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源氏物語

「源氏物語」の先頭へ 各帖のあらすじ

玉鬘(たまかずら)

■夕顔を回想

 年月隔たりぬれど、飽かざりし夕顔を、つゆ忘れ給はず、心々なる人の有様どもを見たまひ重ぬるにつけても、「あらましかば」と、あはれに口惜しくのみ思し出づ。

 右近(うこん)は、何の人数(ひとかず)ならねど、なほその形見と見給ひて、らうたきものに思したれば、古人(ふるびと)の数に仕うまつり慣れたり。須磨(すま)の御移ろひのほどに、対(たい)の上の御方に、皆人々聞こえ渡し給ひしほどより、そなたに侍(さぶら)ふ。心よく、かいひそめたる者に、女君も思したれど、心の中(うち)には、「故君(こぎみ)ものし給はましかば、明石の御方ばかりのおぼえには劣り給はざらまし。さしも深き御心ざしなかりけるをだに、落しあぶさず、取りしたため給ふ御心長さなりければ、まいて、やむごとなき列(つら)にこそあらざらめ、この御殿移りの数の中には交(まじら)ひ給ひなまし」と思ふに、飽かず悲しくなむ思ひける。

【現代語訳】
 あれから長い年月が隔たってしまったけれど、愛おしい夕顔のことを、源氏の君は少しもお忘れにならず、様々なご性格の女君たちの有様を数多くご覧になるにつけても、あれが生きていてくれたらと、懐かしく残念にばかりお思い出しになる。

 右近(夕顔の侍女だった人)は、何ほどの者でもないが、それでもやはり夕顔の形見とお考えになって不憫なものと思っていらっしゃるので、古参の女房の一人として長年二条院にご奉公させていらっしゃる。須磨への御移りの時に、対の上の御方(紫の上)に女房たちを皆お預けになったので、それからはそちらにお仕えしている。気立てがよく控えめな性分だと紫の上もお思いであったが、右近は心の中では「亡くなった姫君(夕顔)がご存命でいらしたら、明石の御方に負けぬぐらいのご寵愛をお受けになっただろう。源氏の君は、さして深く御心を寄せていらっしゃらなかった方々さえお見捨てにならず面倒を見ておられるように、いつまでも心変わりなさらぬご性分なので、高貴な方々と同列とはいかないまでも、今回の御殿へのお引っ越しの人数の中にはきっと入っていたであろうに」と思うにつけ、悲しさがこみ上げる。

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■若君の筑紫下向

 かの西の京にとまりし若君をだに、行方も知らず、ひとへに物を思ひつつみ、また、「今さらにかひなき事によりて、我が名漏らすな」と、口がため給ひしを憚(はばか)り聞こえて、尋ねても音づれ聞こえざりしほどに、その御乳母(めのと)の夫(をとこ)、少弐(せうに)になりて行きければ、下りにけり。

 かの若君の四つになる年ぞ、筑紫へは行きける。母君の御行く方を知らむと、よろづの神仏(かみほとけ)に申して、夜昼泣き恋ひて、さるべき所々を尋ね聞こえけれど、つひにえ聞き出でず。「さらばいかがはせむ。若君をだにこそは、御形見に見奉らめ。あやしき道に添へ奉りて、遙かなるほどにおはせむ事の悲しきこと。なほ父君にほのめかさむ」と思ひけれど、さるべき便(たより)もなきうちに、「母君のおはしけむ方も知らず、尋ね問ひ給はば、いかが聞こえむ」「まだよくも見慣れ給はぬに、幼き人をとどめ奉り給はむも、うしろめたかるべし」「知りながら、はた、率(ゐ)て下(くだ)りねと許し給ふべきにもあらず」など、おのがじし語らひあはせて、いとうつくしう、ただ今から気高く、清らなる御さまを、ことなるしつらひなき舟にのせて漕ぎ出づるほどは、いとあはれになむ覚えける。幼き心地に母君を忘れず、折々に、「母の御許(もと)へ行くか」と問ひ給ふにつけて、涙絶ゆる時なく、女(むすめ)どもも思ひこがるるを、舟路(ふなみち)ゆゆしと、かつは諫(いさ)めけり。

【現代語訳】
 あの西の京に預けられていた姫君(玉鬘:夕顔と頭中将の間にできた娘)でもと思うが、その行方も分からなかった。また「今さら無益のことなので、私の名を漏らすな」と、殿から口止めされていたことを憚って安否も尋ねずにいたが、その間に姫君の乳母の夫が太宰の少弐になって赴任したので、一緒に下って行った。

 あの姫君が四歳になる年に筑紫へ行ったのだった。その折、乳母は、母君(夕顔)のお行方を知ろうと、あらゆる神仏にお祈りして夜昼泣きこがれ、心当たりのあちこちをお捜し申したが、ついに聞き出すことができなかった。「この上はどうしようもない。せめて姫君だけでもお形見としてお世話申そう。でも、不便な旅にお連れして遥か遠い国にいらっしゃるのはいかにもおいたわしい。やはり父君(今の内大臣。当時の頭中将)に少しでもお知らせしておこう」とも思ったが、その機会もないままに、「母君(夕顔)がどこにいらっしゃるかも分からないのに、お尋ねがあったら何とお答えしましょう」「まだよく懐いていらっしゃらない幼い人(玉鬘)をお引取りになってもご不安であるに違いありません」「ご自分の娘であるとお知りになれば、連れて行けとはお許しになるはずもありません」など、皆で相談しあって、たいそう可愛らしく今から気高く美しげなお方を、これといった設備もない舟に乗せて漕ぎ出した時は、まことにいたわしく思われた。

 姫君(玉鬘)も幼な心に母君を忘れず、「お母さまの所に行くのか」と折々にお尋ねになるにつけて、乳母たちは涙の絶える時がなく、少弐の娘たちまで女君(夕顔)を恋い慕うので、船旅に涙は不吉であると叱ったりするのだった。

(注)少弐・・・大宰府の次官。正五位上相当。

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■少弐の遺言

 少弐、任はてて上(のぼ)りなむとするに、遙けき程に、ことなる勢ひなき人は、たゆたひつつ、すがすがしくも出で立たぬ程に、重き病(やまひ)して、死なむとする心地にも、この君の十歳(とを)ばかりにもなり給へるさまの、ゆゆしきまでをかしげなるを見奉りて、「我さへうち捨て奉りて、いかなるさまにはふれ給はむとすらむ。あやしき所に生(お)ひ出で給ふもかたじけなく思ひ聞こゆれど。何時(いつ)しかも、京に率(ゐ)て奉りて、さるべき人にも知らせ奉りて、御宿世(すくせ)に任せて見奉らむにも、都は広き所なれば、いと心安かるべしと、思ひいそぎつるを、ここながら命たヘずなりぬること」と、うしろめたがる。男子(をのこご)三人あるに、「ただこの姫君京に率て奉るべきことを思へ。わが身の孝(けう)をば、な思ひそ」となむ言ひ置きける。

 その人の御子(みこ)とは館(たち)の人にも知らせず、ただ孫(むまご)のかしづくべき故(ゆゑ)あるとぞ言ひなしければ、人に見せず、限りなくかしづき聞こゆる程に、にはかに亡(う)せぬれば、あはれに心細くて、ただ京の出立(いでたち)をすれど、この少弐の、仲悪しかりける国の人多くなどして、とざまかうざまに怖(お)ぢ憚(はばか)りて、我にもあらで年を過ぐすに、この君、ねび整ひ給ふままに、母君よりもまさりて清らに、父大臣(おとど)の筋さへ加はればにや、品(しな)高く、うつくしげなり。心ばせおほどかに、あらまほしうものし給ふ。

 聞きついつつ、好(す)いたる田舎人(ゐなかびと)ども、心かけ消息(せうそこ)がる、いと多かり。ゆゆしくめざましくおぼゆれば、誰(たれ)も誰も聞き入れず。

【現代語訳】
 少弐は、任期が終わって京へ上ろうとするが、遥かな道のりである上に、大した権勢もない人だったので、さっさと出発ぜすぐずぐずしているうちに、重い病気を患って死にそうになりながらも、この姫君(玉鬘)が十歳ばかりになられたお姿の怪しいまでに美しい様子を拝して、「私までこの姫君をお見捨てしてあの世に行ってしまったら、どんなふうに落ちぶれてしまわれるだろう。辺鄙な土地でご成人なさるのも畏れ多く存じ上げ、早く京へお連れ申しあげて父君にもお知らせ申し、あとは御宿縁に任せるとしても、都は広い所だからひとまず安心だろうと思って準備をしてきたのに、こんな地で死んでしまうとは」と心配している。三人いる息子たちに、「何よりこの姫君を京にお連れ申し上げることだけを考えよ。私の供養などは考えなくてよい」と遺言したのだった。

 どのようなお方の御娘であるとは役所の誰にも言わず、ただ、孫で大切にする仔細があるのだと言い繕っていたので、人にも見せず手を尽くして大切にお育て申しているうちに、急に少弐が亡くなったので、乳母たちは悲しく心細くて、ひたすら上京の支度をするのだが、この少弐と仲が悪かった土地の人が多くいたりして、あれやこれやに気を使い、心ならずも年を過ごしている。この姫君はご成長なさるにつれて、母君(夕顔)よりも美しさがまさっている上に、父大臣の血筋もひいているせいか、気品高く美しげである。気立てもおおらかで申し分なくていらっしゃる。

 と、そんな評判を聞き伝え、好色な田舎者たちで、思いを寄せて文を送りたがるのがたくさんいる。乳母たちは縁起でもなく目障りに思うので、誰の言うことも取り合わない。

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■玉鬘一行の上京

 帰る方(かた)とても、そこ所と行き着くべき古里(ふるさと)もなし、知れる人と言ひ寄るべき頼もしき人も覚えず。ただ一所の御為により、ここらの年月住み馴れつる世界を離れて、浮かべる波風に漂ひて、思ひめぐらす方なし。この人をも、いかにし奉らむとするぞ、とあきれて覚ゆれど、いかがはせむとて、急ぎ入りぬ。

 九条に、昔知れりける人の残りたりけるをとぶらひ出でて、その宿りを占めおきて、都の内といへど、はかばかしき人の住みたるわたりにもあらず、あやしき市女(いちめ)商人(あきびと)の中にて、いぶせく世の中を思ひつつ、秋にもなりゆくままに、来(き)し方(かた)行く先悲しき事多かり。豊後介といふ頼もし人も、ただ水鳥の陸(くが)に惑へる心地して、つれづれに、ならはぬ有様のたづきなきを思ふに、帰らむにもはしたなく、心幼く出で立ちにけるを思ふに、従ひ来たりし者どもも、類にふれて逃げ去り、本(もと)の国に帰り散りぬ。

 住みつくべきやうもなきを、母おとど明け暮れ嘆きいとほしがれば、「何か、この身はいとやすく侍り。人ひとりの御身に代へ奉りて、いづちもいづちも罷(まか)り失(う)せなむに咎(とが)あるまじ。我らいみじき勢ひになりても、若君を、さる者の中にはふらし奉りては、何心地かせまし」と語らひ慰めて、「神仏こそは、さるべき方にも導き知らせ奉り給はめ。近き程に、八幡(やはた)の宮と申すは、かしこにても参り祈り申し給ひし松浦(まつら)、筥崎(はこざき)同じ社(やしろ)なり。かの国を離れ給ふとても、多くの願立て申し給ひき。今、都に帰りて、かくなむ御験(しるし)を得て罷り上りたると、早く申し給へ」とて、八幡に詣でさせ奉る。

【現代語訳】
 帰る所といっても、どこと決まって行き着ける場所もないし、知人として身を寄せることのできる頼みになる人もいそうにない。ただ姫君お一人の御ために、長の年月住み馴れてきた土地を離れ、波風に浮かび漂って思案に尽きている有様で、この姫君をどうしてさしあげたいのかと途方に暮れるが、今更どうにもならないので、急いで京に入った。

