本文へスキップ

万葉集の歌【目次】万葉集古典に親しむ

柿本人麻呂の歌

巻第2-217~219

217
秋山の したへる妹(いも) なよ竹の とをよる子らは いかさまに 思ひ居(を)れか たく繩(なは)の 長き命(いのち)を 露(つゆ)こそは 朝(あした)に置きて 夕(ゆうへ)には 消(き)ゆといへ 霧こそば 夕に立ちて 朝は 失(う)すといへ 梓弓(あずさゆみ) 音(おと)聞く我(わ)れも おほに見し こと悔(くや)しきを 敷栲(しきたへ)の 手枕(たまくら)まきて 剣大刀(つるぎたち) 身に添(そ)へ寝(ね)けむ 若草の その夫(つま)の子は 寂(さぶ)しみか 思ひて寝(ぬ)らむ 悔(くや)しみか 思ひ恋ふらむ 時ならず 過ぎにし児らが 朝露(あさつゆ)のごと 夕霧(ゆふぎり)のごと
218
楽浪(さざなみ)の志賀津(しがつ)の子らが罷道(まかりぢ)の川瀬の道を見れば寂(さぶ)しも
219
そら数(かぞ)ふ大津(おほつ)の子が逢ひし日におほに見しかば今ぞ悔(くや)しき
 

【意味】
〈217〉秋山のように美しく照り映える乙女、なよ竹のようにしなやかなその子は、何を思ったのか、栲縄のように長い命であったはずなのに、露ならば朝に降りて夕方には消え、霧ならば夕方に立ち込めて朝にはなくなるというが、そんな露や霧でもないのに、はかなく世を去ったという。それを聞いた私でさえも、乙女を生前ぼんやりと見過ごしていたことが悔やまれるのに、ましてや、手枕を交わし、身に添って寝たであろう夫君は、どんなに寂しく思って一人寝ていることであろうか。思いもかけない時に逝ってしまったその子は、美しくもはかない朝露のよう、夕霧のようだ。

〈218〉志賀津の娘があの世へと去っていった川瀬の道を見ると、何とも寂しいことだ。

〈219〉大津の宮であの子がその姿を見せたとき、ぼんやりとしか見なかったことが、今となっては悔しい。

【説明】
 吉備の国から宮廷に出仕していた采女(うねめ)が、官人と許されない恋に落ちて、天皇の怒りを買い、志賀に蟄居させられた。絶望した乙女は、川に身を投げて死んだ――。この歌は、人麻呂による鎮魂の歌です。「采女」は、天皇の食事など日常の雑役に奉仕した女官のことで、郡の次官以上の者の子女・姉妹で容姿に優れた者が貢物として天皇に奉られました。

 217の「秋山の」「なよ竹の」「たく縄の」「梓弓」「敷栲の」「剣太刀」「若草の」は、それぞれ「したへ妹」「とをよる子ら」「長き命」「音」「手枕」「身」「夫」の枕詞。「したへる」は、紅く色づいている。「とをよる」は、しなやかにたわむ。「子ら」の「ら」は親愛の語。「おほに見し」は、ぼんやりと見ていた。218の「志賀津」は、生前の采女の居住地とみられます。「罷道」は、この世を去って行った道、冥途の道。219の「そら数ふ」は「大津」の枕詞。「大津の子」は、近江朝に出仕していた人という意味。

 斉藤茂吉は218について、「この歌は不思議に悲しい調べを持っており、全体としては句に屈折・省略等もなく、むつかしくない歌であるが、不思議にも身に沁みる歌である。どういう場合に人麻呂がこの采女の死に逢ったのか、あるいは依頼されて作ったものか、そういうことを種々問題にし得る歌だが、人麻呂はこの時、『あまかぞふ大津の子が逢ひし日におほに見しかば今ぞ悔しき』(巻ニ・219)という歌をも作っている。これは、生前縁があって一たび会ったことがあるが、その時にはただ何気なく過した。それが今となっては残念である、というので、これで見ると人麻呂は依頼されて作ったのでなく、采女は美女で名高かった者のようでもあり、人麻呂は自ら感激して作っていることが分かる」。

