戸と領地を往復。妻子はつねに江戸に居住
1637 島原の乱
  • 肥前(長崎県)の島原半島と肥後(熊本県)の天草地方に起こった農民一揆。幕府のキリシタン弾圧と領主のきびしい政治に対し、益田四郎時貞(天草四郎)を首領として一揆を起こした
五人組の制をきびしくする
1639 ポルトガル船の来航を禁止する →鎖国の完成
1641 オランダ人を長崎の出島に移す
1644 宗門改めの制を定める
1649 慶安の御触書が出される。→農民の取りしまり
1651 慶安の変
  • 由井正雪を首謀者とする浪人たちがくわだてた幕府批判の反乱未遂事件
1657 徳川光圀が「大日本史」編集に着手
1657 江戸で明暦の大火。江戸城本丸が焼失
1669 蝦夷でシャクシャインの反乱
1670 箱根用水がつくられる
1671 河村瑞賢が東回り航路をひらく
1672 河村瑞賢が西回り航路をひらく
1680 綱吉が5代将軍となる
1681 このころ、井原西鶴松尾芭蕉らが活躍する
1687 生類憐みの令が出される
このころ、元禄文化がさかん
1688 柳沢吉保が側用人になる
1689  松尾芭蕉が「奥の細道」を著す
1690 聖堂を湯島に移し、昌平坂学問所を付設する
1702 赤穂浪士があだ討ちをする
1703 近松門左衛門が「曽根崎心中」を著す 
1709 新井白石の改革(正徳の治
  • 綱吉の死後、学者の新井白石が6代将軍家宣、7代将軍家継につかえて財政の立て直しを図ったが、効果はうすかった
1716 吉宗が8代将軍となる →享保の改革 
1717 大岡忠相が江戸町奉行に就任する 
1720 江戸町火消しをつくる
キリスト教以外の洋書の輸入を許す 
1721 目安箱を置いて人々の不満をきく 
1722  上げ米の制をもうけ、参勤交代をゆるめる
  • 上げ米の制  大名の江戸滞在を半年(それまでは1年)とするかわりに、石高1万石につき100石の割合で米をさし出させるようにした制度
1723  足高の制を定め、人材を登用する
1727  青木昆陽がさつまいもの栽培を始める
1732  享保の大飢饉
このころ、各地に百姓一揆や打ちこわしが起こる
1742 公事方御定書を出し、裁判の基準を定める
1751  吉宗が死去
1767 田沼意次が側用人になる
1774 杉田玄白前野良沢らが「解体新書」を著す
  • オランダの医学書「ターヘル=アナトミア」を翻訳
1776 平賀源内エレキテル(発電機)をつくる
1779 このころ田沼父子が権力をふるう(田沼時代) 
1783 天明の大飢饉がおこる 
1786 最上徳内が千島・樺太を探検する 
1787 松平定信が老中筆頭になる。 →寛政の改革 
1790 朱子学以外の学問を禁止する(寛政異学の禁) 
1792 林子平が「海国兵談」を著し、罰せられる
ロシアの使節ラックスマンが根室に来る
1798 本居宣長が「古事記伝」を著す 
1802 十返舎一九が「東海道中膝栗毛」初編を著す
1804 ロシア使節レザノフ来航
1808 間宮林蔵が樺太を探検する
1821 伊能忠敬による「大日本沿海輿地全図」が完成
1823 シーボルトが鳴滝塾を開く
1825 幕府が外国船打払い令を出す 
1828 シーボルト事件 
1832 葛飾北斎の「富嶽三十六景」ができる
1833 天保の大飢饉
歌川広重の「東海道五十三次」ができる
1837 大塩平八郎の乱
  • 大阪で陽明学者で大阪奉行所の元役人の大塩平八郎が、貧しい人々を救おうとして奉行所に申し入れたが聞き入れられず、兵をあげた。乱は1日でしずめられたが、大阪は直轄地であり、また元役人であったことから、幕府は大きなショックを受けた