 九条に、昔知っていた人が生き残っていたのを捜し出して、そこに宿を取ったが、都の内といっても人らしい人が住むような場所ではなく、あやしい市女(市で商いする女)や商人などに交じり、気が晴れないまま日を送っていると、秋になるにつれて、来し方行く末を思うにつけ様々の悲しみが湧いてくる。

 頼みにしている豊後介(少弐の長子)も、まるで水鳥が陸に上がって戸惑っているような感じで、何の仕事もなく、馴れない暮らしの頼りなさを思うと、今さら筑紫へ戻るのもきまりが悪く、つくづく浅慮だったと悔やむうちに、従って来ていた郎等たちも縁者をたどって逃げ去り、もとの国へ散り散りになって帰ってしまった。

 そんな具合に都にも落ち着きようがないのを、乳母の母御が明け暮れ嘆きながら倅を気の毒がっているので、豊後介は「何を嘆かれます。私の身はたいそう気楽なものです。どうせ命は姫君に差し上げたのですから、どこへ消え失せたところで咎める者はありますまい。仮に我らの羽振りがよくなったとしても、姫君をあんな者の中に放っておいたら、どんな気持ちがするでしょう」と慰めて、「こんな時は、神仏こそがきっといいように導いて下さいます。この近くの八幡の宮(石清水八幡宮)と申しますのは、あの田舎でもお参りして祈っておられた松浦の明神や筥崎の宮と同じ社です。あちらをお離れになる時も多くの願立てをなさったのですから、今こうしてご利益を頂戴して無事に上京しましたと、早くお礼を申しに行っておいでなさい」といって、八幡に参詣おさせなさる。

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■玉鬘、右近と再会

(一)
 これも徒歩(かち)よりなめり。よろしき女二人、下人(しもびと)どもぞ、男女(をとこをむな)数多かむめる。馬四つ五つ牽(ひ)かせて、いみじく忍びやつしたれど、清げなる男どもなどあり。法師は、せめてここに宿さまほしくして、頭(かしら)(か)き歩(あり)く。いとほしけれど、また宿りかへむも様あしく、わづらはしければ、人々は奥に入り、外(ほか)に隠しなどして、かたへは片つ方に寄りぬ。軟障(ぜじやう)など引き隔てておはします。この来る人も恥づかしげもなし。いたうかいひそめて、かたみに心使ひしたり。

 さるは、かの世とともに恋ひ泣く右近なりけり。年月にそへて、はしたなきまじらひの、つきなくなり行く身を思ひ悩みて、この御寺になむ度々(たびたび)詣でける。例ならひにければ、かやすく構へたりけれど、徒歩(かち)より歩み堪へ難くて、寄り臥したるに、この豊後介(ぶんごのすけ)、隣の軟障のもとに寄り来て、参り物なるべし、折敷(をしき)手づから取りて、「これは御前(おまへ)に参らせ給へ。御台(みだい)などうちあはで、いとかたはらいたしや」と言ふを聞くに、わが列(なみ)の人にはあらじと思ひて、物の狭間よりのぞけば、この男の顔、見し心地す。

 誰とはえ覚えず。いと若かりし程を見しに、太り黒みてやつれたれば、多くの年隔てたる目には、ふとしも見分かぬなりけり。「三条、ここに召す」と、呼び寄する女を見れば、また見し人なり。故御方に、下人(しもびと)なれど、久しく仕うまつり馴れて、かの隠れ給へりし御住処(すみか)までありし者なりけり、と見なして、いみじく夢のやうなり。主(しゆう)とおぼしき人は、いとゆかしけれど、見ゆべくも構へず。思ひわびて、「この女に問はむ。兵藤太(ひやうとうだ)といひし人も、これにこそあらめ。姫君のおはするにや」と思ひ寄るに、いと心もとなくて、この中隔てなる三条を呼ばすれど、食物(くひもの)に心入れて、とみにも来ぬ、いと憎し、と覚ゆるもうちつけなりや。

【現代語訳】
 この人達も徒歩で来たようだ。見苦しくない装いの女が二人、供の下人たちは男も女も数多くいる。馬を四、五頭引かせて、たいそう人目を忍んで質素な身ごしらえをしているが、小ぎれいな男たちも交じっている。法師は彼らをここに泊まらせたい一心で、頭を掻き掻きしうろうろしている。気の毒ではあるが、今さら宿を変えるのも体裁が悪く面倒なので、豊後介一行は奥に入ったり他の部屋に身を隠しなどして、残りの者は部屋の一方に固まった。軟障(幕を張った衝立のようなもの)などを間に立てて、姫君はお座りになる。後から来た客も、こちらが気後れするほどの人でもない。たいそうひっそりと声を抑えて、お互いに気遣いしていた。

 実は、この後から来た隣の客というのは、いつも忘れる時なく主人を恋い慕って泣いている右近であった。年月が経つにつれて、中途半端な御殿奉公がだんだん自分に不似合いになっていく我が身を思い悩んで、この御寺にたびたび参詣しているのだった。いつものことで慣れているので、身軽な旅支度だったが、さすがに徒歩の疲れが出て、ぐったり横になっていたところ、こちらでは豊後介が、境の軟障のところに寄って来て、お食事を差し上げるのだろう、手ずから折敷を捧げ、「これを差し上げて下さい。お膳なども間に合いませんで、ひどく恐縮です」と言っているのを聞き、右近は、あの男より身分の高い人がいるのかと思って物の隙間からのぞくと、その男の顔に見覚えがあるような気がする。

 誰とは思い出すことができない。たいそう若かった時に知っていたのが、太って、肌が黒くなってやつれているので、多くの年を経た右近の目にはすぐには分からないのだった。男が「三条、こちらでお呼びだ」と呼び寄せる女を見れば、これもまた覚えのある顔である。下仕えだったが、あの夕顔のおそば近くに久しくお仕えして、お隠れ家にまで付き添っていた者だったと気がつくと、まことに夢のようである。その主人とおぼしき人を見たくてならなかったが、見えそうにない。落胆しながらも、「この女(三条)に尋ねてみよう。さっきのあの男は兵藤太(豊後介の元の名)と言っていた人に違いない。すると姫君がいらっしゃるかもしれない」と思いつくと、にわかに気が急いて、間仕切りの辺りにいる三条を呼ばせるが、三条は食い物に夢中になっていて、すぐにはやって来ない。ええ、いまいましいと思うのも、だしぬけすぎるというものだ。

(注)折敷・・・食器を載せる、脚のついた盆。

(二)
 からうじて、「覚えずこそ侍れ。筑紫の国に二十年(はたとせ)ばかり経にける下衆(げす)の身を知らせ給ふべき京人(きやうびと)よ。人違(ひとたが)へにや侍らむ」とて寄り来たり。田舎びたる掻練(かいねり)に衣(きぬ)など着て、いといたう太りにけり。わが齢(よはひ)もいとど覚えて恥づかしけれど、「なほさしのぞけ。我をば見知りたりや」とて、顔さし出でたり。この女の、手を打ちて、「あが御許(おもと)にこそおはしましけれ。あな嬉しとも嬉し。いづくより参り給ひたるぞ。上はおはしますや」と、いとおどろおどろしく泣く。若き者にて見馴れし世を思ひ出づるに、隔て来にける年月数へられて、いとあはれなり。「まづおとどはおはすや。若君はいかがなり給ひにし。あてきと聞こえしは」とて、君の御事は言ひ出でず。「皆おはします。姫君も大人になりておはします。先づおとどにかくなむと聞こえむ」とて入りぬ。

 皆驚きて、「夢の心地もするかな。いとつらく、言はむ方なく思ひ聞こゆる人に、対面(たいめ)しぬべきことよ」とて、この隔てに寄り来たり。気(け)遠く隔てつる屏風(びやうぶ)だつもの、名残なく押し開けて、まづ言ひやるべき方なく泣きかはす。老人(おいびと)は、ただ、「わが君はいかがなり給ひにし。ここらの年頃、夢にてもおはしまさむ所を見むと、大願を立つれど、遙かなる世界にて、風の音にても、え聞き伝へ奉らぬを、いみじく悲しと思ふに、老(おい)の身の残りとどまりたるもいと心憂けれど、うち棄て奉り給へる若君の、らうたくあはれにておはしますを、冥途(よみぢ)の絆(ほだし)に、持てわづらひ聞こえてなむ、瞬(またた)き侍る」と言ひ続くれば、昔、その折、言ふかひなかりし事よりも、答(いら)へむ方なくわづらはしと思へども、「いでや、聞こえてもかひなし。御方は早う亡(う)せ給ひにき」と言ふままに、ニ三人ながら咽(む)せかへり、いとむつかしく、せきかねたり。

 日暮れぬ、と急ぎたちて、御燈明(みあかし)の事どもしたためはてて急がせば、なかなかいと心あわただしくて立ち別る。「もろともにや」と言へど、かたみに供の人のあやしと思ふべければ、この介(すけ)にも、事の様(さま)だに言ひ知らせあへず、我も人もことに恥づかしくもあらで、みな下り立ちぬ。右近は、人知れず目とどめて見るに、中にうつくしげなる後手(うしろで)の、いといたうやつれて、卯月(うづき)の単衣(ひとへ)めくものに着こめ給へる髪のすき影、いとあたらしくめでたく見ゆ。心苦しう悲しと見奉る。

【現代語訳】
 ようやくのことで、下女の三条が「いったいどなたでいらっしゃいますか。筑紫国に二十年ほども過ごした下衆の身を京のお方がご存知とは。人違いではございませんか」と、寄って来た。田舎じみた掻練に衣など着て、たいそう太っていた。右近は自分の年齢も自覚されて恥ずかしかったが、「もっとよく見てごらん。私に覚えがあるはずですが」といって、顔をさし出した。

 三条ははたと手を打って、「ああ、あなた様でいらっしゃいましたか。ああ嬉しや嬉し。どこからおいでになりましたか。上(夕顔)はどちらにいらっしゃいます」と、声をあげて泣く。右近は、この女がまだ若い女房だった昔を思い出すにつけ、長く隔たった年月が数えられてしみじみ心打たれる。右近は「まず乳母殿はいらっしゃいますか。姫君(玉鬘)はいかがおなりですか。あてきと申した人は」といって、亡き女君(夕顔)の事は言い出さない。三条は「みなご健在です。姫君も大人になっていらっしゃいます。まず乳母殿にこの次第を申しあげましょう」といって奥に入った。

 隣では皆驚いて、「夢のような気持ちがすること。本当に恨めしい、言いようもなくひどいお方と思っていた人に対面することになるなんて」と言って、この間仕切り近くに寄って来た。双方を隔てていた物ををすべて押しのけて、最初は言葉も出ずに共に泣きかわす。老いた乳母はただ、「わが君(夕顔)はどうなり遊ばしたのですか。長の年月、夢にでもおいであそばすのを見ようと大願を立てておりましたが、遠い田舎のことですから、風の便りにもご様子をお聞きできないのをひどく悲しく思っていたので、老いの身が生き残っているのも情けないけれど、女君(夕顔)がお残しなさった姫君(玉鬘)が可愛くおいたわしくていらっしゃるのが、あの世へ行く妨げとなりはしないかと思い悩んでおりますままに、まだ目をつぶらずに生き長らえております」と言い続けるので、右近は、昔あの時にどうしようもなく途方に暮れたことよりも、今のほうが答えようもなく当惑しながら、「いやもう、申しあげてもどうにもならぬことです。御方(夕顔)はもうお亡くなりになりました」と言うなり、ニ、三人がそのままむせび泣いて、あふれる涙を抑えられずにいる。

 もう日が暮れてしまうというので、急いでお燈明などを用意し終えて、案内の者が急がせるので、再会のためにかえってあわただしい気持ちで立ち別れる。右近は「ご一緒に参りましょうか」と言うが、双方の供の者が変に思うだろうからと、豊後介にさえ事情を知らせる暇もなく、今はお互いに心安く思いながら、皆外に出た。右近がひそかに目をとどめて見ると、一行の中に可愛らしげな後ろ姿があり、粗末な旅姿であるものの、初夏の単衣めいたものの下に髪を着込めていらっしゃるのが透けて見え、もったいないほど立派に見える。右近は、それをたまらない思いでおいたわしく拝見する。