巻第2-220~222

220
玉藻(たまも)よし 讃岐(さぬき)の国は 国からか 見れども飽かぬ 神(かむ)からか ここだ貴(たふと)き 天地(あめつち) 日月(ひつき)と共に 足り行かむ 神の御面(みおも)と 継ぎ来たる 那珂(なか)の湊(みなと)ゆ 船 浮(う)けて 我が漕(こ)ぎ来れば 時つ風 雲居(くもゐ)に吹くに 沖見れば とゐ波立ち 辺(へ)見れば 白波騒く 鯨魚(いさな)とり 海を畏(かしこ)み 行く船の 梶(かじ)引き折りて をちこちの 島は多けど 名くはし 狭岑(さみね)の島の 荒磯面(ありそも)に 蘆(いほ)りて見れば 波の音(おと)の 繁(しげ)き浜辺(はまへ)を 敷栲(しきたへ)の 枕になして 荒床(あらとこ)に ころ臥(ふ)す君が 家知らば 行きても告(つ)げむ 妻知らば 来(き)も問はましを 玉桙(たまぼこ)の 道だに知らず おほほしく 待ちか恋ふらむ 愛(は)しき妻らは
221
妻もあらば摘(つ)みて食(た)げまし沙弥(さみ)の山 野の上(うへ)のうはぎ過ぎにけらずや
222
沖つ波 来寄(きよ)する荒磯(ありそ)を敷栲(しきたへ)の枕とまきて寝(な)せる君かも
 

【意味】
〈220〉藻が美しく靡く讃岐の国は、国柄のせいか、いくら見ても見飽きることがない。神々しい風格が備わり、天地も日月も貴く満ち足りていて、神のように美しい顔を備えている。遠い時代から受け継いできた那珂の港から船を浮かべて漕ぎ渡ってくると、時ならぬ風が雲の浮かぶ辺りから吹いてきた。沖の方を見ると波がうねり立ち、岸辺には白波が騒ぎ立っている。その恐ろしい海を梶が折れんばかりに漕いで、あちこちに多くの島が浮かぶ中、霊妙な名を持つ狭岑の島の荒磯に漕ぎつけて仮小屋を建てた。すると、波音が激しい浜辺に、そんなところを枕にして、人気のない荒れ床に横たわっている人がいるではないか。この人の家が分かれば、行って知らせもしように。妻が知ればやって来て声をかけるだろうに、ここに来る道も知らないまま、ぼんやりと待ち焦がれていることだろう、あなたの愛しい妻は。
 
〈221〉この人の妻が一緒にいたら、一緒に摘み取って食べただろうに、沙弥の山の野の嫁菜(よめな)。その嫁菜の季節も過ぎてしまっている。
 
〈222〉沖の波がしきりに打ち寄せる荒磯、そんな磯を枕として寝ておられるお人だ。

【説明】
 瀬戸内海を旅した人麻呂が、嵐を逃れて上陸した讃岐の狭岑(さみね)の島で、海岸の岩の間に横たわる死人を見て作った歌です。「狭岑の島」は、香川県坂出市の沙弥(さみ)島。今は埋め立てによって市内と陸続きになっています。

 220の「玉藻よし」「鯨魚とり」「敷栲の」「玉桙」は、それぞれ「讃岐」「海」「枕」「道」の枕詞。「那珂の湊」は丸亀市金倉川河口あたりの港。「神の御面」は、讃岐を賛美する表現で、古事記の神話に、四国は身一つで面四つの島という記述から来ています。「名くはし」は、土地の名が霊妙で賛美性をもつことの表現。「くはし」は、細部まで精妙で完全・完璧な意であり、『万葉集』では「細」「麗」「妙」の字があてられています。「ころ臥す」の「ころ」は、自らの意。221の「うはぎ」は、嫁菜の古名。死因を餓死とみての歌のようです。

 斎藤茂吉は、「人麿はこういう種類の歌にもなかなか骨を折り、自分の身内か恋人でもあるかのような態度で作歌している。それゆえ軽くすべって行くようなことがなく、あくまで人麿自身から遊離していないものとして受け取ることができる」と言っています。

巻第2-223

鴨山(かもやま)の岩根(いはね)し枕(ま)けるわれをかも知らにと妹が待ちつつあるらむ

【意味】
 鴨山の岩を抱いて死のうとしている私を、何も知らずに妻は待ち続けているだろう。

【説明】
 題詞に「石見国(いはみのくに)に在りて死に臨む時に、自ら傷(いた)みて作る歌」とあり、多くの謎を生んだ人麻呂の最期の歌です。人麻呂がいつ死んだかについては、巻第2の歌の配列がほぼ年代順になっており、この歌とその関連群の次に奈良京時代の作が置かれていることから、その死は藤原京時代で、奈良京遷都の直前だっただろうと推定されています。
 
