わが国が「日本」と呼ばれるようになった時期はいつだったのでしょうか。中国の歴史書で、紀元前の日本は「倭(わ)」と呼ばれていたのはご存知と思います。『漢書』地理志から『宋書』倭国伝までは、ずっと「倭」と書かれています。『隋書』倭国伝には、有名な607年の聖徳太子の国書として「日出る処の天子」という表現があるものの、「日本」とは書かれていません。
もっとも、この「倭」というのは、当時の中国や朝鮮など大陸の人々が、日本列島に住む集団または勢力を、侮蔑的な意味を込めて表現した呼び名であって、もっといえば、日本列島のみに限定していたわけでもありません。朝鮮半島南部や大陸の東シナ海沿岸を含んでいたこともあるようです。そして、当然ながら、決してこちら側から「倭」を名乗ったわけではありません。
じゃあ、日本という国号が、いつ、誰の手によって定められたのか、これについての記録がないので、正確には分かっていません。しかし、『旧唐書』東夷伝の648年の遣唐使に関する記述に「日本国は倭国の別種なり」とあり、日本と倭が混ざって使われています。そして、『新唐書』には「倭の名を悪(にく)み、更(あらた)めて日本と号す」と記されていて、これ以降は「日本」に統一されています。つまり、大化の改新のころから、日本人が自国を「日本」と呼び始めたと考えられています。
ところで、今の私たちは、日本の文化を「和風」と呼び、日本独特の様式を「和式」といい、日本料理を「和食」と称していますが、この「和」の語源は「倭」から来ているのは容易に想像できます。しかし、「倭」という呼び名も文字も憎んで捨て去ったにもかかわらず、「和風」「和式」などの言葉は今に至るまでずっと残っています。なぜかな?と思いますし、また、いくら「倭」から「和」の文字に変えたとはいえ、ちょっとわだかまりが残る感じもします。
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