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■乳母の依頼

 いと騒がしう夜一夜(よひとよ)行ふなり。明けぬれば、知れる大徳(だいとこ)の坊に下りぬ。物語心やすく、となるべし。姫君のいたくやつれ給へる、恥づかしげに思したるさま、いとめでたく見ゆ。

 「おぼえぬ高きまじらひをして、多くの人をなむ見あつむれど、殿の上の御容貌(かたち)に似る人おはせじとなむ、年ごろ見奉るを、また生ひ出で給ふ姫君の御さま、いと道理(ことわり)にめでたくおはします。かしづき奉り給ふさまも、並びなかめるに、かうやつれ給へる御様の、劣り給ふまじく見え給ふは、あり難うなむ。大臣(おとど)の君、父帝の御時より、そこらの女御(にようご)(きさき)、それより下(しも)は残るなく見奉り集め給へる御目にも、当代の御母后(ははぎさき)と聞こえしと、この姫君の御容貌とをなむ、よき人とはこれを言ふにやあらむと覚ゆる、と聞こえ給ふ。見奉り並ぶるに、かの后(きさき)の宮をば知り聞こえず、姫君は清らにおはしませど、まだ片なりにて、生(お)ひ先ぞ推しはかられ給ふ。上の御容貌は、なほ誰か並び給はむとなむ見え給ふ。殿もすぐれたりと思しためるを、言(こと)に出でては、何かは数への中には聞こえ給はむ。我に並び給へるこそ、君はおほけなけれとなむ、戯(たはぶ)れ聞こえ給ふ。見奉るに、命延ぶる御有様どもを、またさる類(たぐひ)おはしましなむや、となむ思ひ侍るに、いづくか劣り給はむ。物は限りあるものなれば、すぐれ給へりとて、頂(いただき)を離れたる光やはおはする。ただこれを、すぐれたりとは聞こゆべきなめりかし」と、うち笑みて見奉れば、老人(おいびと)もうれしと思ふ。
 
 「かかる御さまを、ほとほとあやしき所に沈め奉りぬべかりしに、あたらしく悲しうて、家かまどをも棄て、男女(をとこをむな)の頼むべき子どもにも引き別れてなむ、かへりて知らぬ世の心地する京に参(ま)うで来(こ)し。あが御許(おもと)、はやくよきさまに導き聞こえ給へ。高き宮仕へし給ふ人は、おのづから行きまじりたる便りものし給ふらむ。父大臣に聞こし召され、数まへられ給ふべきたばかり思し構へよ」と言ふ。恥づかしう思(おぼ)いて、背後(うしろ)向きたまへり。

【現代語訳】
 その夜は一同が賑やかに一晩中お勤めを行う。夜が明けると、一同は懇意な大徳の宿坊に下りて来た。積もる話を心置きなくしようというのだろう。姫君(玉鬘)が、たいそう質素になさっているのを恥ずかしがっていらっしゃる様子が、とてもすばらしく拝見される。

 右近は、「思いもかけない高貴な方にお仕えして、多くの方々を見てきましたが、お邸の奥方さま(紫の上)のご器量に並ぶ方はいらっしゃるまいと長年思っておりましたが、近ごろはまた可愛らしい姫君(明石の姫君)をお育てになっていますのが、まことに当然のことながら美しくていらっしゃいます。大切になさっているご様子も並々でないのですが、こうして質素になさっている姫君(玉鬘)が見劣りなさらないようにお見えになるのは、驚くほかありません。大臣の君(源氏)は、父帝(桐壺帝)の御代から、多くの女御、后を始め、それより下の身分の女性の方々も残らずご存じでいらっしゃり、今上(冷泉帝)の御母后(藤壺宮)であらせられた御方と、この姫君(明石の姫君)の御器量をこそ美人というのだろうと思う、とおっしゃっています。この御方(玉鬘)を拝見してお見比べ申しあげますに、后の宮さま(藤壺宮)は存じ上げませんが、姫君(明石の姫君)は美しくはいらっしゃるものの、まだお小さいので、先のあることでございます。そうなると、お邸の奥方さま(紫の上)の御器量が一番すぐれていらっしゃいましょうか。殿(源氏)もそうお考えでいらっしやるようですが、言葉に出してまさかそうとおっしゃるわけにもいきません。私と並んでいらっしゃるのは身のほど知らずだよと、お戯れにおっしゃいます。お二人を拝見するにつけても寿命が延びるような気がいたしまして、他にこのような素晴らしい御方がいらっしゃるだろうかと思っておりましたが、姫君(玉鬘)はどこが劣っておいででしょうか。物には限度があるものですから、いくらお美しくいらっしゃるからといって仏様のように頭から光がさしたりはなさいませんが。ただこういう御方をこそお美しいと申し上げなければなりますまい」と、にっこりして拝見しているので、老婆(乳母)もうれしく思う。

 乳母は、「こんな素晴らしい御器量を、あやうく辺鄙な田舎にお沈め申し上げるところでした。それがもったいなく悲しいばかりに、家財も捨てて、頼りになる息子娘たちとも袂を分かって、今ではかえって他国のような気のする京に帰って参りました。あなた様、早く良いようにお導き下さいませ。ご身分の高い所に宮仕えなさっていたら、自然とお付き合いも広く、つてもおありでしょう。父の大臣(内大臣)にお知らせし、御子として引き取って下さいますように計らって下さいまし」と言う。姫君は恥ずかしくお思いになって、後ろを向いていらっしゃる。

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初音(はつね)

■六条院の新春

 年たちかへる朝(あした)の空の気色、名残りなく曇らぬうららけさには、数ならぬ垣根の内だに、雪間(ゆきま)の草若やかに色づきはじめ、いつしかと気色だつ霞に、木(こ)の芽もうちけぶり、おのづから人の心も伸びらかにぞ見ゆるかし。ましていとど玉を敷ける御前(おまへ)は、庭よりはじめ見どころ多く、磨きまし給へる御方々のありさま、真似びたてむも、言の葉足るまじくなむ。

 春の殿(おとど)の御前(おまへ)、とり分きて、梅の香(か)も御簾(みす)の内の匂ひに吹き紛(まが)ひて、生ける仏の御国(みくに)とおぼゆ。さすがにうちとけて、安らかに住みなし給へり。侍ふ人々も、若やかにすぐれたるを、姫君の御方にと選(え)らせ給ひて、少し大人びたる限り、なかなかよしよししく、装束(さうぞく)有様よりはじめて、めやすくもてつけて、ここかしこに群れゐつつ、歯固(はがた)めの祝ひして、餅鏡(もちひかがみ)をさへ取り寄せて、千年(ちとせ)の蔭にしるき年の内の祝ひごとどもして、そぼれあへるに、大臣(おとど)の君、さしのぞき給ヘれば、懐手(ふところで)ひきなほしつつ、「いとはしたなきわざかな」と、侘(わ)びあへり。「いとしたたかなる、みづからの祝ひごとどもかな。皆おのおの思ふことの道々あらむかし。少し聞かせよや。われ寿詞(ことぶき)せむ」とうち笑ひ給へる御ありさまを、年のはじめの栄えに見奉る。

【現代語訳】
 年が改まった元旦の空に一片の雲もないうららかさに、普通の人の住まいの垣根の内でさえ、雪間に草が若々しく色づきはじめ、早くも春めいて立った霞に木の芽も萌え出て、人の気持ちもおのずと長閑に見える。まして、玉を敷き詰めた六条院の御殿は、お庭をはじめとして見どころが多く、ふだんよりいっそう飾り立てていらっしゃるご婦人方の御殿の見事さは、言い表そうにも言葉が足りない。

 とりわけ紫の上の春の御殿は、お庭の梅の香りも御簾の内の薫物の匂いと相和して風にただよい満ち、この世の極楽浄土のように思われる。とはいっても、さすが北の方の貫禄からか、ゆったりと安らかなお暮らしぶりである。お付きの女房たちも、若々しく才気のある者は明石の姫君のお付きにとお譲りになり、こちらには少し年配の女房だけが残り、装束やご様子をはじめかえって奥ゆかしく好ましいふるまいで、あちこちに集まっては歯固めの祝をして、鏡餅まで取り寄せて千年の栄えをお祝いして戯れ合っている。そこへ大臣の君(源氏)がお覗きになったので、懐手を抜いて居ずまいを正しつつ、「ひどいところをご覧に入れて」と、皆が恐縮している。「これは大した身祝いをしているのだね。皆それぞれ願いの筋があるのであろうが、少し聞かせておくれ。私も祝い言をしてあげよう」とお笑いになるご様子を、新年のめでたさとして拝する。

(注)歯固めの祝ひ・・・正月元日から三日間にわたり、猪、鹿、押鮎(おしあゆ)、大根、瓜などを食べて歯を固め齢を延べる祝儀。

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■新春の明石の姫君と花散里

 姫君の御方に渡り給へれば、童(わらは)下仕(しもづか)へなど、御前(おまへ)の山の小松、引き遊ぶ。若き人々の心地ども、おき所なく見ゆ。北の殿(おとど)より、わざとがましくし集めたる鬚籠(ひげこ)とも、破子(わりご)なと奉れ給へり。えならぬ五葉(ごえふ)の枝にうつれる鶯(うぐひす)も、思る心あらむかし。

年月をまつにひかれて経(ふ)る人にけふうぐひすの初音(はつね)きかせよ

音せぬ里の」と聞こえ給へるを、げにあはれと思し知る。事忌(ことい)みも、えし給はぬ気色なり。「この御返りは、みづから聞こえ給へ。初音惜しみ給ふべき方にもあらずかし」とて、御硯(すずり)取りまかなひ、書かせ奉らせ給ふ。いとうつくしげにて、明け暮れ見奉る人だに、飽かず思ひ聞こゆる御有様を、今までおぼつかなき年月の隔たりけるも、罪得がましく、心苦しと思す。

 ひきわかれ年は経(ふ)れども鶯の巣だちし松の根を忘れめや

幼き御心にまかせて、くだくだしくぞある。

 夏の御住まひを見給へば、時ならぬけにや、いと静かに見えて、わざと好ましきこともなく、あてやかに住みなし給へるけはひ見えわたる。年月にそへて、御心の隔てもなく、あはれなる御仲らひなり。今はあながちに近やかなる御有様ももてなし聞こえ給はざりけり。いと睦まじく、あり難からむ妹背(いもせ)の契りばかり、聞こえ交し給ふ。御几帳(きちやう)隔てたれど、少し押しやり給へば、またさておはす。縹(はなだ)はげににほひ多からぬあはひにて、御髪(みぐし)などもいたく盛り過ぎにけり。「やさしき方にあらねど、葡萄鬘(えびかづら)してぞ繕ひ給ふべき。我ならざらむ人は見ざめしぬべき御有様を、かくて見るこそうれしく本意(ほい)あれ。心軽き人の列(つら)にて、我に背きたまひなましかば」など、御対面の折々には、まづわが御心の長さも、人の御心の重きをも、うれしく思ふやうなりと思しけり。

【現代語訳】
 源氏の君が、明石の姫君の所においでになると、童や下仕えの女などがお庭の築山の小松を引いて遊んでいる。若い女房たちは気持ちが浮き立ってじっとしていられないように見える。北の御殿(明石の上の御殿)から、今日のためにわざわざこしらえ集めたらしい竹の籠や折り箱などを贈っていらっしゃる。見事な五葉の松に結びつけていて、その枝にとまっている作り物の鶯にも、思うところがある風情だ。

長い年月を、小松(姫君)の成長を待ち続けているる私に、今日、鶯の初音をきかせてください。

鶯の声も聞こえない里の」と書いておありなのを、源氏の君はいかにも哀れとお察しになる。元日ながら縁起でもなく涙も抑えきれない程でいらっしゃる。「このお返事は姫君ご自身で書いて差し上げなさい。初音を聞かせるのを惜しんではならないお方です」といって御硯のご用意をなさり、お書かせになる。姫君の様子はとても可愛らしく、明け暮れ拝している人さえ見飽きないお姿に、この年月を気にかけながら過ごしていた母君のお気持ちはどんなであろうかと、源氏の君は罪深く心苦しくお思いになる。