1839 蛮社の獄
  • 渡辺崋山・高野長英らが幕府の鎖国政策を批判してとらえられる
1841 天保の改革
  • 老中水野忠邦による。株仲間をつくることを禁止したり、人返しの法などによって都市に出ていた農民を村に帰させたり、、倹約令を出してぜいたくを取りしまったが、失敗に終わった
滝沢馬琴が「南総里見八犬伝」を著す 
このころ各地にマニュファクチャー(工場制手工業)が起こる 
1853 アメリカの使節ペリーが来航し、浦賀で開国を要求する
  • アメリカのペリーが軍艦4隻をひきいて浦賀(神奈川県)に入港し、開国を求めた。幕府は翌年に返事をすると約束し、朝廷に報告するとともに大名にも意見を求めたがまとまらず、開国か鎖国かで国内はゆれ動いた
1854 ペリーが再び来航し、日米和親条約(神奈川条約)を結ぶ
  • 下田・函館の2港を開いて、アメリカ船に食料や燃料を与える約束をした。
  • ついで、ロシア・イギリス・オランダとも和親条約を結んだ→鎖国の終了
1856 アメリカの総領事ハリスが下田に着任する
  吉田松陰が松下村塾を開く
1858 井伊直弼が大老になり、アメリカ・ロシア・イギリス・フランスと修好通商条約を結ぶ
  • 神奈川・長崎・函館・兵庫・新潟の5港を開く
1859 安政の大獄
  • 大老井伊直弼は、朝廷の許しを得ずに通商条約を結び、それを批判した諸大名や数多くの志士(吉田松陰・橋本左内など)をとらえて死刑や島流しにした
1860 桜田門外の変
  • 水戸藩の脱藩者らによって、井伊直弼が暗殺される
1862 孝明天皇の妹・和宮が将軍家持と結婚し、公武合体運動がすすめられる
  • 公武合体の動きに対して、薩摩藩と長州藩では尊王攘夷論がますます強まった
生麦事件
  • 横浜近くの生麦村で、薩摩藩士がイギリス人を殺傷
1863 薩英戦争
  • 生麦事件への報復として、イギリスが鹿児島湾を砲撃する
1864 長州藩士が京都御所を襲う(蛤御門の変) 
下関事件 
  • アメリカ、イギリスなど4か国の艦船が下関を砲撃、占領する
長州征伐(第一次) 
1865 長州征伐(第二次)
  • 幕府は、尊王攘夷論の中心であった長州藩をたおそうと2度にわたって出兵し、1度目は降伏させたが2度目は失敗に終わった
物価が上がり、各地で打ちこわしが起こる
1866 薩摩藩と長州藩が連合する(薩長連合
  • 土佐藩出身の坂本竜馬のなかだちで、薩摩藩代表の西郷隆盛・大久保利通、長州藩の木戸孝允らがひそかに軍事同盟を結び、岩倉具視ら京都の公家らも加わり、幕府をたおす計画を進めた
1866 家持が死去し、徳川慶喜が第15代将軍となる 
福沢諭吉が「西洋事情」を著す
1867 大政奉還
  • 前土佐藩主の山内豊信は、坂本竜馬らの意見をとり入れ、15代将軍徳川慶喜に政権を朝廷に返すようすすめた。慶喜はこれを受け入れ、大政奉還を申し出た。これによって約260年続いた江戸幕府はたおれ、鎌倉幕府が開かれてから700年近く続いた武家政治は終わりをつげた
1867 王政復古の大号令 
1868 五箇条の御誓文が発せられる
  • 新政府の政治の方針。天皇が神に誓うというかたちで発表された。同時に民衆に対し、五榜の掲示
1868 江戸城開城
1868 戊辰戦争
  • 西郷隆盛と幕府の勝海舟との話し合いによって、江戸は戦火から守られたが、徳川慶喜に対する朝廷の処置に不満をもった旧幕府側の大名や武士たちは、薩長を中心とする新政府と対立し、各地で反抗した。鳥羽・伏見の戦いから函館五稜郭の戦いで抵抗したが、新政府軍に敗れた。この一連の戦いを戊辰戦争という

