室町幕府の3代将軍・足利義満が、平清盛に次いで武士で二人目の太政大臣となり、さらにあろうことか、天皇の母の夫、すなわち「天皇の父」になろうとしたいきさつは次のとおりです。
応永13年(1406年)、後小松天皇のご生母が病気にかかり、重篤な状況に陥りました。そのとき、義満は「天皇のご生母にもしものことがあれば、後小松天皇ご一代のうちに二度の諒闇(りょうあん)を行うことになる。これは極めて不吉である」と言い出しました。
「諒闇」というのは、中国において天子が父母の喪に服することを意味しました。ふつうは、父の天子が亡くなってから即位しますから、天子が二度の諒闇を行うことはありません。しかし、上皇というものがあり父の存命中の即位があった日本では、二度の諒闇を行う前例はありました。
そして義満は、関白の一条経嗣に「どうしたらよいか?」と問いました。義満のイエスマンだった一条は、ここで義満の真意に沿った回答をせざるを得ません。そこで経嗣は、「南御所(義満の妻)を准母(国母の代わり)にすればよいと思います」と答えたのです。義満は大いに喜びました。しかし経嗣自身は、おべっかからそう答えたことを恥じ、「ああ悲しいかな」と日記に書いています。
こうして義満の妻は、後小松天皇から「朕(ちん)の准母なり」という詔書をもらいました。かつて藤原氏は、自分の娘を天皇の后にして権力を維持してきましたが、義満は自分の妻を天皇の母にしたのです。「天皇の母の夫」となった義満には、天皇ご自身も義満をさらに丁重に遇せざるを得なくなり、これまで上皇や法皇にしか認められなかった先例が、義満に対しても数多く適用されたといいます。尊号も検討され、かねて太上天皇の尊号を望んでいた義満でしたが、さすがにそれはかないませんでした。
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(足利義政)
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