 
お別れしてから年は経っていましても、鶯は、巣立ちした松の根を忘れましょうか。

幼いままにお書きになったので、すんなりとした歌にはなっていない。

 夏の御方(花散里)のお住まいへ渡られてご覧になると、季節外れだからか、とてもひっそりしていて、これという御趣向もなく、上品に暮らしていらっしゃる様子がそこかしこに窺える。年月が経つにつれて、何の御心の隔てもなくしみじみとした御関柄である。もう近頃はことさらに泊まって愛人めいたこともなさらない。ただたいそう御仲がよろしく、ちょっと類のない夫婦の縁ほどの語らいをなさっている。御几帳を隔ててはいるが、それを少し押しのけになると、そのまま隠れようともなさらない。縹色のお召し物はぱっとしない色合いで、御髪などもすっかり盛りを過ぎてしまっている。「みっともないという程ではないが、かもじで髪をお繕いになったらよろしいのに。他の男だったら愛想をつかしてしまうようだが、それをこうして見ているのは嬉しくもあり、本意でもある。もしこの人が、軽薄な女たちと同じように私から離れてしまわれたなら」などと、御対面の折々には、何よりもご自身が悠長でいらっしゃるのと、女君の御心が落ち着いていらっしゃるのをお思いになり、これが理想的であるとお感じになっている。

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胡蝶(こちょう)

■源氏、玉鬘に迫る

(一)
 心にかかれるままに、しばしば渡り給ひつつ見奉り給ふ。雨のうち降りたるなごりの、いとものしめやかなるタつ方、御前(おまへ)の若楓(わかかへで)、柏木(かしはぎ)などの、青やかに茂り合ひたるが、何となく心地よげなる空を見出し給ひて、「和してまた清し」とうち誦(ず)じ給うて、まづこの姫君の御さまの、にほひやかげさを思し出でられて、例の忍びやかに渡りたまへり。

 手習ひなどして、うちとけ給へりけるを、起き上がり給ひて、恥ぢらひ給へる顔の色あひ、いとをかし。なごやかなるけはひの、ふと昔思し出でらるるにも、忍びがたくて、「見そめ奉りしは、いとかうしもおぼえ給はずと思ひしを、あやしう、ただそれかと思ひまがへらるる折々こそあれ。あはれなるわざなりけり。中将の、さらに、昔ざまのにほひにも見えぬならひに、さしも似ぬものと思ふに、かかる人もものし給うけるよ」とて、涙ぐみ給へり。箱の蓋(ふた)なる御くだものの中に、橘(たちばな)のあるをまさぐりて、

橘のかをりし袖によそふればかはれる身ともおもほえぬかな

世とともの心にかけて忘れ難きに、慰むことなくて過ぎつる年ごろを、かくて見奉るは、夢にやとのみ思ひなすを、なほえこそ忍ぶまじけれ。思しうとむなよ」とて、御手をとらへ給へれば、女、かやうにもならひ給はざりつるを、いとうたておぼゆれど、おほどかなるさまにて、ものし給ふ。

 袖の香をよそふるからに橘のみさへはかなくなりもこそすれ

【現代語訳】
 源氏の君は、気がかりなままに、しきりに姫君(玉鬘)のお部屋においでになってはお世話をなさる。ひと雨降った後のたいそうしっとりとした夕方に、お庭先の若い楓や柏木などが青々と茂りあっている空が何となく爽やかなのを御覧になり、「和して、また清し」と口ずさみなさって、何よりも先にこの姫君のつややかな美しさを思い出され、いつものように忍びやかにおいでになった。

 姫君は、手習いなどしてくつろいでいらっしゃったが、起き上がって恥じらっていらっしゃるお顔の色具合がとても美しい。柔らかな物腰に、ふと昔の人(夕顔)が思い出され、堪えられずに、「初めてお会いした時は、まさかここまで似ていらっしゃるとは思いませなんだが、この頃は不思議にあの方(夕顔)と見間違えそうになることが何度もあります。しみじみと心打たれることですよ。中将の君(夕霧)などはさっぱり亡くなった母親(葵の上)に似ていないものですから、親子でも大して似ないものだと思っていましたが、こういう方もいらっしゃったのですね」と、涙ぐんでいらっしゃる。箱の蓋に載せた果物の中に橘があるのをもてあそびながら、

懐かしい昔の人(夕顔)に比べてみると、別人とも思えないことです。

 亡くなった方のことをいつもいつも心にかけて忘れられず、その心が慰められないまま過ごしてきたこの年月、今こうしてあなたにお会いするのは夢かとばかり思ってみるのですが、夢であっても堪えられそうにありません。私のことを嫌がらないでください」と、お手を握りなさるので、女はこのような経験はおありでなかったので、ひどくお困りになったが、おっとりした様子でお返事をなさる。

(玉鬘)
亡き母にお比べになるのなら、今の私まで同じように、はかなくなりませんでしょうか。

(注)「和して、また清し」・・・白居易の詩句。

(二)
 むつかしと思ひてうつぶし給へるさま、いみじうなつかしう、手つきのつぶつぶと肥え給へる、身なり肌つきのこまやかに美しげなるに、なかなかなるもの思ひ添ふ心地し給うて、今日は少し思ふこと聞こえ知らせ給ひける。女は心憂く、いかにせむとおぼえて、わななかるる気色もしるけれど、「何かかくうとましとは思いたる。いとよくもて隠して、人に咎(とが)めらるべくもあらぬ心の程ぞよ。さりげなくてをもて隠し給へ。浅くも思ひ聞こえさせぬ心ざしに、また添ふべければ、世にたぐひあるまじき心地なむするを。このおとづれ聞こゆる人々には、思しおとすべくやはある。いとかう深き心ある人は世にあり難かるべきわざなれば、うしろめたくのみこそ」と宣ふ。いとさかしらなる御親心なりかし。

【現代語訳】
 当惑してうつ伏していらっしゃる様は、たいそう魅力に満ち、手つきはふくよかに肥えていらっしゃって、体つきや肌合いがいかにもお美しいのをご覧になると、源氏の君はますます恋慕の情がつのる心地がなさって、今日は少しご本心をお聞かせになったのだった。女は辛くてどうしてよいかわからず、震える気配もはっきり分かるのだが、源氏の君は、「どうして、そう嫌がられるのですか。うまく秘密にして人に見咎められないように用心しますよ。あなたも何気ないふりをしていらっしゃい。今までも浅からず思っていた親心にさらに別の思いが加わって、世間にまたとない気持ちがするのです。どうか、あなたに言い寄る人たち以下に思ってくださいますな。これほど深い心のある者は滅多にいないはずで、あの連中が心配で心配でならないのです」とおっしゃる。実におせっかいな御親心というものである。

(三)
 雨はやみて、風の竹に鳴る程、はなやかにさし出でたる月影をかしき夜(よ)のさまもしめやかなるに、人々はこまやかなる御物語に畏(かしこ)まりおきて、け近くも侍はず。常に見奉り給ふ御仲なれど、かくよき折しもあり難ければ、言(こと)に出で給へるついでの御ひたぶる心にや、なつかしい程なる御衣(おんぞ)どもの気配は、いとよう紛はし滑(すベ)し給ひて、近やかに臥し給へば、いと心憂く、人の思はむ事もめづらかに、いみじうおぼゆ。まことの親の御あたりならましかば、おろかには見放ち給ふとも、かくざまの憂き事はあらましやと悲しきに、つつむとすれどこぼれ出でつつ、いと心苦しき御気色なれば、「かう思すこそ辛けれ。もて離れ知らぬ人だに、世のことわりにて、皆許すわざなめるを、かく年経ぬる睦(むつ)まじさに、かばかり見え奉るや、何のうとましかるべきぞ。これよりあながちなる心は、よも見せ奉らじ。おぼろけに忍ぶるにあまる程を、慰むるぞや」とて、あはれげになつかしう聞こえ給ふこと多かり。まして、かやうなるけはひは、ただ昔の心地して、いみじうあはれなり。わが御心ながらも、ゆくりかにあはつけきことと思し知らるれば、いとよく思し返しつつ、人もあやしと思ふべければ、いたう夜もふかさで出で給ひぬ。(中略)

【現代語訳】
 雨がやんで、風が涼しげに竹の葉をそよがせる折から、明るくさしてきた月の光に風情ある夜の気配もしめやかなので、女房たちはご遠慮しておそば近くには控えてはいない。いつも会っていらっしゃる御仲とはいえ、こんなよい機会はめったとないし、口に出されたのでより一途なお気持ちになられたのか、やわらかいお召し物の衣擦れの音を上手にごまかしてお脱ぎになり、姫君の近くに横になられた。姫君はまことに辛く、女房たちもどう思うだろうと、何ともたまらないお気持ちになる。実の親のお側であったら、構って下さらないまでも、このような嫌らしいことがあろうかと悲しく、抑えようとしても涙がこぼれてきてまことに痛々しいご様子なので、源氏の君は「そんなにお嫌がられるのは辛いことです。全くの赤の他人にさえ世間普通のこととして身を任せるものですのに、私たちはこうして長年親しくしているのですから、これくらいのことをお見せするのが何でお嫌なのでしょう。これ以上の無理は決していたしません。こらえてもこらえきれない私の気持ちを慰めるまでのことです」と、心をこめていろいろとお話しになる。まして、このようにしていらっしゃると、昔、夕顔に逢った時の心地がなさって、ひどく胸がかき乱される。ご自分としても唐突で軽々しい振る舞いであったとご自省なさり、女房たちも怪しむからと、それほど夜が更けないうちにご退出なさった。(中略)

(四)
 またの朝(あした)、御文とくあり。悩ましがりて臥し給へれど、人々、御硯(すずり)などまゐりて、「御返り、疾(と)く」と聞こゆれば、しぶしぶに見給ふ。白き紙の、上べはおいらかに、すくすくしきに、いとめでたう書い給へり。「たぐひなかりし御気色こそ、つらきしも忘れがたう。いかに人見奉りけむ。

 うちとけてねもみぬものを若草のことあり顔にむすぼほるらむ

幼くこそものし給ひけれ」と、さすがに親がりたる御言葉も、いと憎しと見給ひて、御返り事聞こえざらむも、人目あやしければ、ふくよかなる陸奥国紙(みちのくにがみ)に、ただ、「承りぬ。乱り心地の悪(あ)しう侍れば、聞こえさせぬ」とのみあるに、かやうの気色はさすがにすくよかなりと微笑みて、恨みどころある心地し給ふも、うたてある心かな。

【現代語訳】
 翌朝、早々にお手紙が届けられた。玉鬘の君は気分が悪いといって横になっていらしたが、女房たちが御硯などを持って参って「お返事を早く」とお勧めするので、しぶしぶご覧になる。見たところはそっけない白い紙に、たいそう美しくお書きになってある。「昨晩は取り付く島もなくすげないご様子でしたが、かえって忘れ難くもなるのです。女房たちはどんなふうに思いましたやら。

 
心を許し合って共寝したわけではないのに、どうして若草が何事かあったようにふさぎこんでいるのでしょう。

まだ大人げなくていらっしゃることですね」と、それでもやはり親らしいお言葉であるのを、ひどく憎らしいとお思いになって、お返事を差し上げないのも人が変に思うので、厚ぼったい陸奥国紙に、ただ「お手紙は拝見いたしました。気分が悪うございますので、お返事はいたしません」とだけあるので、源氏の君は、こういうところはさすがにしっかりしているなと微笑まれて、口説きがいがある気持ちがなさるのも、まことに困ったお心である。

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蛍(ほたる)