先土器時代縄文時代弥生時代古墳時代飛鳥時代奈良時代平安時代鎌倉時代室町時代安土桃山時代江戸時代明治時代大正時代昭和時代平成時代

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がんばれ中学受験生!

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日本文化史

飛鳥文化
中国の六朝文化やギリシャ・インドの影響もみられる。わが国の仏教芸術の始まり。

白鳳文化
遣唐使によって唐の文化がもたらされる。生命力、創造力の充実した文化。

天平文化
唐文化の影響や仏教的性格が顕著。律令政治を背景にした貴族文化。古典的様式の完成。

国風文化
遣唐使が廃止され、日本独自の貴族文化が誕生。仮名文学、寝殿造、大和絵、浄土教美術など。

鎌倉文化
武家政権の成立により、それまでの優雅な公家文化と素朴で力強い武家文化が共存して新しい文化が発展。

北山文化
禅宗を背景とした武家文化と公家文化が融合。足利義満の時代に開花。水墨画、能など。

東山文化
武家文化と公家文化の融合に加え、文化の地方への普及。足利義政の時代。わび、さびという新しい美意識。

桃山文化
南蛮文化の影響が加わった自由清新な文化。振興の権力者や豪商が担い手。現実色が強く、豪放、絢爛。

元禄文化
上方の富裕な町人を中心とした、現実主義的で儒教的道徳に束縛されない自由な文化。

化政文化
江戸の町人を中心とした文化。刹那的、退廃的な色合いが強い。粋、通がもてはやされた。

おもな戦国武将

北条早雲(1432)
斎藤道三(1494?)
毛利元就(1497)
山本勘助(1500)
松永久秀(1510)
織田信秀(1510)
立花道雪(1513)
尼子晴久(1514)
北条氏康(1515)
武田信玄(1521)
柴田勝家(1522)
滝川一益(1525)
明智光秀(1528)
龍造寺隆信(1529)
上杉謙信(1530)
大伴宗麟(1530)
吉川元春(1530)
朝倉義景(1533)
小早川隆景(1533)
島津義久(1533)
前田利益(1533?)
織田信長(1534)
島津義弘(1535)
丹羽長秀(1535)
荒木村重(1535)
豊臣秀吉(1536)
池田恒興(1536)
佐々成政(1536)
足利義昭(1537)
北条氏政(1538)
前田利家(1538)
長宗我部元親(1539)
徳川家康(1542)
竹中重治(1544)
浅井長政(1545)
黒田孝高(1546)
武田勝頼(1546)
山内一豊(1546)
浅野長政(1547)
真田昌幸(1547)
島左近(1548?)
本田忠勝(1548)
高山右近(1552)
堀秀政(1553)
毛利輝元(1553)
小西行長(1555)
上杉景勝(1556)
蒲生氏郷(1556)
藤堂高虎(1556)
小西行長(1558?)
大谷吉継(1559)
石田三成(1560)
直江兼続(1560)
福島正則(1561)
加藤清正(1562)
細川忠興(1563)
池田輝政(1564)
伊達政宗(1567)
真田幸村(1567)
立花宗茂(1567)
黒田長政(1568)
小早川秀秋(1582)
 
( )内は生年です。


(織田信長)

江戸時代の都市

幕府が直接治めた江戸、大阪、京(京都)は、文化の中心となり「三都」とよばれた。

江戸
徳川将軍家を君主とする江戸幕府の所在地であり、「将軍のお膝元(ひざもと)」とよばれた。五街道も江戸の日本橋を起点に整備され、水運も整えられた。江戸時代の中ごろには、人口が100万人をこえる大都市となった。

大阪
全国から物資が集まる商業のさかんな都市だったため、「天下の台所」とよばれた。とくに当時生産力の高かった西日本を後背地としていたため、大都市に成長した江戸の消費を支えた。また、各地の藩は、大阪に蔵屋敷を設け、年貢米や特産物を運んで商いをし、現金(貨幣)にかえた。

京(京都)
平安京以来、朝廷がおかれた地であり、伝統のある文化都市として栄えた。神社仏閣も多く、諸宗派の本山が集まる宗教都市としてのの機能もあった。また、西陣織など高度な技術を使う手工業が発達し、当時は日本最大の工業都市でもあった。

また、地方においては、幕府が大名に対し一国一城令を発し、諸大名が武士を城下町に集住させたことで全国規模で都市化が進展し、各地に消費都市が生まれた。


(大阪城)

江戸時代の三大改革

享保の改革
8代将軍吉宗が推進(1716〜45年)。財政再建のため、上米の制、足高の制、新田開発の奨励、貨幣の改鋳、定免法の採用、株仲間の公認などの増税政策を実施した。法制面では、公事方御定書の制定、目安箱の設置、相対済し令などを出し、一定の効果をあげた。

寛政の改革
老中松平定信が推進(1787〜93年)。失脚した田沼意次の後を受けて、対立的な政策である商業資本の抑制と農村の維持とを図った。他国出稼ぎ禁止令、帰農令、人足寄場の設置、囲米の制、棄捐令など。また異学の禁など風紀粛正も図ったが、厳しい統制に対し民衆が反発、定信は失脚した。

天保の改革
老中水野忠邦が推進(1841〜43年)。享保、寛政の改革にならい、緊縮財政と風紀粛正を図った。株仲間の禁止、奢侈禁止、人返しの法、薪水給与令、印旛沼の開発など。上知令は大名・旗本・農民の大反対にあい、忠邦は失脚した。


(徳川吉宗)

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