 「鴨山」の所在は未詳で、石見国の土地とは限らず、大和・山城・三河などにも普通にある地名であるとして、臨終の地を題詞にある石見国とすることに疑義を呈する説もあります。さらに224の依羅娘子の歌との関連では、「依羅」や「石川」の名の土地が河内国(大阪府)にもあることが指摘されています。死因も、衰弱して死んだのではなく、刑死だったのではという説もあります。あるいはこの歌を人麻呂の実体験そのままと考えることには、従来多くの疑問が出されており、巻第2-131以下の「石見問答歌」および巻第2-207以下の「泣血哀慟歌」と同様、宮廷サロンで供された虚構の辞世歌ではなかったかともいわれます。
 
(関連記事)柿本人麻呂の死
 
 「岩根し枕ける」は、一般には「岩を枕に死のうとしている」と解釈されますが、ここでは刑死させられた(水に沈められた)説に与し、「岩を抱いて死のうとしている」としています。

柿本人麻呂の妻、依羅娘子(よさみのをとめ)の歌

巻第2-224~225

224
今日今日(けふけふ)と我(わ)が待つ君は石川の貝に交(まじ)りてありといはずやも
225
直(ただ)の逢(あ)ひは逢ひかつましじ石川に雲立ち渡れ見つつ偲(しの)はむ
 

【意味】
〈224〉お帰りは今日か今日かと、待ち焦がれていたあなたは、石川の貝にまじっているというではないですか。

〈225〉もう、じかにあなたとお逢いすることは、とうていできないのでしょう。せめて火葬の煙が雲となって石川に立ち渡ってほしい、それを見ながら、あなたをお偲びしたい。

【説明】
 人麻呂の妻だった依羅娘子が、亡くなった夫を思い作った歌です。依羅娘子は、人麻呂が石見国から京に上る時に別れを惜しんだ(巻第2-140)ところの妻と同一人です。224は、人麻呂の使いがその変事を知らせにきた時の驚き慌てた心で、なかばは使の知らせを繰り返して言い、その事を自分に言い聞かせようとしているかのようです。225では、深く悲しみつつも、その悲しみを抑え、落ち着いて、思い得る限りのことを詠っています。

 依羅娘子の呼称は、河内国丹比郡依羅郷にちなんでいるとされます。依羅氏は同地を本拠とした氏族で、大阪市住吉区庭井には、現在も大依羅神社があり、その一帯が丹比郡依羅郷です。すぐ南側を大和川が流れており、歌にある「石川」は、その大和川の支流の石川だとする説があります。そうすると、人麻呂は、藤原京から二上山の南側の竹内峠を越えて、石川を渡り、娘子のもとに通っていたことになります。しかし、人麻呂が前述の別れを惜しむ歌を詠んだ時には、娘子は石見にいたはずです。石川は、石見国の鴨山と考えられている地域にある川で、江の川と見る説もあるので、さまざまに混乱が生じています。

  その「鴨山」が何処かについて、斎藤茂吉は、それまでの諸説を退け、自分のイメージに合う「鴨山」を探そうとしました。223の「岩根しまける」から岩の多い高い山、依羅娘子は石見の女であり国府にいたとすると、そこから近くはない場所のはず、224の「石川の貝」は「峡(かひ)」であり、「石川」は225の「雲立ち渡れ」から、石見の大河の「江の川」に違いない。そのような想像をもとに現地で実地踏査を始めました。苦労の末に、島根県邑智郡粕淵村に「亀」の地を見つけ、「カモ」の音に通じることから、その近くの「津目山」を鴨山と決めました。1934年7月のことで、茂吉は「鴨山考」として発表します。しかし、その6年後に、茂吉はこの説を修正します。近隣の「湯抱(ゆがかい)」の役場の土地台帳に「鴨山」の地名が載っているのを知らされたからです。それにより遂に「鴨山」を確定し、霧が晴れた思いで歌を詠みます。