■源氏、蛍火で玉鬘を見せる

(一)
 殿は、あいなく、おのれ心げさうして、宮を待ち聞こえ給ふも、知り給はで、よろしき御返りのあるをめづらしがりて、いと忍びやかにおはしましたり。妻戸の間(ま)に御褥(しとね)参らせて、御几帳(きちやう)ばかりを隔てにて、近き程なり。いといたう心して、そらだきもの心にくき程に匂はして、つくろひおはするさま、親にはあらで、むつかしきさかしら人の、さすがにあはれに見え給ふ。宰相の君なども、人の御答(いら)へ聞こえむことも覚えず、恥づかしくて居たるを、「埋(うも)れたり」とひきつみ給へば、いとわりなし。夕闇過ぎて、おぼつかなき空の気色の曇らはしきに、うちしめりたる宮の御けはひも、いと艶(えん)なり。内よりほのめく追ひ風も、いとどしき御匂ひのたち添ひたれば、いと深くかほり満ちて、かねて思ししよりもをかしき御けはひを、心とどめ給ひけり。うち出でて、思ふ心の程を宣ひ続けたる言の葉おとなおとなしく、ひたぶるにすきずきしくはあらで、いとけはひことなり。大臣(おとど)、いとをかしとほの聞きおはす。

 姫君は、東面(ひがしおもて)に引き入りて大殿籠(おほとのごも)りにけるを、宰相の君の御消息(せうそこ)つたへにゐざり入りたるにつけて、「いとあまり暑かはしき御もてなしなり。よろづの事さまに従ひてこそめやすけれ。ひたぶるに若び給ふべきさまにもあらず。この宮たちをさへ、さし放ちたる人づてに聞こえ給ふまじきことなりかし。御声こそ惜しみ給ふとも、少し気(け)け近くだにこそ」など、諫め聞こえ給へど、いとわりなくて、ことつけても這ひ入り給ひぬべき御心ばへなれば、とざまかうざまにわびしければ、すべり出でて、母屋(もや)の際(きは)なる御几帳のもとに、かたはら臥し給へる。

 何くれと言(こと)長き御答(いら)ヘ聞こえ給ふこともなく、思しやすらふに、寄り給ひて、御几帳の帷子(かたびら)を一重(ひとへ)うちかけ給ふにあはせて、さと光るもの、紙燭(しそく)を差し出でたるか、とあきれたり。螢(ほたる)を薄きかたに、この夕つ方いと多く包みおきて、光をつつみ隠し給へりけるを、さりげなく、とかくひきつくろふやうにて、にはかにかく掲焉(けちえん)に光れるに、あさましくて、扇をさし隠し給へるかたはら目、いとをかしげなり。「おどろかしき光見えば、宮ものぞき給ひなむ。わがむすめと思すばかりのおぼえに、かくまで宣ふなめり。人ざま容貌(かたち)など、いとかくしも具(ぐ)したらむとは、え推し量り給はじ。いとよくすき給ひぬべき心、惑はさむ」と構へ歩(あり)き給ふなりけり。まことのわが姫君をば、かくしももて騒ぎ給はじ、うたてある御心なりけり。他方(ことかた)より、やをらすべり出でて渡り給ひぬ。

【現代語訳】
 源氏の君が妙にお一人で心ときめかせ待ち構えていらっしゃるともご存じなく、兵部卿宮は姫君(玉鬘)から色よいお返事があった嬉しさに、たいそう忍びやかにしておいでになった。妻戸の間に御座をお敷きになり御几帳だけを隔てにして、宮の座を用意なさった。源氏の君がたいそう心配りして、空薫物を奥ゆかしいほどに匂わせて世話をやいていらっしゃるご様子は、親というより面倒なおせっかい人といったところだが、そうは言ってもさすがに優しくおありである。宰相の君なども宮へのお返事のお取次ぎを忘れて恥ずかしそうに座っているのを、源氏の君が「何をぐずぐずしているのか」とおつねりになるので、いよいよ当人は困り果てている。夕闇の頃が過ぎ、月がぼんやりして空も曇っている折から、物静かにしていらっしゃる宮の御気配も風情があった。内からただよってくる追風にかぐわしい香(こう)の匂いが加わって一段と深い香りが満ち、宮は、予想していた以上にみやびな姫のご気配にお心惹かれなさる。思う心の様をお口に出して打ち明けられる言葉は、落ち着きがあり、むやみに色めいたものではなく、全く格別である。源氏の君も感心なさりながら、ほのかに聞いていらっしゃる。

 姫君は、東座敷に引き籠って休んでいらっしゃったが、宰相の君が取次ぎに入ってきたのに源氏の君が一緒について来て、「嫌がっているようなお扱いです。何事もほどほどになさるのが好ましいのです。ただ子供っぽくなさるご年齢でもございません。この宮には、遠ざけて人づてにお返事申し上げるようなことをしてはなりません。直接お話しはなさらずとも、せめてもう少し近くにお寄りなさい」などとお諭しなさるけれど、姫君は途方に暮れるし、それにかこつけて部屋の中にお入りになりそうで、どちらにしても困ったことなので、そっと抜け出て、母屋の側の御几帳のそばで臥せっていらっしゃる。

 兵部卿宮が、様々に訴えなさるお言葉にお答えせずぐずぐずしておられると、そこへ源氏の君が近くお寄りになり、御几帳の帷子を一枚お上げになるのと同時に、何か光るものをぱっとお差出しになったので、姫君は、紙燭をさし出したのかとびっくりする。この夕方に、螢をたくさん薄い帷子に包んでおいて、外に光が漏れないように隠していらっしゃったのを、さりげなく帷子を繕うふりをしてお放ちになったのである。急に辺りが明るく照らし出されたので、びっくりして扇でお隠しになった横顔がとても美しい。源氏の君は「突然の光が見えれば宮もお覗きになるだろう。私の娘だと思い込んでいらっしゃればこそ、ここまで熱心なのだろうが、気立てや器量などがこんなに備わっていようとはまさかお思いではあるまい。その熱心な宮の心を惑わしてやろう」と、趣向を凝らして動き回っていらっしゃるのだ。本当のご自分の娘なら、かような騒ぎはなさるまい、困ったお心である。源氏の君は、別の戸口からそっと外に出て行っておしまいになった。

(二)
 宮は、人のおはする程、さばかりと推し量り給ふが、少し気近きけはひするに、御心ときめきせられ給ひて、えならぬ羅(うすもの)の帷子(かたびら)の隙(ひま)より見入れ給へるに、一間(ひとま)ばかり隔てたる見わたしに、かくおぼえなき光のうちほのめくを、をかしと見給ふ。程もなく紛らはして隠しつ。されどほのかなる光、艶(えん)なる事のつまにもしつべく見ゆ。ほのかなれど、そびやかに臥し給へりつる様体(やうだい)のをかしかりつるを、飽かず思して、げに案のごと御心にしみにけり。

鳴く声も聞こえぬ虫の思ひだに人の消(け)つにはきゆるものかは

思ひ知り給ひぬや」と聞こえ給ふ。かやうの御返しを、思ひまはさむもねぢけたれば、疾(と)きばかりをぞ、

 声はせで身をのみこがす螢こそ言ふよりまさる思ひなるらめ

など、はかなく聞こえなして、御みづからはひき入り給ひにければ、いと遙かにもてなし給ふ憂(うれ)はしさを、いみじく恨み聞こえ給ふ。すきずきしきやうなれば、居給ひも明かさで、軒の雫(しづく)も苦しさに、濡れ濡れ、夜深く出で給ひぬ。時鳥(ほととぎす)など必ずうち鳴きけむかし。うるさければこそ聞きもとどめね。御けはひなどのなまめかしさは、いとよく大臣の君に似奉り給へり、と人々もめで聞こえけり。昨夜(よべ)いと女親(めおや)だちて、つくろひ給ひし御けはひを、内々は知らで、あはれにかたじけなしと皆言ふ。

【現代語訳】
 兵部卿宮は、姫君がいらっしゃるのはあの辺りかと推測なさるが、それより少し近い感じがするので、心をときめかせ、美しい薄物の帷子の隙間から中をお覗きになると、一間ほど隔てた目の前に思いがけない光が明るくほのめくのを、美しいとご覧になる。と、ほどなく女房たちがその光を隠してしまった。しかし、ほのかに見えた光は、男女の秘め事のきっかけともなりそうに見えた。ほんの少しだったが、すらりとした身を横にしていらした姿が美しく見えたのを、宮は忘れ難くお思いになり、案の定この趣向は宮のお心に染みたのだった。

(兵部卿宮)「
鳴く声も聞こえない蛍の思いさえ、人が消そうとして消えないのに、まして私の思いはどうして消せるものでしょうか。

お分かり下さったでしょうか」と申し上げなさる。姫君は、この場合のご返歌に長々と思案するのもおかしいので、早くお返事することだけを取り柄として、

(玉鬘)
声を出さずその身だけを焦がす螢こそ、口に出して言うよりももっと、その思いは深いのでしょうね。

など、つれないお返事をして自らは奥に引き入ってしまわれたので、宮はひどくよそよそしいもてなしを辛く思い、くどくどとお恨みになる。しかし、好色めいてしまうので、座り込んだまま夜を明かすことはなさらず、軒の雫のしたたるのを聞くのも苦しくて、露に濡れながら夜深いうちに退出なさった。ほととぎすもきっと鳴いたことだろう。そういうところまでは煩わしいので聞き取ることもしなかった。宮のご気配のなまめかしさはまことに源氏の君によく似ていらっしゃると、女房たちもおほめ申し上げるのだった。昨夜の女親のように甲斐甲斐しいお世話のやり方を、内情を知らずに、たいそうもったいないように皆で言っている。

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■物語論

(一)
 殿も、こなたかなたにかかる物どもの散りつつ、御目に離れねば、「あなむつかし。女こそ物うるさがらず、人に欺かれむと生まれたるものなれ。ここらの中にまことはいと少なからむを、かつ知る知る、かかるすずろごとに心を移し、はかられ給ひて、暑かはしき五月雨(さみだれ)の、髪の乱るるも知らで書き給ふよ」とて、笑ひ給ふものから、また、「かかる世の古事(ふるごと)ならでは、げに何をか紛るることなきつれづれを慰めまし。さてもこのいつはりどもの中に、げにさもあらむとあはれを見せ、つきづきしく続けたる、はた、はかなしごとと知りながら、いたづらに心動き、らうたげなる姫君の物思へる見るに、かた心つくかし。またいとあるまじき事かなと見る見る、おどろおどろしくとりなしけるが目驚きて、静かにまた聞くたびぞ憎けれど、ふとをかしき節、あらはなるなどもあるべし。このごろ幼き人の、女房などに時々読まするを立ち聞けば、物よく言ふ者の世にあるべきかな、そらごとをよくし慣れたる口つきよりぞ言ひ出だすらむと覚ゆれど、さしもあらじや」と宣へば、「げにいつはり慣れたる人や、さまざまにさも酌(く)み侍らむ。ただいとまことの事とこそ思う給へられけれ」とて、硯(すずり)を押しやり給へば、「こちなくも聞こえおとしてけるかな。神代(かみよ)より世にある事を記(しる)し置きけるななり。日本紀(にほんぎ)などは、ただかたそばぞかし。これらにこそ道々(みちみち)しく詳しき事はあらめ」とて、笑ひ給ふ。

【現代語訳】
 源氏の君は、あちらこちらに絵物語が散らかっているのがお目につくので、玉鬘に、「ああ鬱陶しい。女というのはうるさがりもせず、人に騙されるように生まれついているのですね。たくさんの物語の中に真実はとても少ないでしょうに、そうと知りつつ、こうしたいい加減な話にうつつを抜かし、本気になさったりして、暑苦しい五月雨どきに、髪が乱れるのも気づかずにお書き写しになることよ」とお笑いになるものの、また、「このような古い物語がなければ、全く他にどうやって紛らわしようのない退屈を慰められましょう。それに作り話の中にも、なるほどそんなこともあろうかと同感し、もっともらしく書き続けてあるのは、たわいもないことと知りながらも、わけもなく感動するもので、可愛らしい姫君が物思いに沈んでいる姿にいくらか心が惹かれるものですよ。また、あり得ないことだと思いながら、大げさな書きぶりに目を奪われ、後で落ち着いて考えると、こんなことがあるものかと腹が立つけれど、それでもふと感心させられる一節が書かれていることもあるでしょう。この頃、幼い明石の姫君に女房などが読み聞かせるのを立ち聞くと、世の中には話のうまい者がいるのだな、さぞかし嘘をつき慣れた口から出るのだろうと思いますが、そうでもないのでしょうか」とおっしゃると、玉鬘は「仰せのように、いつも嘘をつき馴れていらっしゃる人は、様々に人の気持ちに入り込むのでしょう。でも、私にはまことのこととしか思われません」といって、硯をおそばから押しやりなさるので、源氏の君は「これは不風流にも物語をけなしてしまいました。物語というものは神代から世に起こったことを書き残したものだといいます。日本紀(日本書紀)などはほんの片端にすぎません。これらの物語にこそ、世の道理にかなった詳しいことを書いてあるのでしょう」とおっしゃって、お笑いになる。

