皇后は、古代には「おほきさき」と呼ばれていました。律令時代以後は「皇后」と書き、それに次ぐ位として、「后」と「夫人」を置いていました。そして、日本で初めて人民出身の皇后となったのが、第45代聖武天皇の皇后となった光明皇后(安宿媛:あすかべひめ)です。
日本の皇室は、古代においては濃厚な血族結婚であり、皇后はつねに皇族から出ていました。ところが聖武天皇が皇太子だったころ、藤原不比等の三女・安宿媛を夫人にし、十数年後に皇后としたのです。しかし、前例のないことであり、宮廷内には異議もあったため、天皇はわざわざ長い詔勅を出して弁明しています。安宿媛の女性としての魅力にくわえて、どうしても皇后の地位に昇進させたい慈悲、聡明さを備えていたのでしょう。
そして、光明皇后が天皇にあたえた精神的影響力はたいへん大きかったようです。皇后は天皇に仏教を尊信することをすすめ、天皇は、日本の各地に七重の塔を持つ国分寺と国分尼寺を建立しました。さらには、この小さな島国に、唐にも天竺(インド)にも存在しない三国一の大伽藍・東大寺を建立しました。この世界的大事業には、朝鮮や中国からのみならず、インドのバラモンやトルコ人まで参加しました。
もっとも、莫大な国費を使うものであったため、事業を始めるに際し、天皇は慎重をきわめました。また、カミとホトケの関係もありました。まず天平14年(742年)に橘諸兄(たちばなのもろえ)を伊勢神宮に遣わして、この寺を建てる神勅を乞いました。また宇佐八幡宮にも勅使を出して、応神天皇の霊の託宣を得ました。そのうえで天平15年10月15日に着手することを発表、天平勝宝4年(752年)に大仏開眼供養を迎えるまで10年を費やす大事業となりました。
また光明皇后自身も、皇后宮職(皇后の日常を司る役所)に悲田院・施薬院という施設をつくり病人や孤児などの救済にあたるなど、仏教思想に基づいた社会事業に尽力しました。これらは、国からの制約を受けないよう、皇后の私財を投じてつくられたといわれます。
そして、夫の聖武太上天皇の崩御に際しては、遺品を東大寺に寄進し、今日に伝えられています。この宝物の中に、皇后が、中国の王羲之(おうぎし)筆とされる楷書の法帖を書き写した『楽毅論(がくきろん)』が残されています。正倉院の書跡中の白眉とされ、その力強く朗々たる筆跡で有名ですが、皇后の人柄に触れようとするとき、末尾に記されている「藤三娘(とうさんじょう)」という署名に注目したく思います。藤原氏の三女という意味、あるいは母・三千代の名を入れたともいわれますが、ご自身のニックネームとして使っていたのか、とても愛嬌あふれる表現です。また同時に、自分は藤原氏の娘であるという確かな誇りが滲み出ているように感じられてなりません。
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