 人麿のつひのいのちを終はりたる鴨山をしも此処と定めむ
 
 なお、依羅娘子の歌の次に、丹比真人(たじひのまひと:伝未詳)が、人麻呂の心になり代わって答えた歌というのが載っています。

〈226〉荒波に寄り来る玉を枕に置き我(わ)れここにありと誰れか告げなむ
 
 その意味は、「荒波に打ち寄せられてきた玉を枕元に置き、私は横たわっている。それを妻に告げてくれる人は誰かいないか」というものです。

【PR】

人麻呂の妻
 人麻呂の妻が何人いたかについては、2人説から5人説まであり、確かなことは分かっていません。最も多い5人とみた場合は、次のように分類されます(①~④は仮名)。

①軽娘子
 妻が亡くなった後に泣血哀慟して作った長歌(巻第2-207・210・213)でうたわれた妻。
②羽易娘子
 210の長歌に、幼児を残して死んだことうたわれているため、①の軽娘子とは別人の妻だとする。
③第二の羽易娘子
 213の長歌の妻も別人とする。
④石見娘子
 人麻呂が石見国から上京して妻と別れるときに作った長歌(巻第2-131・135・138)でうたわれた妻。
⑤依羅娘子
 巻第2-224・225で、亡くなった人麻呂を思い作った歌の作者。

 このうち、①②③すべてを同一人、②③を同一人、④⑤を同一人とする説など、さまざまあります。 

【PR】

 
古典に親しむ

万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。

バナースペース

【PR】

万葉時代の年表

629年
舒明天皇が即位
古代万葉を除く万葉時代の始まり
630年
第1回遣唐使
645年
大化の改新
652年
班田収授法を制定
658年
有馬皇子が謀反
660年
唐・新羅連合軍が百済を滅ぼす
663年
白村江の戦いで敗退
664年
大宰府を設置。防人を置く
667年
大津宮に都を遷す
668年
中大兄皇子が即位、天智天皇となる
670年
「庚午年籍」を作成
671年
藤原鎌足が死去
天智天皇崩御
672年
壬申の乱
大海人皇子が即位、天武天皇となる
680年
柿本人麻呂歌集の七夕歌
681年
草壁皇子が皇太子に
686年
天武天皇崩御
大津皇子の変
689年
草壁皇子が薨去
690年
持統天皇が即位
694年
持統天皇が藤原京に都を遷す
701年
大宝律令の制定
708年
和同開珎鋳造
このころ柿本人麻呂死去か
710年
平城京に都を遷す
712年
『古事記』ができる
716年
藤原光明子が首皇子(聖武天皇)の皇太子妃に
718年
大伴家持が生まれる
720年
『日本書紀』ができる
723年
三世一身法が出される
724年
聖武天皇が即位
726年
山上憶良が筑前守に
727年
大伴旅人が大宰帥に
729年
長屋王の変
731年
大伴旅人が死去
733年
山上憶良が死去
736年
遣新羅使人の歌
737年
藤原四兄弟が相次いで死去
740年
藤原広嗣の乱
恭仁京に都を移す
745年
平城京に都を戻す
746年
大伴家持が越中守に任じられる
751年
家持、少納言に
越中国を去り、帰京
752年
東大寺の大仏ができる
756年
聖武天皇崩御
754年
鑑真が来日
755年
家持が防人歌を収集
757年
橘奈良麻呂の変
758年
家持、因幡守に任じられる
759年
万葉終歌

斎藤茂吉

斎藤茂吉(1882年~1953年)は大正から昭和前期にかけて活躍した歌人(精神科医でもある)で、近代短歌を確立した人です。高校時代に正岡子規の歌集に接していたく感動、作歌を志し、大学生時代に伊藤佐千夫に弟子入りしました。一方、精神科医としても活躍し、ドイツ、オーストリア留学をはじめ、青山脳病院院長の職に励む傍らで、旺盛な創作活動を行いました。

子規の没後に創刊された短歌雑誌『アララギ』の中心的な推進者となり、編集に尽くしました。また、茂吉の歌集『赤光』は、一躍彼の名を高らかしめました。その後、アララギ派は歌壇の中心的存在となり、『万葉集』の歌を手本として、写実的な歌風を進めました。1938年に刊行された彼の著作『万葉秀歌』上・下は、今もなお版を重ねる名著となっています。


(斎藤茂吉)

関連ページ

【PR】

【目次】へ