(二)
 「その人の上とて、ありのままに言ひ出づることこそなけれ、良きも悪しきも、世に経(ふ)る人の有様の、見るにも飽かず、聞くにもあまる事を、後の世にも言ひ伝へさせまほしき節々を、心に籠(こ)め難くて、言ひ置き始めたるなり。良きさまに言ふとては、よき事の限り選(え)り出でて、人に従はむとては、また悪しきさまのめづらしき事を取り集めたる、皆かたがたにつけたる、この世の外(ほか)の事ならずかし。人の朝廷(みかど)のざえ作りやうかはる、同じやまとの国の事なれば、昔今(むかしいま)のに変はるべし、深きこと浅きことのけぢめこそあらめ、ひたぶるに虚言(そらごと)と言ひはてむも、事の心違(たが)ひてなむありける。

 仏の、いとうるはしき心にて説き置き給へる御法(みのり)も、方便といふことありて、悟りなき者は、ここかしこ違(たが)ふ疑ひを置きつべくなむ。方等経(はうどうきやう)の中に多かれど、言ひもてゆけば、一つ旨(むね)にありて、菩提(ぼだい)と煩悩(ぼんなう)との隔たりなむ、この、人の良き悪しきばかりの事は変はりける。よく言へば、すべて何事も空しからずなりぬや」と、物語をいとわざとのことに宣ひなしつ。

【現代語訳】
 「いったい物語というものは、その人の身の上をありのままに書き記すことはないとしても、良いことも悪いことも世間にある人の有様であり、見ても見飽きず、聞いてもそのままにしてはおけない、後の世にも語り伝えたい、と思う事柄の一つ一つを心に包みきれず書き記したのが始まりなのです。物語の中の人を良いように言うには良いことばかりを選んで書き、また読者の興味を惹こうとすれば滅多にないようなことを多く書きつらねる。その良いこと悪いことのいずれもこの世の外のことではありません。異国の朝廷の物語でも書きようは変わるし、同じ日本の国のものであっても、昔と今で書きようが変わるのは当然です。内容に深い浅いの違いはあるでしょうが、それらを全て作りごとと言ってしまうのも実情を無視したことになります。仏がたいそう立派な心で説きおかれた御法文にも、方便ということがあって、悟りのない者はあちこち矛盾するという疑い抱くかもしれません。方便の説は方等経の中に多いのですが、つきつめれば一つの趣旨に行き着くのであって、菩提と煩悩との隔たりは物語中の善人と悪人との違いのようなものです。よく言えば何事も無益なものはないということになるのです」と、物語をことさら立派なもののようにご説明なさった。

(注)方等経・・・大乗仏教の法を説く経典の総称。
(注)菩提・・・悟りの境地。

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■内大臣の行方不明の娘

 内大臣は、御子ども腹々(はらばら)いと多かるに、その生ひ出でたるおぼえ人柄に従ひつつ、心に任せたるやうなるおぼえ、御勢ひにて、皆なし立て給ふ。女(むすめ)はあまたもおはせぬを、女御もかく思しし事の滞り給ひ、姫君もかく事たがふふさまにてものし給へば、いと口惜しと思す。かの撫子(なでしこ)を忘れたまはず、物の折りにも語り出で給ひし事なれば、「いかになりにけむ。物はかなかりける親の心に引かれて、らうたげなりし人を、行く方知らずなりにたること。すべて女子(をんなご)と言はむものなむ、いかにもいかにも目放つまじかりける。さかしらにわが子と言ひて、あやしきさまにてはふれやすらむ。とてもかくても聞こえ出で来(こ)ば」と、あはれに思しわたる。君達にも、「もしさやうなる名乗りする人あらば、耳とどめよ。心のすさびに任せて、さるまじき事も多かりし中に、これはいと、しかおしなべての際(きは)にも思はざりし人の、はかなき物倦(うむ)じをして、かく少なかりけるもののくさはひ一つを失ひたることの口惜しきこと」と、常に宣ひ出づ。中頃などはさしもあらず、うち忘れ給ひけるを、人のさまざまにつけて、女子(をんなご)かしづき給へる類(たぐひ)どもに、わが思ほすにしもかなはぬが、いと心憂く本意(ほい)なく思すなりけり。

 夢見給ひて、いとよく合はする者召して、合はせ給ひけるに、「もし年ごろ御心に知られ給はぬ御子を、人の物になして、聞こし召し出づることや」と聞こえたりければ、「女子(をんなご)の人の子になる事はをさをさなしかし。いかなる事にかあらむ」など、この頃ぞ思し宣ふべかめる。

【現代語訳】
 内大臣は、御子たちが方々の腹に大勢いるので、その母方の身分や本人の人柄に応じて、何事も思い通りになる御威勢なので、それぞれ立派な地位にお立てになったが、姫君はそう多くもおありでないのに、女御(冷泉帝の弘徽殿女御)もせっかくの御本意が遂げられず、姫君(雲井の雁)もあのような手違いで入内もなさらずにいらっしゃるので、ひどく残念にお思いになる。そして、あの撫子(夕顔の子、玉鬘のこと)のことをお忘れにならず、何かの折にもお話になったことであるので、「今頃はどうなっているだろうか。はかなげな母親の心に似て可愛らしい娘だったが、行方知れずになってしまったことよ。すべて女の子というものは、何があっても決して目を離してはならないものだ。勝手に私の子だと言って、みじめな境遇でうろついているのではないか。とにもかくにも名乗り出て来てさえくれれば」と、ずっと案じ続けていらっしゃる。ご子息たちにも「もしそのような名乗りをする者があれば、気をつけていてくれ。私も若い頃は好き心のままにけしからぬ事もだいぶしてきたが、これ(夕顔)は他の多くの女たちと同じには思っていなかったのに、つまらない心隔てをして姿を消してしまい、ただでさえ数少ない娘の一人を失ったのが残念で」などと、いつも口にお出しになる。ひと頃はそれほどでもなく、お忘れになっていたこともあったのだが、他のお方がさまざまに娘を可愛がっていらっしゃるので、自分がそのようにおできにならないのを、ひどく残念で不本意なこととお思いになっている。

 ある晩、夢をご覧になって、夢占いの上手な者を呼んで占わせなさったところ、「もしや長年お忘れの御子が、人の養女になっているとお聞きになるかもしれません」と申し上げるので、内大臣は「女の子が人の子になることなど滅多にないだろうに。一体どういうわけなのだろう」などと、この頃になってお思いになったり、口になさったりしているらしい。

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常夏(とこなつ)

■源氏と玉鬘の唱和

 「しばしも弾き給はなむ。聞きとる事もや」と心もとなきに、この御事によりぞ、近くゐざり寄りて、「いかなる風の吹き添ひて、かくは響き侍るぞとよ」とて、うち傾(かたぶ)き給へるさま、灯影(ほかげ)にいと美しげなり。笑ひ給ひて、「耳固からぬ人のためには、身にしむ風も吹き添ふかし」とて、押しやり給ふ。いと心やまし。人々近く侍へば、例の戯(たはぶ)れごともえ聞こえ給はで、「撫子(なでしこ)を飽かでもこの人々の立ち去りぬるかな。いかで、大臣(おとど)にも、この花園(はなぞの)見せ奉らむ。世もいと常なきを、と思ふに、いにしへも物のついでに語り出で給へりしも、ただ今の事とぞ覚ゆる」とて、少し宣ひ出でたるにも、いとあはれなり。

なでしこのとこなつかしき色を見ばもとの垣根を人やたづねむ

この事のわづらはしさにこそ、繭(まゆ)ごもりも心苦しう思ひ聞こゆれ」と宣ふ。君うち泣きて、

 山がつの垣ほに生ひしなでしこのもとの根ざしを誰か尋ねむ

はかなげに聞こえない給へるさま、げにいと懐かしく若やかなり。「来(こ)ざらましかば」とうち誦(ず)し給ひて、いとどしき御心は、苦しきまで、なほえ忍びはつまじく思さる。

【現代語訳】
 姫君(玉鬘)は、「大臣がしばらくでも弾いて下さったら聞き覚えることもできようか」と気が気でなく、ただ琴のことを知りたいばかりに近くにいざり寄って、「どんな風が吹き添って、こうも素晴らしく響き渡るのでしょうか」と首を傾けていらっしゃるお姿は、燈火の下でとても可憐に見える。源氏の君はお笑いになって、「耳の固くないお人のためには、身に沁むような風が吹き添うものですよ」と、和琴を押しやりなさる。姫君はにわかに嫌なお気持ちになるが、女房たちがお側近くに控えているので、源氏の君はいつものような戯れ言もおっしゃらないで、「あの人たちは撫子を十分に見ないうちに立ち去ってしまいました。どうにかして内大臣にもこの花園をお見せしたい。世の中を無常なことよと思いますにつけても、昔、内大臣が何かのついでにあなたのことをお話になったのも、つい昨日のように思えます」と少し語りだされたのも、感無量であった。

(源氏)
なでしこの娘のいつも変わらないやさしい色を見ていると、人(内大臣)は、その素性を探し求めるでしょう。

それがわずらわしいので、あなたを隠しているのですが、気の毒に思います」とおっしゃる。姫君は泣いて、

(玉鬘)
いやしい山家の垣根に生えた撫子の素性なんて、誰が探したりするでしょうか。

と、心細そうに仰せになる様はいかにも心惹かれるほど初々しい。源氏の君は「来ざらましかば」とお口ずさみになって、ひとしお募る思いは苦しいほどで、やはりこのまま我慢しきれないようにお思いになる。

(注)「耳固からぬ人のためには、身にしむ風も吹き添ふかし」・・・琴には耳の敏いあなたが、私の思いには耳を傾けてくれないという恨み言。

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■源氏の思案

 なぞ、かくあいなきわざをして、安からぬ物思ひをすらむ、さ思はじとて、心のままにもあらば、世の人の譏(そし)り言はむことの軽々しさ、わが為をばさるものにて、この人の御為いとほしかるべし、限りなき心ざしといふとも、春の上の御おぼえに並ぶばかりは、わが心ながらえあるまじく思し知りたり。

 「さてその劣りの列(つら)にては、何ばかりかはあらむ。わが身一つこそ人よりは異なれ、見む人のあまたが中にかかづらはむ末(すゑ)にては、何の覚えかはたけからむ。異なることなき納言の際(きは)の、二心(ふたごころ)なくて思はむには、劣りぬべき事ぞ」と、自ら思し知るに、いといとほしくて、「宮、大将などにやゆるしてまし。さてもて離れ、いざなひ取りては、思ひも絶えなむや。言ふかひなきにても、さもしてむ」と思す折もあり。

 されど渡りたまひて、御容貌(かたち)を見給ひ、今は御琴(こと)教へ奉り給ふにさへことつけて、近やかに馴れ寄り給ふ。姫君も、はじめこそ、「むくつけく、うたて」とも思ひ給ひしか、「かくてもなだらかに、うしろめたき御心はあらざりけり」と、やうやう目慣れて、いとしも疎み聞こえ給はず、さるべき御答(いら)へも、馴れ馴れしからぬ程に聞こえ交はしなどして、見るままに、いと愛敬(あいぎやう)づき、かをりまさり給へれば、なほさてもえ過ぐしやるまじく思し返す。

【現代語訳】
 
源氏の君は、どうしてこう理不尽なことをして落ち着かない物思いをするのだろう、そんなに苦しむのならば思いのままに振舞う道もないではないが、それでは世間の人たちが何と言うか、軽々しいという非難を自分が受ける不面目はさておくとして、この姫君の御為にはお気の毒であるに違いない、どれほど姫君を大切に存じ上げているとはいっても、春の上(紫の上)と同じお扱いをすることはできない」と自覚しておられるのだった。

 「そうかといって、それ以下の人たちと同じにしたとしてどれほどの見栄えがあろう。私の身分こそ別格だが、女君が多くいる中にその末席に連なるのでは、さして名誉なことでもあるまい。それくらいなら、取り立てて言うほどでもない大納言などの身分の男に、ただ一人の妻として愛される方ががずっとましであろう」と、ご自分でも分かっておられるので、姫君のことがたいそうおいたわしくて、「いっそ、兵部卿宮か髭黒の大将などに許してしまおうか。側にいなくなったら諦めもつくだろう。つまらないようではあるが、そうしよう」とお思いになる時もある。

 それでもお渡りになってお姿を御覧になり、今では和琴をお教えするという口実ができたのでお側に近づくのが常になっていらっしゃるし、姫君のほうも初めこそ気味悪く嫌にお思いであったが、「こうしていても穏やかで、油断ならない御心はなかったのだ」と、しだいに慣れてきて、それほどお嫌がりにならず、しかるべき折の遣り取りなども親密すぎない程度に交わされたりなさって、会えば会うほど親しみが増し、お美しさが増すので、源氏の殿はやはり結婚させてはならないと気がお変わりになる。

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■内大臣と近江の君

 「かくてものし給ふは、つきなくうひうひしくなどやある。こと繁くのみありて、とぶらひ参うでずや」と宣へば、例のいと舌疾(したど)にて、「かくて侍ふは、何の物思ひか侍らむ。年頃おぼつかなく、ゆかしく思ひ聞こえさせし御顔、常にえ見奉らぬばかりこそ、手打たぬ心地し侍れ」と聞こえ給ふ。「げに、身に近く使ふ人もをさをさなきに、さやうにても見ならし奉らむと、かねては思ひしかど、えさしもあるまじきわざなりけり。なべての仕うまつり人こそ、とあるもかかるも、おのづから立ち交じらひて、人の耳をも目をも、必ずしもとどめぬものなれば、心安かべかめれ。それだにその人の女(むすめ)、かの人の子と知らるる際(きは)になれば、親兄弟(おやはらから)の面伏(おもてぶせ)なる類(たぐひ)多かめり。まして」と宣ひさしつる、御気色の恥づかしきも知らず、「何かそは。ことごとしく思ひ給ヘて交じらひ侍らばこそ、所狭(せ)からめ。御大壺(おほみおほつぼ)とりにも、仕うまつりなむ」と聞こえ給へば、え念じ給はで、うち笑ひ給ひて、「似つかはしからぬ役ななり。かくたまさかに逢へる親の孝(けう)せむの心あらば、このもの宣ふ声を、少しのどめて聞かせ給へ。さらば命も延びなむかし」と、をこめい給へる大臣(おとど)にて、ほほ笑みて宣ふ。

「舌の本性(ほんじやう)にこそは侍らめ。幼く侍りし時だに、故母の常に苦しがり教へ侍りし。妙法寺(めうほふじ)の別当(べたう)大徳(だいとこ)の産屋(うぶや)に侍りける、あえものとなむ嘆き侍りたうびし。いかでこの舌疾(したど)さ、やめ侍らむ」と思ひ騒ぎたるも、いと孝養(けうやう)の心深く、あはれなりと見給ふ。「その気(け)け近く入り立ちたりけむ大徳こそは、あぢきなかりけれ。ただその罪の報(むくい)ななり。瘖(おし)言吃(ことどもり)とぞ、大乗(だいぞう)(そし)りたる罪にも、数へたるかし」と宣ひて、「子ながら恥づかしくおはする御さまに、見え奉らむこそ恥づかしけれ。いかに定めて、かくあやしきけはひも尋ねず迎へ寄せけむ」と思し、人々もあまた見つぎ、言ひ散らさむこと、と思ひ返し給ふ。

【現代語訳】
 内大臣が、「こうしてここにいらっしゃるのは、何か落ち着かず窮屈ではありませんか。何かと忙しいので伺う暇もなくて」とおっしゃると、近江の君は例の早口で、「こうしてここに居させて頂いておりますのに、何の不満がございましょう。長年お会いしたいと存じ上げていましたお顔を始終拝見できないことだけが、双六のよい目が出ないような気持で」と申される。内大臣は「なるほど私には身近に召し使う人も殆どないので、そういう役にでもして常に私の身近にいられるようにと、かねて思っていましたが、やはりそうするわけにもいきません。普通の奉公人であれば、誰であろうと自然と大勢に立ちまじって、そう人の注意を引くこともないので気楽でいられるでしょう。しかしそれでさえ、あれは誰の娘だとかあの人の子だとか知られる程になると、親兄弟の面汚しとなる例が多いようです。まして」とおっしゃりかけて、それ以上は言い淀んでいらっしゃるが、近江の君は意にも介さず、「それは何ということもございません。大層に思ってお仕えするのであれば窮屈でしょうけれど。御大壺(便器)の係りでもしてお仕えしましょう」と申し上げると、内大臣は我慢しきれずにお笑いになって、「それはあなたに似つかわしくない役のようですね。このように偶然に会った親の私に孝行しようという気があるなら、その物のおっしゃり方をもう少しゆっくりなすってください。そうすれば私の命も延びるでしょうよ」と、おどけたところのおありになる大臣なので、ほほ笑んでおっしゃる。

 近江の君は、「これは生まれつきの舌なのでございましょう。幼い時でさえ、亡くなった母がいつも嫌がって叱りました。妙法寺の別当大徳が産屋に詰めておりましたので、大徳の早口がうつったのだろうと嘆いておられました。何とかしてこの早口を直しましょう」と思案しているのも、まことに親孝行の気持ちが深く感心なことだと内大臣はお感じになる。内大臣は「その産屋に入り込んでいた徳が悪いのですね。早口は間違いなくその罪の報いでしょう。『おし』と『どもり』は法華経を誹った罰としても数えていますからね」とおっしゃって、「わが子ながら、やんごとない有様の女御の君(弘徽殿女御)に、このような娘をお目にかけるのはまことに恥ずかしいことだ。こんな怪しげな育ちの娘をどういうつもりで調べもせず引き取ったのだろうか」、また「多くの人々が見て、それからそれへと言いふらすだろう」とお思いになる。

(注)大乗・・・大乗仏典。法華経。

(注)現代語訳は、現代文としての不自然さをなくすため、必ずしも直訳ではない箇所があります。

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「玉鬘」のあらすじ

(源氏 35歳)
(玉鬘 21歳)
(紫の上 27歳)


年月が経っても、源氏は亡き夕顔のことが忘れられずにいた。その夕顔と内大臣(頭中将)との間に生まれた玉鬘(たまかずら)は、3歳の時、夫が大宰少弐に任官した乳母(太宰少弐の妻)の一家とともに筑紫へ下った。夫の太宰少弐の任期は満ちたものの、その地で亡くなってしまい、乳母は玉鬘をつれて都へ上る術もないまま年月が流れた。17年がたち、玉鬘は美しく成長した。肥後国に勢力を誇った豪族・大夫監(たいふのげん)が強引に求婚してきたので、乳母は長男の豊後介(ぶんごのすけ)と相談し、玉鬘をつれて急ぎ筑紫を逃げ出して上京した。

玉鬘の一行はやっとの思いで京に着いたものの、どこにも頼るところがない。途方に暮れ、6か月間もさすらい同様の生活が続き、もはや神仏にすがるほかないと、初瀬(長谷寺)詣でを思い立つ。椿市(つばいち)の宿に宿泊し、その時、偶然に、かつての夕顔の侍女で、今は紫の上方の女房となっている右近(うこん)と出会った。その縁から玉鬘は源氏に引き取られ、六条院の夏の御殿の西の対に住むことになった。豊後介は源氏の家司(けいし)となった。

その年の暮れ、源氏は六条院や二条東院に暮らす女君たちに新年の晴れ着を贈った。


※巻名の「玉鬘」は、源氏の歌「恋ひわたる身はそれなれど玉鬘いかなる筋を訪ね来つらむ」が由来となっている。玉鬘は毛髪の美称。毛髪は自分の意に反して伸び続けることから、文学では古来「どうにもならないこと」や「運命」を象徴する。

「初音」のあらすじ

(源氏 36歳)
(明石の上 27歳)
(明石の姫君 8歳)
(玉鬘 22歳)
(紫の上 28歳)
(夕霧 15歳)


年が明けた元日の朝、源氏は六条院で紫の上と仲睦まじく新春を祝い、和歌を詠み交わした。紫の上の住む春の御殿の華やかさは格別である。そして、源氏は六条院の女君たちを順次、年賀に訪れる。まず明石の姫君のところへ行くと、母君(明石の上)からさまざまな贈り物が届けられていた。源氏は、実の娘に自由に会いに行けない明石の上の立場を思いやり、手を取るようにして姫君に返事を書かせた。

次に花散里と玉鬘を訪ねた。花散里は容姿は衰えたものの、気立ては相変わらずで、源氏にとっては心の落ち着く存在だった。二日、上達部や親王らが新年の挨拶に来たが、年の若いものは皆、今を盛りに美しい玉鬘を意識してそわそわしていた。夕方には二条の東院に、末摘花と、今は尼となった空蝉を訪ねた。二条の東院は六条院に比べると地味な光景で、末摘花は和歌や物語の勉強にうちこみ、空蝉は仏道に励んでいた。その他にも、世話をしている女性たちのもとに、まめに顔を出してまわった。

今年は男踏歌(おとことうか)がある年である。男踏歌とは、正月14日に、四位以下の殿上人、地下人が催馬楽を歌いながら貴族の邸などを回る行事のこと。その行列は夜明けごろに六条院に入った。薄雪の庭に心和む歌や舞を、婦人たちは衣装をこらして見物した。行列には夕霧や内大臣の子息たちも交じっていて、源氏は夕霧の歌声を褒めた。


※巻名の「初音」は、元日に明石の君がわが子の姫君に贈った歌と、その返歌を源氏が姫君に詠ませる場面が由来となっている。明石の君「年月をまつに引かれてふる人に今日鶯の初音聞かせよ」。

「胡蝶」のあらすじ

(源氏 36歳)
(玉鬘 22歳)
(紫の上 28歳)
(秋好中宮 27歳)


3月下旬、六条院の春の御殿(紫の上の御殿)で舟楽(楽人が舟に乗って雅楽を奏する)が催された。秋好中宮はこのころ里下りしていたので、中宮の女房たちにもこの催しを見せようと、舟が差し向けられた。。女房たちを乗せた舟が池に入ると、華やかな楽の音が鳴り渡り、まるで知らない国に来たようであった。宴は明け方まで続いた。

玉鬘の美しさは評判の的となり、たくさんの公達から恋文が寄せられた。源氏の弟の蛍兵部卿宮は自分の妻にと望み、内大臣の子の柏木は実の妹とも知らずに思いを寄せた。源氏は恋文を審査し、玉鬘の侍女・右近を召して手紙の返し方について事細かに指示するが、内心では自分も次第に玉鬘の美しさに心引かれていく。しきりに玉鬘のところへ足を運び、しまいには胸に秘めた思いを玉鬘に吐露してしまう。親子の愛情にもう一つの愛情が加わるだけだと口説くが、玉鬘は困惑し動揺する。


※巻名の「胡蝶」は、紫の上と秋好中宮との贈答歌が由来となっている。紫の上「花園の胡蝶をさへや下草に 秋まつ虫はうとく見るらむ」。秋好中宮「胡蝶にも誘はれなまし心ありて八重山吹を隔てざりせば」

「蛍」のあらすじ

(源氏36歳)
(玉鬘22歳)
(紫の上28歳)


玉鬘は源氏の心を測りかねて悩んでいた。一方、養父であるはずの源氏も、わがあやしい恋情に苦しんだ。これ以上深入りしてはいけないと自戒するも、相変わらず暇を見つけては玉鬘のもとへ通い、ついつい口説き文句を並べ立てては玉鬘を困らせてしまう。立派な養父と尊敬していただけに、よけいに苦しむ。

 五月雨のころ、源氏は兵部卿の宮の恋文を見て、玉鬘に返事を書くように勧める。玉鬘が書こうとしないので、源氏は宰相の君に代筆させてねんごろな文を書かせた。思わぬ色よい返事をもらった兵部卿の宮が、心をときめきかせながら玉鬘を訪ねてきた。源氏は折を見て多くの蛍を玉鬘の近くに放った。その光に照らされた玉鬘の美しさに宮は魅せられてしまい、恋心はいっそう悩ましいものとなった。玉鬘は、恋心を吐露するかと思えば、他の男との交際を勧める行動にでる源氏に対し、ますます困惑する。

 長引く梅雨に、所在ない婦人たちは絵物語を読んだりして日を過ごしていた。玉鬘も絵物語に熱中している。源氏が玉鬘のもとにやって来て、物語論を展開する。その一方で、実子の明石の姫君を養育している紫の上に対しては、恋愛描写が多いなどの教育によろしくない絵物語は見せないようにと聞かせた。

 夕霧は相変わらず雲居雁を恋しく思い続け、柏木は玉鬘を慕い、その取り持ちを夕霧に頼んだが、夕霧は相手にならなかった。

 内大臣(頭中将)の子は男子が多く、数少ない娘・弘徽殿女御を中宮にすることがかなわず、雲居雁も夕霧の件でけちがついたため、常々残念がっていた。せめて離れ離れになってしまった夕顔とその娘がそばにいればと思い、娘を探し出そうとする。占い師から「長年忘れていた娘が、他人の養女になっている」と告げられ、どういうことかと訝しがる。


※巻名の「蛍」は、玉鬘の歌と本文の記述が由来となっている。「声はせで身をのみこがす蛍こそ言ふよりまさる思ひなるらめ」

「常夏」のあらすじ

(源氏 36歳)
(夕霧 15歳)
(玉鬘 22歳)
(雲居雁 17歳)
(弘徽殿女御 19歳)


夏の暑い日、源氏は夕霧や内大臣(頭の中将)の息子たちと東の釣殿(つりどの)で涼んでいた。源氏は、夕霧と雲居雁の仲を認めない内大臣を快く思っていなかった。内大臣は、近江の国から娘だと名のり出た女性(近江の君)を、息子の柏木に検分させて手もとに引き取った。その噂を聞いた源氏は、内大臣には子どもが多いのに今さら欲の深いことだと思い、若い頃に遊び歩いた内大臣らしい顛末だと痛烈に皮肉った。

玉鬘は、父の頭の中将が琴の名手だったことを源氏から聞き、自分も弾いてみたくなった。源氏は玉鬘に和琴を与えて教え、それによって玉鬘と会う回数を増やしていった。源氏の玉鬘に対する恋情は募る一方であり、自分でもなぜこのような無益な恋に辛い思いをするのかと煩悶する。

源氏が探し出したという姫君はこれ以上ないほどの評判だというのに、内大臣が引き取った近江の君は、やたら落ち着きがなく早口で無教養な女であったため、きわめて評判がよろしくない。後悔する内大臣は処置に困り、弘徽殿の女御に預けて行儀見習いでもさせようと思った。また、玉鬘は本当に源氏の子だろうかと疑い始めた。


※巻名の「常夏」は、源氏の歌「撫子のとこなつかしき色を見ばもとの垣根を人やたづねむ」が由来となっている。常夏は撫子の異称。

語 句

あいなし
 気に入らない。不快である。つまらない。不似合いだ。「あいなく」は、わけもなく。

あえかなり
 か弱い。華奢だ。繊細だ。

あくがる
 心が体から離れてさまよう。うわの空にある。どこともなく出歩く。心が離れる。疎遠になる。

あさまし
 驚くばかりだ。意外だ。情けない。興ざめだ。あきれるほどひどい。見苦しい。

あだあだし
 浮気だ。移り気だ。うわべだけで誠意がない。

あだめく
 浮気っぽく振舞う。うわつく。

あなかしこ
 ああ恐れ多い。ああ慎むべきだ。

あながちなり
 無理だ。身勝手だ。強引だ。ひたすらだ。ひたむきだ。
はなはだしい。ひどい。

あはあはし
 いかにも軽薄だ。浮ついている。

あらましごと
 予測される事柄。予想。

あらまほし
 望ましい。理想的だ。

ありありて
 このままでいて。生き長らえて。その果てに。

いかで
 どうして。どういうわけで。どうにかして。ぜひとも。

いとど
 いよいよ。いっそう。

いぶせし
 気が晴れない。うっとうしい。気がかりである。不快だ。気詰まりだ。

いまいまし
 慎むべきだ。縁起が悪い。不吉だ。憎らしい。癪にさわる。

今めく
 現代風である。

いみじ
 甚だしい。並々でない。よい。すばらしい。ひどい。恐ろしい。

うしろめたし
 先が気がかりだ。どうなるか不安だ。やましい。うしろぐらい。

うしろやすし
 気安い。先が安心だ。心配がない。

うたて
 ますますはなはだしく。いっそうひどく。

うちつけなり
 あっという間だ。軽率だ。ぶしつけだ。

うつたへに
 ことさら。まったく。

うるはし
 壮大で美しい。立派だ。きちんとしている。端正だ。きまじめで礼儀正しい。親密だ。誠実だ。色鮮やかだ。正しい。

うれたし
 しゃくだ。いまいましい。つれない。自分には辛い。

えならず
 何とも言えないほどすばらしい。

おとなぶ
 大人になる。一人前になる。大人らしくなる。大人びる。

おのがじし
 各自それぞれ。思い思いに。

おほとのごもる
 おやすみになる。

おほやけ
 朝廷。天皇。公的なこと。

かごと
 言い訳。不平。恨み言。

かしこ
 あそこ。かのところ。

かたはらいたし
 きまりが悪い。気恥ずかしい。腹立たしい。苦々しい。みっともない。気の毒である。

形見(かたみ)
 遺品。遺児。遠く別れた人の残した思い出となるもの。

くすし
 神秘的だ。不思議だ。堅苦しい。窮屈だ。

くたす
 腐らせる。無にする。やる気をなくさせる。非難する。

けざやかなり
 はっきりしている。際立っている。

けしうはあらず
 そう悪くない。まあまあだ。

げに
 なるほど。いかにも。本当に、まあ。

けらし
 ・・・たらしい。・・・たようだ。・・・たのだなあ。

心もとなし
 じれったい。待ち遠しい。不安で落ち着かない。気がかりだ。ほのかだ。かすかだ。

ことごとし
 仰々しい。いかにも大げさだ。

ことわりなり
 もっともだ。道理だ。

才(ざえ)
 学識。教養。才能。

さかしがる
 小賢しく振舞う。利口ぶる。

さはれ
 えい、ままよ。どうともなれ。それはそうだが。しかし。

さぶらふ
 お仕えする。参上する。(貴人のそばに)ございます。あります。

さらぬ
 そうではない。そのほかの。大したことではない。

消息(せうそこ)
 手紙。便り。

そこはかとなし
 どことはっきりしない。とりとめもない。何ということもない。

たいだいし
 不都合だ。もってのほかだ。

たぶ
お与えになる。下さる。

つきなし
 取り付くすべがない。手掛かりがない。ふさわしくない。

つとめて
 早朝。翌朝。

つれなし
 素知らぬふうだ。平然としている。冷淡だ。薄情だ。ままならない。

とぶらひ
 訪問すること。見舞い。

長押(なげし)
 柱の側面に取り付けて、柱と柱との間を横につなぐ材。鴨居に添える「上長押」、敷居に添える「下長押」がある。

なつかし
 心が引かれる。親しみが持てる。昔が思い出されて慕わしい。

なづさふ
 水に浮かんで漂っている。
なれ親しむ。慕い懐く。

はかなし
 頼りない。むなしい。あっけない。ちょっとしたことだ。幼い。粗末だ。

ひたぶるなり
 ひたすらだ。一途だ。いっこうに。まったく。

びんなし
 具合が悪い。都合が悪い。不便だ。感心できない。かわいそうだ。いたわしい。

ほだし
手かせ。足かせ。妨げ。

まいて
 まして。なおさら。いうまでもなく。

みづら
 男性の髪型の一つで、髪を頭の中央で左右に分け、耳のあたりで束ねて結んだもの。上代には成年男子の髪型で、平安時代には少年の髪型となった。

むくつけき
 異様で不気味だ。恐ろしい。ひどく無骨だ。

やむごとなし
 よんどころない。格別に大切だ。この上ない。高貴だ。尊ぶべきだ。

やるかたなし
 心を晴らしまぎらす方法がない。普通でない。とてつもない。

ゆゆし
 恐れ多い。はばかられる。不吉だ。忌まわしい。甚だしい。とんでもない。すばらしい。立派だ。

らうたし
 かわいらしい。いとおしい。世話してやりたくなる。

わりなし
 仕方がない。むやみやたらだ。無理やりだ。言いようがない。ひどい。この上ない。

をこなり
 間が抜けている。馬鹿げている。

をさをさ
 ほとんど。あまり。めったに。なかなかどうして。

書き写された物語

平安時代、日本には印刷技術が存在していた。だが印刷よりは手書きの写しの方が貴重とされ、文芸作品は一つ一つが書き写されて伝えられた。現代でも絵画では、印刷された複製画と画家によって描かれた一点とは価値に大きな差がある。それと同様に、文芸作品の写本は本自体が宝物だったのだ。だが、現在伝えられている『源氏物語』の写本は最も古いもので鎌倉時代。平安時代のものはない。紫式部が書いた原作の一本は、いったいどこに行ってしまったのだろうか。またそれは、今後発見されるのだろうか。

実は『紫式部日記』の中には、彰子の命で『源氏物語』の新本が作られた時、その原稿が流出してしまったことが記されている。紫式部が自宅から運んで局に隠し置いていたのだが、道長が忍び込み、探し当てて次女の東宮妃・研子に与えてしまった。だがそれは書き換え前の下原稿だった。では完成原稿はというと、彰子の新本を制作する作業の中で、散り散りになってしまっている。新本は高価な紙に能筆が書く豪華本だった。複数の書き手に書き写しを依頼した際、紫式部の完成原稿はその人たちの手元に送られたまま、結局返って来なかった。紫式部の手元には無くなってしまったのだ。

とはいえ、彰子と天皇のもとには、紫式部納得の本が残った。だがその一方、次女研子のもとには違う本が残り、伝えられることになった。これについて紫式部は「不本意な評判をとったことでございましょうね」と口惜しげに記す。この記事からは、世に伝えられた『源氏物語』には、紫式部の時点ですでに、彰子の本のもとになった完成版と、盗まれて流出した下原稿版の二種類があったことが知られる。

これらはその後、各々書き写されて広まっていったと推測される。が「物語」では書き写しの際にも、言葉が書き換えられたり書き手の感想が書き込まれたりということが日常茶飯事だった。当然『源氏物語』も同じ目に遭い、二百年を経た鎌倉時代には、「紫式部の書いた源氏物語」という原形はもう分からなくなっていた。残念だが、「物語」という扱いの壁は超えられなかったということだ。とはいえ『源氏物語』はまだいいほうで、他の物語の中には結末が変わったり全くの新作に書き換えられたりしたものが幾つもある。現存の『源氏物語』には、写本による決定的な違いはない。

~『誰も教えてくれなかった「源氏物語」本当の面白さ』から引用。

誰も教えてくれなかった『源氏物語』本当の面白さ (小学館101新書)

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